コンテンツへスキップ

カント式の世界認識と物理学

先日のこのブログ「『アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです』を読む」で、「世界に対する基本認識をカント式のものに切り替えていくことが必要なのではないかと、私は考えております。そしてそれは、物理学からの要請ともなるのではないか」などと書いたのですが、本日は少し時間ができましたので、これについて書いておきます。

自然界と脳

まず、今日の自然科学は、極めて高い精度で自然界を記述しております。それは、ビッグバンに始まる巨大な宇宙空間と、その中の星々を記述するとともに、我々自身が何であるかも明らかにしています。人が様々なことを考えているのは、脳の作用であるというのですね。

脳は、多数のニューロンと呼ばれる繊維状の細胞で構成され、ニューロンは他のニューロンとシナプスと呼ばれる器官により接続されています。ニューロンの数は、成人でおよそ百億個前後(子供のころはもっと多いのですが、徐々に減少して、年を取ると50億程度にまで減少すると言われております)、これがニューロン一つあたり数千のシナプス接続で他のニューロンとつながっています。

シナプス接続は、他のニューロンからインパルスを受け取ると、これに定数を乗じて加算します。そして、全ての入力側のシナプス接続について加算した合計が一定値以上である場合に興奮し(発火し)、出力側のシナプスに接続されたニューロンにインパルスを送ります。

それぞれのニューロンがおこなっていることは非常に単純なのですが、非常に多くのニューロンが、複雑に相互接続されることで、知的な機能を発揮します。これは、不思議な現象であるようにも思われますが、同様の動作をコンピュータ・ソフトウエアで再現することで、人の脳に似た知的機能を再現することができております。このあたりの事情は、以前のこのブログのエントリー「斎藤康毅著『ゼロから作るDeep Learning …』を読む」をご参照ください。

こうなりますと、ヒトの脳は物理法則にしたがう存在であって、自らは、自由にものを考え、自由に行動を決めていると考えているのは、幻想に過ぎない、ということにもなりそうです。

デカルトとカント

19世紀までの自然科学の立場は、「絶対的に正しいもの=真理」が存在するとするもので、この真理が自然界、大宇宙であると考えるのですね。

しかしながら、デカルトは、全てを疑った際にも否定できないのは自らの存在である、とし、自己の存在、自我の実在を出発点と考えます。ただし、デカルトは自然界の実在も明瞭に認識できると考えており、確かな外界の存在を知っていると考えることは、全知全能の神が実在するからに他ならない、と主張します。

確かに、自らの実在以外をすべて疑っているにもかかわらず、自然界が確かに存在すると考えることは、矛盾した考え方であり、この矛盾を解消するために全知全能の神を持ち出すことは、インチキ臭い考え方ではありますが、一つの妥当な解でもあります。

全知全能の神であれば、自然界の実在を正しく認識することができます。自らがその神を信じるが故に、自然界が確かに存在すると考えることは何一つ間違ってはおりません。これを逆に考えて、自然界が確かに実在すると思われるが故に神が実在するというデカルトによる神の存在証明も、それなりに納得できるものではあります。

これがカントになりますと、たしかな外界(自然界)の存在など人は知りえない、と主張します。そして神の存在についても、人には判断できない、とも主張します。

人は、たしかな外界を認識していると考えるのだが、それは、自らが認知した結果、自らの精神内部に構成された外界の姿(表象)だというのですね。

この主張は、脳における情報処理過程を考えれば妥当な主張です。人の脳にあるニューロンは、外界に直接接続されているわけではなく、ニューロンの接続先はニューロンでしかありません。

そしてそのニューロンの一部は、感覚器官の受容器につながっており、視覚、触覚、聴覚、味覚、臭覚などのそれぞれの受容器がインパルスを脳に伝えます。

このインパルスは、ニューラルネットワークによる何段階もの反射的処理、あるいは無意識的処理が施され、脳内に保持された外界のモデルを形づくり、常にこれに修正を加えていきます。

