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コギトと意味論的あるいは語用論的前提

この話題に関しては、これまでもいろいろと書いてまいりましたが、このあたりで簡単にまとめておきましょう。なお、本稿は、少しずつ書き足していくこととします。

意味論的前提とは

デカルトの「エゴ・コギト・エルゴ・スム」ということば(われ思う、ゆえにわれあり)は、以前のブログに書いたことですが、デカルトによるある種のギャグといえないこともありません。

といいますのは、「われ思う」が成り立つためには、「われ」は存在しなくてはいけませんので、「ゆえに」の以前に「われあり」は成り立っているのですね。

この論理に関しては、以前のこのブログでご紹介いたしました三浦俊彦氏の「論理学入門 推論のセンスとテクニックのために (NHKブックス)」によりますと、次のようになります。

前節、前々節の議論で、意味論的前提と語用論的前提というものが浮上した。命題「すべての薔薇が赤いならば、赤い薔薇がある」が真であることの意味論的前提として、「薔薇がある」ということが挙げられる。いっぽう語用論的前提として、「この世界には何かが存在している」や「各単語は日本語として理解される」が挙げられる。何もなければ、あるいは言葉に意味がなければ、当の命題を発言する者も理解する者もいないからである。この2種の前提は、論理的な作用が異なる。その違いを整理しておこう。

西暦2000年現在、日本の首都は東京である。

これは日本語の文として有意味であり、しかも真である。猫がキーボードの上を歩いた結果、これのローマ字列、

seireki 2000nen genzai, Nihon no shuto wa Tokyo de aru.

が打ち出されたら、私たちは、たまたま意味のある文がディスプレイに現れたのを認め、真なる文であると判断するだろう。しかし、もし人類の歴史が違っていて、アルファベットは存在するが私たちが今知るような日本語というものが存在しない世界になっていたらどうだろうか。猫が打ち出したあの文字列は、もはや真ではない。かといって、偽であるわけでもない。つまり、事実と食い違った何事かを述べているわけでもない。何も述べておらず、端的に無意味なのである。
......
一方、意味論的前提を欠いた場合、文は、端的に、偽となる。いくつかの例文で考えよう。

A「少尉は砲弾の直撃を受けても走り続けた。」

この否定~Aは何だろうか。B「少尉は砲弾の直撃を受けて走れなくなった」ではない。

A「わがクラスの委員長は学年トップの成績である。」

これの否定~Aはどうだろうか。B「わがクラスの委員長は学年トップの成績ではない」ではない。AとBはともに、少尉が砲弾の直撃を受けたこと、少尉が走っていたこと、少尉が存在すること、わがクラスに委員長がいること、わがクラスというものがあることを前提している。そうした意味論的前提が満たされた範囲内でのみ、Bは~Aとなっている。これらの前提は、それが満たされなくてもA、Bが「無意味」にはならないという点で、語用論的前提とは違う。意味論的前提が満たされない場合は、AとBの両方がともに偽になってしまうのである。

お判りでしょうか。

同書はいやしくも「論理学」を表題に掲げた書物ですから、小難しい理屈を展開しているのですが、要はするに、例に掲げられた命題Aが成り立つためには、「少尉」や「わがクラスの委員長」が存在しなくては、意味論的前提が満足されず、この命題は偽になってしまう、ということなのですね。

コギトの論理構造

これをデカルトの言葉に援用すれば、命題「われ思う」が成り立つためには「われ」は存在しなくてはいけない。ゆえに、などと言う前に、「われが思う」ことを認めた瞬間に「われあり」は成り立っているのですね。

「AゆえにA」のような論理の形式を「恒真論理(トートロジー)」とよびます。この論理は常に成り立ちますが、トートロジーをあえて語る意味もありません。でも、論理学が未成熟であったデカルトの時代に意味論的前提に目を向けさせるために、あえて「ゆえに」としたのであれば、この言葉もそれなりの意味を持つのかもしれません。

命題の成立に際して意味論的前提の満足を要求するのは、かなり難しい論理であるように思えるかもしれません。でも、普通の人でも、この程度の論理判断は、瞬時のうちにしております。

これにつきましては以前のブログに書いた言葉を以下に引用しておきます。

以前、「元カレと喧嘩してしまった」とネットに書き込んだために大問題となった恋愛禁止のグループに所属するタレントがおられました。このとき問題となったのは、喧嘩したことではなく、元カレが存在するということ。「元カレと喧嘩した」という言葉自体には「元カレが存在する」と明示されてはいないのですが、「元カレと喧嘩した」ことが事実であるならば「元カレは存在」しなくてはいけない。

この論理をごく普通の人々も瞬時に判断する。「元カレと喧嘩した」の一言で、「元カレあり」を察知してしまうのですね。もちろんこれは、元カレの存在が意味論的前提であるからなのですが、そこには論理学者の出る幕はありません。

