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ポール・ブルーム著「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」を読む

本日は、比較的新しい書物でありますポール・ブルーム著「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」を読むことといたしましょう。

共感とその問題

少し前に、二つのエントリー、「天才を殺す凡人と、これからの経営」と、「世界の崩壊を防ぐアンバサダーと三種類の馬鹿」を作成したのですが、この中で凡人の評価軸が「共感性」であるということをご紹介しました。

共感性とは、その人や考え方が共感できるかどうかを評価軸とするもので、これが凡人の評価軸であるとされています。そして、凡人は圧倒的な多数存在するため、ネット上で共感が共感を呼びますと、大炎上してしまう、ということになります。

前回のエントリーの時点では、凡人は天才を殺すこともあるが、生かすこともある。そして、凡人のこの評価軸は、マーケットをとるうえでは重要であり、必ずしも否定するものではないとしておりました。

しかし今回ご紹介する書物は、共感を端から否定しております。まあ、表紙を見ればわかるのですが、9ページの関連部分をご紹介しておきましょう。

私自身も、かつてはそう考えていた。しかし今は違う。もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感には反対する。本書の目的の一つは、読者も共感に反対するよう説得することだ。

原著では、p2から以下の記述となっています。

I used to believe this as well. But now I don't. Empathy has its merits. It can be a great source of pleasure, involved in art and fiction and sports, and it can be a valuable aspect of intimate relationships. And it can sometimes spark us to do good. But on the whole, it's a poor moral guide. It grounds foolish judgments and often motivates indifference and cruelty. It can lead to irrational and unfair political decisions, it can corrode certain important relationships, such as between a doctor and a patient, and make us worse at being friends, parents, husbands, and wives. I am against empathy, and one of the goals of this book is to persuade you to be against empathy too.

さて、最初の部分で「共感」の定義について簡単にまとめています。これを更に簡単にまとめると、以下のようになります。

認知的共感:他者を理解する行為。道徳的行動の道具として使うことはできるが、善きことをなす評価としては「過大評価」されており、サイコパスには悪用されている。

他者が感じていると思しきことを自分でも感じること:心理学者や哲学者のほとんどが使用している「共感」の定義。同書はこの意味での共感に反対する。

なお、「はじめに」の部分では明確に述べられていないのですが、「思いやり」という意味での共感に関しては、ブルーム氏も否定はしておりません。

同書の構成

同書の章立ては、上で紹介いたしました「はじめに」以降、次のようになっております。

第1章:他者の立場に身を置く

この章では、共感に対するポジティブな見方を多数列挙してこれを否定します。困っている他者に対する共感は、人々を道徳的に振る舞わせるきっかけにもなるのですが、自らに近い人々により強い共感を感じるため、公平でもなければ効率的でもないという問題があります。

以下、同書64ページから結論めいた部分を引用しておきます。

ここまで私は、共感の問題をあげつらい、それがスポットライトのごとく作用し、自分が気づかっている人々をもっとも明るく照らし出すと論じてきた。しかし道徳的な判断や行動に関わる他の心理的なプロセスにも、バイアスは存在する。仮に共感力を抹消することができたとしても、つまりそれを司る脳領域を除去できたとしても、私たちは赤の他人より家族や友人を重んじようとするだろう。思いやりにも、配慮にも、費用対効果分析にさえもバイアスは存在する。いかに公正、公平、客観的であろうと努力しても、私たちには自分に資する結果を得ようとして、物事を歪める傾向がある。

だが、それには程度がある。最大の問題を孕んだ極には共感が、また中間には思いやり(単純に他者を気づかい、他者の繁栄を望む)が位置する。後者にも問題はあるが共感に比べて多くはない。

原著では、p.35から以下の記述となっています。

I've complained about the problems of empathy, how it works like a spotlight and shines brightest on those we care about. But the other psychological process involved in moral action and moral judgment are also biased. If you removed our capacity for empathy, somehow excising it from our brains, we would still care more about our families and friends than for strangers. Compassion is biased; concern is biased; and even cost-benefit reasoning is biased. Even when we try hard to be fair, impartial, and objective, we nonetheless tend to tilt things to favor the outcome that benefits ourselves.