人が外界とみなしているのは、脳内に構築された外界のモデルなのですね。

視覚の場合

視覚などは、外界の姿がそのまま見えているように思えてしまいますが、実際にみえているものは、網膜で検出した外界の像に、ニューラルネットワークの何層もの処理が施された結果なのですね。

以前のブログで以下のように書きましたように、眼には視界の中央に近いところに視覚のない部分(盲点)があるのですが、この部分を反対の目の視覚情報から、あるいは周囲の模様を拡張する形で巧みに補っております。

一方、カントが指摘したように、人が知ることができるのは、感覚器官のこちら側であって、その向こう側がどうなっているかは知ることができない、という問題があります。近年の脳科学は、人の知覚が、感覚器官の刺激を直接知るのではなく、当人の意識しない部分で様々な処理が行われた結果を知っていることを教えております。

たとえば、左目を閉じて下のを画面との距離を変えながら見ますと、ある距離で下のが見えなくなります。

                     

これは、眼球に視覚のない部分があって特定の部分が見えていないためなのですが、見えていないということを人は気づいておりません。網膜から出た信号が直接脳に伝達されるのではなく、何段階もの情報処理を受けて、視覚のない部分も周囲の情報から適当に補う処理が、意識の外でおこなわれているのですね。

そして問題は、片目をつむった際にも見えていない部分があるということに全然気づかないこと。一つ間違えればなど最初から存在しないことになってしまうことです。

また、右目と左目では、多少ずれた像が見えているのですが、通常はこれを合成して、立体的な姿として我々に感じとらせています。これらもニューラルネットワークが人の意識の外側で処理して作り出した外界のモデルなのですね。

しかしながら、人はこのモデルを外界と見做して行動しており、それで何一つ問題を生じているわけでもありませんので、人は自らの内部に作られた外界のモデルを外界そのものと考えてしまうことも、やむを得ないことであるといえるでしょう。

物理法則は、人の認識した外的世界の運動をかなり正確に記述しております。ニュートンは、「我は仮説をつくらず」と述べ、ニュートンの物理法則は仮説ではなく、この宇宙の確固たる真実であると考えたのですが、今日では、物理法則は仮説にすぎず、いずれ否定される可能性を内包していると考えられております。

物理法則は、人による世界の理解であって、人間精神の内なる存在なのですね。もちろん、外界が発する情報が、人の打ち立てた物理法則によく合っているという事情はあるでしょう。外界の実在は、我々が自然法則を打ち立てる原因にはなりえる。でも、法則は外的世界そのものではなく、あくまでも人による外的世界の理解に過ぎません。

このあたりの事情は、このブログの古いエントリー「フッサールの「諸学の危機」と相対性理論」でも解説しております。興味のある方は、こちらもご参照ください。

自由意志と物理法則

人は、その発達段階の初期において外界の存在に気付きます。そして、他者(社会)とのインタラクションの中で、外界の性質について学び取っていきます。外界に関わる重要な知識が自然科学であって、この世界(外界)は物理法則に従って動いていることを学ぶのですね。

でも、外界は、自我が把握している世界とは異なる世界です。外界は自我の外部にある世界だと思われるかもしれませんが、実は、物理法則にせよ、自然界に関わる様々な理解にせよ、自らの脳が獲得した知識であり、自我の内部に存在します。

自我の内部にある外界は、外界のモデルであり、知覚がこれを修正することもありますし、社会とのインタラクションによっても補正されていきます。そしてこのモデル世界は、主体とは異なる世界であり、物理法則万能の世界であって、自我や自由意志は自らの内部に保持された外界のモデルの内部には存在いたしません。

