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三田 一郎「科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで」を読む

本日は、最近の書物であります三田 一郎「科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで」を読むことといたします。この本、本年6月の出版ですけど、すでに第3刷となっております。つまり、売れている、ということですね。

同書について

著者の三田氏は、物理学者にしてカトリックの助祭。まさに物理学と神というテーマを語るにふさわしい方です。

以前のこのブログで池内了氏の「物理学と神」を読んでいるのですけど、こちらは第三者的な扱いでした。

今回の書物は、非常にまじめな、当事者的記述である点に好感が持てます。

ただ、ブルーバックスということもあって、最近の物理学の進歩に重点が置かれ、神の比重が少々低いように感じるのは私だけでしょうか? まあ、書かれていないわけではないのですが、、、

同書の内容

第1章:神とは何か、聖書とは何か

この章では、キリスト教は信者数25億人と、世界で最も信者の多い宗教であること(第二位はイスラム教の18億人、第三位はヒンドゥー教徒の10億人)、聖書は出版部数60億冊の世界最大のベストセラー(第二位は毛沢東語録の9億冊)ということが紹介されます。

聖書はキリスト存命中に書かれた死海文書から今日に至るまで、かなりの正確さをもって伝えられた文書だというのですね。もちろん、正確という意味は、同じ内容が書かれているということで、書かれた内容が事実かどうかは保証の限りではありません。

第2章:天動説と地動説―――コペルニクスの神

地動説は、ピタゴラスも唱えていたのですが、アリストテレスの天動説が勝利をおさめます。そして、トマス・アクイナスがアリストテレスの説を採用したことから、天動説がキリスト教の標準理論となります。

天動説では、火星などの惑星の軌道がうまく説明できません。コペルニクスは、太陽を中心に地球を含む惑星が回転しているとする地動説により火星の軌道もうまく説明いたします。

コペルニクスの書物には、本人の思惑とは異なって、この説が計算のための便宜的なものであるとの前書きが記されます。これゆえに同書は出版が許されたのですが、これはコペルニクスの思いとは異なっていたであろうと同書は致します。

(5/6追記:コペルニクスの書物は、コペルニクスがまさに死に面した時に出版されたとのこと。本人の意思がどのように反映されていたのか、今となっては全くわかりそうにありません。)

第3章:宇宙は第二の聖書である―――ガリレオの神

ガリレオは、望遠鏡を用いた観測により、地動説を真実であると考え、異端とされます。二度にわたるガリレオ裁判は複雑な経過をたどりますが、詳細は同書に譲ります。コペルニクスもそうであったのですが、ガリレオも、自然を正しく読み取ることは、神の言葉を読み取ることであると考えます。しかし、この主張は教会には受け入れられません。

第4章:すべては方程式に―――ニュートンの神

ニュートンに先立って、ケプラーは、師ティコ・プラーエの惑星軌道データを解析し、惑星は楕円軌道を描くこと(ケプラーの第一法則)を発見し、惑星と太陽を結ぶ線分が単位時間あたりに掃く面積が一定であるとのケプラーの第二法則、そして、公転周期の二乗は軌道半径の三乗に比例するとのケプラーの第三法則を発表します。

これをニュートンは簡素な運動方程式と万有引力の法則で表します。ニュートンにせよ、ケプラーにせよ、神が創造した世界がいかなるものであるかを解き明かそうというのが、これらの研究の動機となっております。

第5章:光だけが絶対である―――アインシュタインの神

この章では、最終的にはマクスウェルの方程式に到達する電磁気学と、その帰結としての電磁波及び光、そして相対性理論と重力理論が紹介されます。そして、ついにはビッグバンというはじまりを知るに至り、世界の創造に一つのリアリティが与えられます。

この章の最後に、牧師のウィリアム・ヘルマンスの問いに応える形で、アインシュタインの神の概念について語る言葉が紹介されています。

「牧師さん、宇宙的宗教では、宇宙が自然法則に従って合理的であり、人はその法則を使ってともに創造すること以外に教義はない。私にとって神とは、ほかの全ての原因の根底にある、第一原因なんだ。何でも知るだけの力はあるが今は何もわかっていないと悟ったとき、自分が無限の知恵の海岸の一粒の砂にすぎないと思ったとき、それが宗教者になったときだ。その意味で、私は熱心な修道士の一人だといえる」