But there is a continuum here. On the one extreme is empathy. This is the worst. Then somewhere in the middle is compassion -- simply caring for people, wanting them to thrive. This has problems as well but fewer of them, and we'll see that there is experimental evidence -- including both neuroimaging studies and research on the effects of meditative practice -- suggesting that compassion has some advantages over empathic engagement.

第2章:共感を解剖する

この章では、共感が生じる脳科学的なメカニズムについて解説いたします。

人を含む動物の脳には、他の個体の動作や感覚をコピーする「ミラーニューロン」があることが知られており、これが共感を引き起こすとする説が多く唱えられているのですが、これに対しては批判も多いとしております。そしてこの本もミラーニューロンには批判的立場をとっており、たとえば認知神経科学者のグレゴリー・ヒコックの著書「ミラーニューロン神話(The myth of mirror neurons)」を紹介しながら、以下のように述べています(81ページ)。

著書のタイトルからわかるように、ヒコックはミラーニューロンをめぐって提起されてきた主張に批判的であり、また多くの研究者は、ミラーニューロンが過剰宣伝されてきたという見方に同意している。ミラーニューロンが道徳性、共感、言語などの能力を説明するという見方に対する強力な反論の一つは、ミラーニューロンに関する発見の大部分が、マカクザルの研究によってなされたものであり、そもそもマカクザルには道徳性、共感、言語の脳力がほとんど備わっていないというものだ。ミラーニューロンはこれらの能力を支援しているのかもしれないが、それらを説明するに十分なものではありえない。

原著はp.64から以下の記述となっています。

As you might be able to tell from the title of this book, Hickok is critical of the claims that have been made about mirror neurons, and many scholars would agree that they have been overhyped. On strong objection to the view that they explain capacities such as morality, empathy, and language is that most of the findings about mirror neurons come from macaque monkeys -- and monkeys don't have much morality, empathy, or language. Mirror neurons cannot be sufficient for these capacities, then -- though they might help out with them.

第3章:善きことをなす

この章では、共感と道徳性の関係について論じられ、共感と道徳性とは無関係である、と結論付けています。

共感は、自分のよく知っている人に対して強く作用します。この共感のスポットライト的な性質は、公正さに反する判断を招いてしまいます。道徳的な判断のためには、一般的な原理を参照したり、費用と効果を比較したりする、より理性的な思考が要求されます。

幕間I:共感に基づく公共政策

ここでは、リベラルと保守主義という二つの政治的立場を比較して、リベラルがより共感力に強く結びついているとします。

それにしても、ここで紹介されているリベラルの主張は、ほとんど我が国の自民党政権の政策とほとんど同じですね。米国におけるリベラルの政策は、144ページに以下のように書かれています。

  • アメリカにおける、より厳密な銃規制を規定する法律
  • 国民皆保険制度
  • 最も高い収入を得ている人々を対象とする増税
  • マイノリティに対するアファーマティブアクション〔マイノリティの不利を、歴史的経緯や社会制度を考慮しつつ是正する措置〕
  • 地球温暖化対策としての厳格な二酸化炭素排出基準

原著はp.116から以下の記述となっています。

  • Stricter gun control laws in the United States
  • Universal health care
  • Raising income taxes for persons in the highest income-tax bracket
  • Affirmative action for minorities
  • Stricter carbon emission standards to reduce global warning

そもそも、自民党はリベラル・デモクラティック・パーティーですから、リベラル的であったところで何の不思議もないのですね。

第4章:プライベートな領域

この章では、公共的な場面ではなく、家庭内などの個人的な領域における共感の問題について議論されます。そして、過度な共感は、人々を傷つけると致します。

著者のブルーム氏は仏僧にして神経学者のマチウ・リカール氏と議論した際に、反共感力に関する本を書いているなどと語って不快に思われるのではないかと心配するのですが、案に相違して、リカール氏はそれを正しいと考えており、次のように語ってくれたのですね(170ページ)。

涅槃に至るのではなく、通常の生と死のサイクルのうちに留まって、無知な大衆を導く道を選んだ菩薩の生き方について考えてみればよい。菩薩の生き方とはいかなるものか?