三つの世界

このブログでは、過去に何回か三つの世界という概念をご説明いたしました。以前のエントリーの関連する説明を以下に再録します。

このブログでは、これまでにも何回か、この三つの世界について論じてきました。これをまとめると、次のようになります。

世界R:人とかかわりなくそれ自体として存在する世界(自然界)で、一般的な意味での「客観」に相当します。物自体が情報を保持し、それ自体の法則性により、情報の変形を行っております。この世界を“Real World”または“Raw World”(生の世界)という意味で世界Rと呼ぶことにします。

世界C:人が認識した世界で、「主観」がこれに相当します。個人の脳の働きにより、情報の保持、修正がおこなわれております。この世界を“Cognitive World”または“Cooked World”(調理された世界)の意味で世界Cと呼ぶことにします。

世界S:人の集団ないし社会が認識した世界で、今日の哲学者が「客観」を代替するものと考えている(フッサールによれば「相互主観」の)世界です。情報の保持と加工は人間社会の持つ様々な機能によって行われ、常識や学術的知見が蓄積されていきます。この世界を“Social World”または“Swarm World”の意味で世界Sと呼ぶこととします。

この三つの世界は、たがいに依存関係にあります。世界Cは世界Rの上に成り立っております。つまり、さまざまな物質の働きで人の脳は成り立ち、その内部で、物質固有の情報処理とは異なる階層の情報処理がおこなわれております。社会は多数の人によって構成され、個々人の脳の働きをコミュニケーションチャネルで結び合わせることにより、個々人の脳の働きを超えたさらに上の階層の情報処理がおこなわれております。個々人の脳の形成には、社会の働きが大きく影響し、人が自然界を知る過程も社会システムから得た情報に強く依存しています。

個々の人が知ることができるのは世界Cだけです。しかしながら、世界Cの中には世界Rと世界Sの不完全なコピー(世界R'と世界S')があり、人はこれを世界Rなり世界Sと見做して行動しています。こう考えれば、なにが主観で何が客観であるのか、われわれはいかなる世界について論じているか、ということは、かなりクリアーに理解できるのではないかと思います。

観測問題と三つの世界

「エンタングルメント」と題した以前のこのブログで、観測問題の三つの解釈を説明致しました。

第一の解釈はコペンハーゲン解釈でして、シュレディンガーの猫の実験において、猫は観測されるまでは生死重なり合った状態にある。そして、観測した時点で観測者の意識の中で波束の収縮(生死の確定)が生じる、とするものです。このような解釈は、今日の多くの物理学者がしているのですが、「生死重なり合った状態」というのが何を意味するか、非常にわかりにくいという問題があります。

このブログの以前のエントリー「『宇宙を織りなすもの(上)』を読む」にご紹介しましたブライアン・グリーン氏の記述によれば、コペンハーゲン解釈の説明は次のようになります。

一つのアプローチは、歴史的にはハイゼンベルクにさかのぼり、波動関数は量子的宇宙の客観的な特徴を表しているという考えを捨てて、波動関数は宇宙に関するわたしたちの知識を表しているに過ぎないと考える。この立場によれば、測定を行うそのときまで、私たちは電子がどこにあるかを知らない。そして、電子の位置を知らないという事実が、さまざまな場所に存在する可能性として電子を記述する波動関数に表現されている。しかし、電子の位置を測定したとたん、電子の位置に関するわたしたちの知識は突如として変化する。

つまり、波動関数は宇宙に関する我々の知識を表している、というのですね。

こういう説明であれば、コペンハーゲン解釈は、「波動関数は、外的世界そのものではなく、人の主観内に保持されている外的世界の叙述」ということになり、三つの世界論と見事に対応致します。三つの世界を認めるなら、物理学が対象としている世界は人に認識された外的世界ですので、これは当然の話なのですね。

第二の解釈は、非局所隠れた変数の理論がありまして、これを主張しているのは、アブラノフ・ボーム効果で有名なボーム氏なのですが、実験的に隠れた変数はないとの結論が得られており、この説は少々分が悪い様子です。ここでは、この説は無視することといたしましょう。