第6章:世界は一つに決まらない―――ボーア、ハイゼンベルク、ディラックの神

この章では、量子力学の発展が扱われます。ディラックは、当初無神論だったのですが、60過ぎには設計者としての神を認めるようになります。

同書209ページから216ページまでは、ソルベイ会議の際にホテルで量子力学者らが交わした会話のハイゼンベルクによる記録の筆者による邦訳が記載されています。

これを読みますと、主な量子力学者の神と科学に対する立場がかなり明瞭に読み取ることができます。

プランクは神と科学の間には何の矛盾もないと考えます。ハイゼンベルクによりますと、この事情は次のようになります。

私はプランクとは数回しか言葉を交わしていないが、プランクと親しい友人を通してわりとくわしく聞いていたので、こう答えた。

「プランクは、宗教と科学はものごとを違った側面から見ているので、矛盾していないと考えているのではないか。科学は客観的に物質の世界を語る。現実を正確に観測してさまざまな関係を理解しようとする。他方で宗教は主観的にこの世界を語る。何が正しいか、なにをすべきかを語り、それが何であるかは語らない。つまり科学は技術の基礎で、宗教は倫理の基礎なのだ、と。」

これは私の理解にも非常に近い。つまり、科学は主観の中にある外界のモデルに関する理解であり、神はその外側にある概念だということなのですね。

外界のモデルの外部にある概念として、神以外にも、以前議論しました自由意志、あるいは、人の心なども外界の科学的モデルの内部には含まれないでしょう。

人にとって、外界の科学的モデルは、世界のごく一部であって、それ以外の世界も人にとっては大事なものなのですね。

ハイゼンベルクは、しかし、プランクのこの考え方には賛成しません。彼は次のように語ります。

「しかし私自身は科学と宗教をこのように完全に切り離して考えることについては合意できない。人間社会が知識と信仰を、このように明らかに切り離すことはできないのではないか。」

確かに、現実社会では、宗教と科学は、互いにインタラクションいたします。つまり、実在の人体組織に霊魂が働きかけると考えられていたり、現実のこの世界に神が影響を及ぼしていると、多くの人が考えているのですね。だから、人は神に祈る。「神よ、XXしてくださいますように」などというわけですね。

まあ、プランクに言わせれば、そうした信仰と科学をごっちゃにする考え方が間違いである、ということなのでしょうが。

パウリは、ハイゼンベルクのこの考え方に同意します。しかし、パウリの考え方もハイゼンベルクの考えとは微妙に異なっているように思われます。

「簡潔に言うと私はプランクの考え方や人間性を尊敬しても、論理的に筋が通っていても、彼の哲学には賛同できない。私の考え方はアインシュタインの考え方に近い。彼の考える神は不変の自然法則に関与している。彼は自然法則のシンプルさに感動している。彼は相対性理論を発見するにあたり、このシンプルさを非常に強く、かつ直接的に感じたのだろう。たしかにそれは宗教とは全く違う。私はアインシュタインがいかなる宗教的伝統にも縛られているとは思わない。しかし、私が見るかぎり、彼にとって科学と宗教の間に分裂はない。自然法則が持つ秩序は、客観的であり、かつ主観的な領域なのだ。私はこれがはるかに良い出発点であると考える。」

この後にディラックが登場して、神の存在を全否定するのですね。たしかに、自然科学こそすべてと考えるならば、そこに神の入る余地はありません。

もちろん、設計者としての神は、どのような考え方でもありえます。つまり、神はこの世界の全てを、物理法則を含めて創造し、その後はほったらかしている、ということですね。

これは、ニュートンの神でもあるし、アインシュタインの神でもあるし、おそらくはパウリの神でもあるのでしょう。

でもそのような神の存在は、人にとってどれほどの意味があるのでしょうか? このような考え方に従えば、人と神との対話など無意味だし、人は、偶然に支配された機械仕掛けの中で、ただただ自然法則に従って動き回っているだけの存在だということになってしまいます。

ハイゼンベルクは、よりマイルドな考え方であるように思われます。それは、教会が語る、人類と対話する神の存在を認めているようにもみえます。これは、物理法則とは矛盾するのですが、客観を社会的共通認識の上に位置付けるならば、教会の教えもまた真実ということになる。

教会の教えという、この世界の重要な構成要素を頭から否定してしまってよいものか、とハイゼンベルクが考えることは、たしかに妥当な疑問であるともいえるでしょう。また、物理法則にしたところで、社会がそれを認めるから事実と考えられている、という事情もあります。

しかしながら、社会が間違いをしでかす可能性は認識しておかなくてはいけません。ここは、教会の教えが自然科学に矛盾するなら、いずれか一方が正しいと見做すしかなく、双方を併存させたければ、これらが別の世界に属すると考えるしかありません。そういう意味では、プランクは良いところをついているように思われるのですね。