哲学者のチャールズ・グッドマンは、仏教の道徳哲学を扱った本のなかで、仏教の教義では、本書でいう共感に該当する「感情的な思いやり(sentimental compassion)」と、私たちが通常思いやりと呼んでいる「偉大な思いやり(great compassion)」を区別すると述べている。かれによれば、前者は菩薩を消耗させるので避けるべきであり、追及する価値があるのは後者である。偉大な思いやりは、より距離を置いた立場をとり控えめで、いつまでも維持することができる。

共感と思いやりのこの区別は、本書の議論にとって一貫して非常に重要であり、神経科学の研究によっても支持される。あるレビュー論文の中で、タニア・シンガーと認知学者のオルガ・クリメッキは、この区別について次のように述べている。「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者と共に感じることではない」

原著はp.138から以下の記述となっています。

Consider first the life of a bodhisattva, an enlightened person who vows not to pass into Nirvana, choosing instead to stay in the normal cycle of life and death to help the unenlightened masses. How is a bodhisattva to live?

In his book on Buddhist moral philosophy, Charles Goodman notes that Buddhist texts distinguish between "sentimental compassion," which corresponds to what we would call empathy, and "great compassion," which is what we would simply call "compassion." The first is to be avoided, as it "exhausts the bodhisattva." It's the second that is worth pursuing. Great compassion is more distanced and reserved, and can be sustained indefinitely.

The distinction between empathy and compassion is critical for the argument I've been making throughout this book. And it is supported by neuroscience research. In a review article, Tania Singer and Olga Klimecki describe how they make sense of this distinction. "In contrast to empathy, compassion does not mean sharing the suffering of the other; rather, it is characterized by feelings of warmth, concern and care for the other, as well as a strong motivation to improve the other's well-being. Compassion is feeling for and not feeling with the other."

幕間II:道徳基盤としての共感

この短い章では、幼児の共感力が道徳的行為に結びつくかどうかについて議論がなされます。

結論から言えば、種々の研究がなされているが、はっきりしたことはわかっていない、ということでしょう。

第5章:暴力と残虐性

この節では、共感が時として暴力や残虐性の原因となると述べます(223ページ)。

それどころか、純粋な悪という神話はものごとを逆にとらえていると言う人もいる。この見方によれば、残虐な行為には、それをした人が意識して悪事を行おうとしてたわけではなく、自分では善きことをしていると思ってした、つまり強い道徳感覚に駆り立てられてしたものもある。ピンカーは次のように述べる。「世界は過剰な道徳性で満ちている。自家製の正義を貫徹するためになされたすべての殺人の犠牲者、宗教戦争や革命による死者、犠牲者のいない犯罪や悪事のために処刑された人々、思想的な大虐殺の犠牲者を足し合わせると、その数は間違いなく、道徳とは無縁な略奪や征服による犠牲者の数を上回るだろう」

歴史家のヘンリー・アダムスは、ロバート・E・リー(南北戦争時の南軍の司令官)に言及しつつ、さらに強い言葉で、「もっとも大きな害をもたらすのはつねに善き人である」と述べている。

この見方は倒錯しているように思われるかもしれない。どうして善が悪につながるのか?一つ留意する必要があるのは、ここでは客観的な意味において何が善きことなのかではなく、信念や動機が問題である点だ。だからここで問題なのは、善悪そのものについてではなく、善きことをしていると自分では考えている人の手で悪がなされることについてである。