第三の解釈は、多世界解釈でして、猫の実験でいえば、猫が生きている世界と、猫が死んでいる世界の双方がある、ということですね。

多世界解釈は、驚くべきことに今日でもかなりの支持を集めているのですが、エヴェレットによります多世界解釈はさほど過激なものではなく、以前のこのブログ「『ハイゼンベルクの顕微鏡』を読む」でご紹介いたしました石井茂氏の説明では以下のようになっております。

これは要するに、測定のたびに「観測者」が新しく発生し、その自我が無限に連鎖していくということである。エヴェレットは、一人以上の観測者がいる場合には標準的な解釈は適切ではない、と考えた。観測によって世界の記述は少しずつずれていくが、標準的な解釈とは異なって波束は収縮せず、重ね合わせの状態が維持される。波束の収縮という概念は捨て去られ、波動関数は無数の実在する世界の重ね合わせを表しているのである。エヴェレットに始まるこの解釈の系譜を「多世界解釈」と呼ぶ。現在ではいくつも流派があるようだが、大ざっぱには、可能性のある世界の中の一つが、自分の測定に対応して存在している(そして自分もその世界にいる)ということである。

この解釈であれば、三つの世界論とぴったり一致いたします。三つの世界論によれば、物理学が記述しているのは個々の人の主観内部に保持された外界のモデルであり、複数の観測者が存在するのであれば、複数の世界が並行して存在することとなります。

量子論における観測問題は、一つの難問ではありますが、三つの世界論を採用すれば、この難問は見事に消滅します。

四元時空の中の主体

このブログの以前のエントリー「虚数時間の物理学:ローレンツ変換とミンコフスキー空間」の最後で、以下のように述べました。

全ての観測者の意識は速度1(別の言い方をすれば、時速1時間)で四元時空の中を未来に向かって時間軸方向に進んでいます。互いに運動している観測者が他の観測者を見れば、彼は空間的な速度も持っており、これと時間方向の速度との合成速度が彼の速度ということになります。で、これを合わせた四元速度は、それぞれの座標系に固定された観測者にとっては時間軸に他なりません。

つまり、時間軸は、互いに相対運動する観測者毎に、異なる方向を向いております。

時間軸がそれぞれの観測者にとって異なる方向を向いている、ということは、四元時空の時間軸が他の空間軸と異なる振る舞いをする(時間軸のみが虚数的に振る舞う)原因が四元時空そのものにあるのではないということを意味します。四元時空の特定の方向が虚数的な振る舞いをするのであるなら、観測者ごとに時間軸の方向が異なることなど、あり得ないはずです。

時間軸の方向が観測者に依存する以上、時間軸が他の空間軸と異なる振る舞いをする原因は観測者にある、と考えざるを得ません。四元時空は等方的であって、四元時空自体には時間軸と空間軸の区別はなく、時間軸と空間軸に異なる性質を与えているのは観測者自身である、と考えるのが妥当でしょう。

観測者の意識は、時間軸方向に速度1で移動しながら、それぞれの時刻に対応する三次元空間を切り出して観測しています。つまり、観測者にとっての時間軸は、切り出した空間に直交する方向であり、他の空間軸とは明瞭に区別されます。

食パンをスライスすれば、食パン自体は等方的なものであっても、切り出されたパンの面内の方向と面に垂直の方向は明らかに異なる性質を持ちます。切り出された面内方向にしかバターは塗れないのですね。

同じことが、観測者の観測する時空においても生じているのでしょう。そして時間軸と空間軸の違いが、虚数的振る舞いと実数的振る舞いの違いとして観測されるのでしょう。

なぜそれが、実数と虚数の違いとなって表れるのか、これはまだまだ「なぞ」としか言いようがないのですが、、、

観測者は世界Rである四元時空から現在に対応する三次元空間を切り出して世界Cに取り込んでおります。観測者の今に相当する「現在」は時間軸の原点であり、観測者にとっては特別の意味がある点です。