第7章:「はじまり」なき宇宙を求めて―――ホーキングの神

通常の扱いをすれば、ビッグバンの瞬間は特異点であり、神が世界を創造した瞬間と考えることができるのですが、ホーキングは宇宙の始まりの瞬間には時間は虚数であり、時間軸は空間軸と同等に扱えると考えます。このように扱うと、ビッグバンの瞬間は、放物面の頂点のようになだらかな曲面上の一点となり、特異点は消えてしまうのですね。

ここで、本ブログをお読みの方にはご注意しておかなくてはいけません。

本ブログでの私の主張は、時間と空間は、人には虚数的と実数的に異なって見える、とするもので、ミンコフスキー空間を正としています。

時間を実数とする立場は、移動する座標系への変換にローレンツ変換を用い、四元ベクトルを取り扱う際に、時間の二乗が現れる項の符号を反転するのですが、時間を虚数として扱うミンコフスキー流の扱いでは、移動する座標系への変換は空間の回転変換と同等に扱うことができます。そして、時間の二乗の項は、虚数ですから、当然のごとくに符合が反転してくれます。

ミンコフスキー流の扱いは、時間を虚数としていることに他ならないのですが、この場合、空間は実数、時間は虚数で、双方の扱いは異なります。

ホーキングが主張しているのは、時間を実数として、時間軸を含む回転変換(つまりは、異なる速度で動く慣性系への変換)をローレンツ変換する通常の扱いにおいて、ビッグバンの直後は、時間を虚数として扱え、と主張するのですね。これは、ミンコフスキー流の扱いにおいて時間を実数とする事に相当する、つまりは、時間軸を含む回転変換も通常の空間内での回転変換と同等に扱えることになります。

ちょっとややこしい点は、本ブログの主張は、相互に移動する観測者からみた時間軸が異なる方向を向いていることから、時間軸と空間軸に虚実の違いが現れる原因は、観測者にあり、観測者が四元時空から三次元空間を切り出す際に時間軸に虚数的性質が与えられるのであって、四元時空そのものは、時間軸と空間軸には何ら違いのない等方的な空間である、としております。

ホーキングの主張は、ビッグバン直後は時間軸と空間軸を同等に扱えるというものでした。四元時空そのものが等方的であるとするのであれば、特異点など最初から存在しないようにも思えます。

しかし、今日の物理法則は、全てが観測された世界における法則であり、観測者による切り出しがおこなわれた後の世界に対する法則ですので、時間軸と空間軸はやはり異なる。ホーキングの主張は、ビッグバン直後は時間軸と空間軸は同等に扱えるというものであり、空間を実数、時間を虚数とするミンコフスキー空間を採用する場合には、ビッグバン直後は「実数時間であった」とすべきであると思われます。

まあ、ビッグバン直後は、万有引力が斥力であったというのがインフレーション理論ですから、空間の曲率は正ではなくて負であったということになり、時間の虚実も反転しそうな感じはするのですが、このあたりは理解不能の領域です。

終章:最後に言っておきたいこと

この章では、著者の物理学研究の概要が語られます。そして、著者は、設計者としての神を信じると述べて同書を終えております。

神と自然科学との調停

神と自然科学との関係のあり方については、第6章でほとんどすべてが語られてしまっているように思えます。

ここでは、これらの考え方を比較検討することといたしましょう。

自然科学の領域に影響を与える神

古来考えられていた神は、自然科学が対象とする、自然現象や人体に影響を与える存在でした。このような存在としての神は、自然法則に超自然的効果の介在が認められないことから、今日では否定されております。同じ理由で、脳神経の作用が自然法則で説明されることから、超自然的存在である霊魂の存在も否定的に考えられています。

一時は、量子力学的不確定性の部分に、神の意図や霊魂の影響を見出そうとする考え方がありました。たとえばベンローズ氏の「量子脳理論」(解説はこちら)などはこのような考え方によります。しかし、現在ではベンローズ氏もこの考え方を取り下げており、量子力学的不確定性に超自然的効果をみとめるという考え方は下火になっております。

先日ご紹介いたしました自由意志に関する議論でも、量子力学的不確定性は単なる運の問題であるとされております(第3章。)

普通には、さいころの目を予測することはできない。でもそれは、さいころに自由が備わっているからではなく、どの目が出るかは、偶然に支配されているだけの話、なのですね。

設計者としての神

設計者としての神は、多くの科学者が受け入れている概念です。ニュートン、アインシュタイン、ディラックといった、錚々たる物理学者が、設計者としての神を受け入れております。