原著はp.184から以下の記述となっています。

Indeed, some argue that the myth of pure evil gets things backward. That is, it's not that certain cruel actions are committed because the perpetrators are self-consciously and deliberatively evil. Rather it is because they think they are doing good. They are fueled by a strong moral sense. As Pinker puts it: "The world has far too much morality. If you added up all the homicides committed in pursuit of self-help justice, the casualties of religions and revolutionary wars, the people executed for victimless crimes and misdemeanors, and the targets of ideological genocides, they would surely outnumber the fatalities from amoral predation and conquest."

Henry Adams put this in stronger terms, with regard to Robert E. Lee: "It's always the good men who do the most harm in the world."

This might seem perverse. How can good lead to evil? One thing to keep in mind here is that we are interested in beliefs and motivations, not what's good in some objective sense. So the idea isn't that evil is good; rather, it's that evil is done by those who think they are doing good.

このお話は、「理想、求めて抑圧される、人間性」と題してご紹介した青木保氏の「多文化世界」のバーリンの説とも合致いたします。

善人がその善意ゆえに悪をなす、この事実は、忘れないようにしなくてはいけません。

第6章:理性の時代

この章では、さまざまなことが語られています。

まず第一に、著者の考えはデカルトの二元論を否定し、脳に超自然的効果は作用していないと致します。これは、今日であればごく当たり前の話であるでしょう。

もう一つは、脳を理解するにはそのレベルの議論が必要である、ということ。自動車を修理するには自動車工の専門知識が必要なのであって、物理学者の知識は自動車修理には役立たない、と論じます。

これまでの章で、共感力に頼ることの危険性を論じ、理性に頼るべきと主張してきたのですが、この章では、理性といえどもあまりあてにはならない、と述べます。まあ、これはこれで、妥当な指摘でしょう。

さて、共感力を排除するとしても、それでも世界をよいものにするためにはどうすればよいか、という点が大きな問題となります。これに対する一つの解は「自制心」といたします。この部分を最後に引用しておきましょう(281ページ)。

スティーブン・ビンカーの主張によれば、高い自制心が当人に利益をもたらすように、自制心を称揚する文化的価値観は社会に資する。ヨーロッパでは中世から現代にかけて殺人発生率は三十分の一になったが、それは名誉の文化から、抑制を称揚する尊厳の文化への変遷が大いに関係していると、彼は述べる。

この見方は、思いやりや親切心などの特徴の重要性を否定するものではない。私たちは、これらの特徴を身につけられるよう子どもを育て、それらを称揚する文化を構築しようとする。しかしそれだけでは十分ではない。世界をよりよい場所にするためには、人々はもっと賢くなり、強い自制心をもつようにならなければならない。それは、成功した人生、そして善き人生、道徳的な人生を送るための中心的な要件なのである。

原著はp.234から以下の記述となっています。

Steven Pinker has argued that just as a high level of self-control benefits individuals, cultural values that prize self-control are good for a society. Europe, he writes, witnessed a thirtyfold drop in its homicide rate between the medieval and modern periods, and this, he argues, had much to do with the change from a culture of honor to a culture of dignity, which prizes restraint.

Once again, none of this is to deny the importance of traits such as compassion and kindness. We want to nurture these traits in our children and work to establish a culture that prizes and rewards them. But they are not enough. To make the world a better place, we would also want to bless people with more smarts and more self-control. These are central to leading a successful and happy life -- and a good and moral one.

おわりに

以上、同書を紹介してまいりました。ここまででかなりの文字数になってしまいましたので、いったんここでエントリーを公開いたします。

このテーマに関しては、私の意見もいろいろとあるのですが、まだほとんど記述しておりません。

これにつきましては、この文書に追加するか、あるいは別建てで記述する形で、この先補充していくことといたします。


こちらに私の考えを記しました。