現在に対応する四元時空の特定の三次元空間は、光円錐に相当するのですが、時間が今という特別な点であると同様、空間的にも観測者のいる位置は、光円錐の頂点という特別な点となります。人が切り出した現在という時空は、観測者を原点とする三次元空間である、とも言えそうです。それぞれの観測者は、おのれにとっての時間軸に沿って未来の方向に切り出す空間を変えていきます。

以前のブログエントリーでも述べたように、互いに相対運動をする観測者は異なる時間軸を持っております。

それぞれの観測者にとって時間軸は虚数的に振る舞うのですが、四元時空自体は特定の時間軸をもたず、四つの次元は互いに対等の関係にあります。そうでなければ、観測者によって異なる切り出し方をしているにもかかわらず、それぞれの空間で同じ物理法則が成り立つということは起こりえません。

一方、観測された世界では、時間軸と空間軸の間には虚数と実数の関係があり、これらの軸は明らかに異なったふるまいをします。元々の四元時空が等方的であるなら、その違いを生み出したのは、観測者自身である、観測者が四元時空から現在に相当する三次元空間を切り出した際に時間軸に虚数的な性質が与えられた、ということになります。

さて、四元時空から三次元空間を切り出すという行為は、一体どんな行為なのでしょうか。結局のところ、それは「観測」に他ならず、外的世界の情報を主観世界に取り込む行為なのですね。即ち、切り出された空間とは、主観の中にある外界のモデルに他なりません。

物理法則は、この切り出された空間に対して成り立っているのですが、そうであるなら、物理法則は主観の中の外的世界のモデルの中で成り立っている法則である、と言えるでしょう。

量子論に加えて、相対論的にも、三つの世界論は有効である、と言えそうです。物理学は、カント的世界認識をベースとするのが良さそうです。

社会という世界

外的世界と主観世界があれば、さしあたりは人と自然界の相互作用は成り立つのですが、これだけでは物理学という学問は成立しません。物理学が成り立つ理由は、カントもその著「プロレゴーメナ」の中で次のように書きます。

そこで、客観的妥当性と〔すべての人に対する〕必然的な普遍妥当性とは相関概念である。そして、われわれは客観自体を知らないにしても、ある判断を共通妥当的、したがって必然的と見なすとき、まさしくそれによって客観的妥当性を意味しているのである。

ここで「客観」と呼ばれているものは、外的世界の事物を指してのことでしょう。人は、モノ自体を知りえないというのがカントの主張です。しかしながら、他者と知識を共有することはできる。これをカントは「普遍妥当性」と呼んでおり、それを客観と見做しても構わない、と主張しているのですね。

カントの普遍妥当性は、後にフッサールが定義します、間主観(=相互主観)の上に定義された客観に他なりません。

人は、互いにコミュニケートすることにより、主観が把握した情報を他者と伝達し合っております。この結果、人の集団は、人の脳に類似した一段高次の知性をもちます。

このような知性は「集合知」と呼ばれ、ネット上の共同作業で注目されているのですが、人間社会が知的働きをすることは、なにも今に始まったことではありません。

同様な現象は、アリや蜂などの昆虫の世界でも見出されており、「群知能(Swarm Intelligence)」と呼ばれています。昆虫は、固体としてはさして知的ではないものの、その集団は高い知能を持つようにふるまう、というのですね。

物理学に関していえば、研究者は多くの同僚と議論しながらおのれのアイデアをまとめていきます。そして、学会で発表したり、論文誌に発表したりする。これに対して多くの研究者の反応が生じ、最終的に定説となり、教育の場で多くの人々に伝達されるようになる。

これらの社会システムは、優れた知的システムであり、人とニューロンの関係に極めて類似した関係が社会と人との間にはある、ということもできるでしょう。

物理学も、個々の理論は一人の研究者が生み出したものではあるのでしょうが、最終的にはこのシステムの上で形成されることとなるわけです。