しかしながら、設計者としての神は、設計を終えたら既に立ち去っております。つまり、人々に作品を見せはするものの、一切のコミュニケートを絶ってしまっております。

こういう意味での神は、たとえば、我々にとっては、石器を作った原始人の存在のようなもので、感心することはあれ、さしたる意味のない存在ではあります。

社会的存在としての神

ハイゼンベルクは、次節と同様の考えをしているのかもしれませんが、ひょっとすると、社会的存在としての神を信じるとしているのかもしれません。

存在、非存在以前に、なにが真実であるかは、実は社会的に定まっている。物理法則にしたところで、一人の学者が真実であると考えたから真実になるわけではなく、論文を書いて学会報告し、多くの学者がこれを認めることで真実となるのですね。

これを神の存在に応用すれば、神が社会的に認められているならそれは存在するとしなくてはいけない。国の隅々にまで教会があって、人々が礼拝に通っているなら、そこで語られている神は存在すると考えなくてはいけない。

真実が社会的に決まるということを受け入れるなら、そうしなくちゃいけないのですね。特に教育の場に携わる者はそうでなければいけない。現在の社会に認められた真理を学生たちがマスターしなくてはいけない。

教育する側の己が、仮に、それは間違っていると考えていたとしても、さしあたりは定説を真として教えなくてはいけない。もちろん、学生たちに、疑問を呈しておくのは良いアイデアかもしれませんけど、、、

でも、社会のみんなが間違っていることだってある。

ガリレオが裁判を受けたとき、社会的な真実は天動説だったのですね。だからガリレオの「それでも地球は回っている」は、社会的な真実ではない。

しかし、これを認めてしまうと、科学は進歩しないのですね。新しい説を唱えるのは、必ずと言ってよいほど、少数派なのですから。

社会的存在として神や物理法則を受け入れることは、生活の知恵としては有益かもしれませんが、新しい概念を作り出していく場合にこの考えは有害です。このやり方は、自然科学を利用するだけの一般人や、自然科学を扱う人であっても学生までに止め、新たな法則を生み出すべき科学者や研究者には向かないと考えなくてはいけません。

異なる側面(領域)にある自然科学と神

この考え方は、同書第6章でプランクが述べているものです。プランクの考え方が、実のところ、どのような切り分けを行っているのか、私にはよくわかりません。しかしこうした考え方自体は、私の考えにもよく合いますので、この点につきまして、私の考えを以下に述べておきましょう。

私の主張 1:出発点は自我

まず、全ての認識の出発点は、自分自身の自我である、ということを認めなくてはいけません。私が考えていること、私の主観がすべてなのですね。

で、その中に外界がある。もっと正確にいえば、外界からの様々な情報に基づいて主観の中に組み立てられた外界のモデルがあるのですね。

その外界のモデルでは、物理法則が成り立っている。外界の全ての運動は、最終的にはこの物理法則によって支配されており、その外界には私自身の身体も含まれております。つまり、外界のモデルの中の私は、物理法則に従って動いております。もちろんそれは、私の主観の中にある外界のモデルの中の私であり、私の(本体ではなく)物理モデルがそこにある、ということなのですね。

この物理法則がどこから来たかといいますと、それは他人から来ている。

私の主張 2:他者と社会の知的機能

外界の中には、私と似たような存在がいくつもあって、互いにコミュニケートしている。言葉を交わしたり、文字を読んだり、その他さまざまなやり方で互いに情報を伝えあっているのですね。

さらに、人間の集団(社会)には、教育機関やこれを運用する制度があって、物理法則もその制度の中で私に伝えられているわけだ。

そうしたことを私が理解しているのは、私の主観の中に人間社会のモデルがあって、人々とコミュニケーションする過程で、このモデルも修正されれば、外界のモデルも修正される。そうして、日々、私の主観の中のモデルは最新のものに更新されているのですね。

私の主張 3:外界モデルを叙述する数多くの方法

さて、外界のモデルは、全てが物理法則に従って運動しているとしても、これを考える際にすべてを物理法則で考えればよいというものではないのですね。

「自動車は物理法則で動いているのだが、自動車を修理する際に必要なのは物理法則に関わる知識ではなく、自動車工学に関わる知識だ」といった方がおられるのですが、これは慧眼だと、私も思います。

これが他者とのコミュニケーションとなりますと、さらに難しい。人間も、最終的には物理法則にしたがう存在であるなどといったところで、他者と会話する上では何の役にも立たないのですね。

その時に現れる概念には、人に心や自由意志があることは大前提ですし、あるいは神を含むこともありえる。これは、物理法則とは別の世界の概念であり、人間社会の文化常識の問題ということになります。

論理性や無矛盾性も、文化常識の世界でどこまで要求されるのか、実のところ、はなはだあいまいでもあるのですね。

個人的には、このあたりはきっちりとやりたいと考えているのですが、なにぶん、社会は多くの人で成り立っているものですから、私の考えだけでどうこうなるものでもない。これが実際のところでしょう。