むしろ、哲学者は、「何故に元カレが存在しなくてはいけないのだろうか」などと悩みだしそうです。少なくとも、コギト命題をトートロジーと見抜けない哲学者がそんな悩みを抱えることに、何の不思議もありません。

デカルトのコギトに関しては、「エゴ・コギト・エルゴ・スム」から主語の「エゴ」を落とした「コギト・エルゴ・スム」という形で多くの方が引用されています。ラテン語は、格変化がありますので、一人称(エゴ)が主語となる場合にはこれを書く意味がなく、主語を書かないことが一般的なのですが、デカルトはこの言葉を主語付きで彼の書に記しております。

ラテン語の一人称の主語は、落とすことが一般的なのですが、落とさずにあえて記す場合もある。それは主語を強調したい場合であって、デカルトが主語をあえて記した意味は、主語(われ:エゴ)を強調したかったと考えるべきでしょう。

このようにしたデカルトの心境は、「意味論的前提」などという論理学的知識が一般的ではなかった17世紀初頭にあって、コギト述語に主語の存在が含まれることを読者に伝えたかったのだと考えれば、至極当然であったように、私には思われます。

「元カレと喧嘩した」から「元カレあり」を察知するぐらいのことは、17世紀の人々だって容易にやってのけたであろう、と私は思うのですが。

コギトの語用論的前提

命題A「少尉は砲弾の直撃を受けても走り続けた」が真であるためには、「少尉が砲弾の直撃を受けたこと」、「少尉が走っていたこと」、「少尉が存在すること」などが前提となり、これらの各々を独立の命題とすれば、これらも真でなくてはなりません。

これが意味論的前提であり、命題「われ・思う」が真であるためには「われあり」が真であることが要請されることは、形式的には意味論的前提であるとも言えそうです。

しかしながら、われの存在を否定した時には、私が考えるすべての論理は意味を失います。そういう意味では、われの存在は、あらゆる論理を通して語用論的前提であるといえます。

すなわち、「われあり」は、それ自体がアプリオリに(最初から)与えられている前提であり、哲学の世界では「原理」と呼ばれる命題であるといえるでしょう。

先験的自我

少なくとも、コギト命題を意味論的ないし語用論的前提と考えれば、自我はすべてに先立って与えられなくてはいけません。われ、すなわち自我が、すべてに先立って与えられているとする考え方は、多くの哲学者が同様に持つ考え方です。

以前ご紹介しましたリオタールの「現象学」では、以下のように書いています。

デカルトは先験的なモチーフを導入することによってこれの解決を予告する。コギトによって、現象としての世界、コギタートゥム cogitatum[思考されるもの]としての世界の真理が、彼に与えられる。

そのとき、魂および神という形而上学的なアポリアに通じる客観主義的な疎外は、消え去る―もしくは少なくとも消え去っていたであろう。もしデカルト自身がガリレイ流の客観主義に欺かれて、先験的コギトと心理学的自我を混同しなかったならば、そうなっていたであろう。

しかし、思考するものとしての自我というテーゼは、すべての先見的な努力を水泡に帰せしめる。ここから、デカルトの二重の遺産が出てくる。一つは形而上学的合理主義で、これは自我を消し去る。もう一つは懐疑論的経験主義で、これは知識を破壊する

客観主義にその真の根拠を与え、客観主義の疎外力を除き去るのは、ただ先験主義だけである。というのも、先験主義はすべての知識を根本的な自我の上に結びつけるが、この自我は意味付与者であり、直接的な生の世界の中で、客観化以前的な、科学以前的な生を生きているからである。

そして精密科学は、そういう生の外被でしかない。先見的哲学は、客観主義と主観主義、抽象的な知識と具体的な生との和解を可能とする。

すなわち、デカルトはコギト命題によってすべてに先立つ「先験的自我」という概念を与えたが、その上で自然科学をすべての基礎に置く合理主義を貫こうとすれば、せっかく与えた自我を消し去ることになってしまう、と述べます。

正しいあり方は、先験的自我をきちんと維持しつつ、その内部に客観的な合理主義を維持するという形式をとる必要があります。

つまり、自らの身体や脳が自然科学の対象となることを認めるとしても、それが自我を説明しきる、自我の存在を自然科学がオーバーライトできるとするのは行き過ぎだということですね。

むしろ、自我の中に、自然科学的世界があり、その中に自らの身体や精神を表現する、モデルなり、叙述が、自我自体とは別個の存在として置かれていると考えるべきでしょう。

先験的自我と三つの世界

この節では、先験的自我をきちんと維持した形での世界認識とはどのようなものであるかについて考えてみましょう。

このブログでは、以前から三つの世界という考え方を紹介しております。これは、世界が次の三つから成り立っているとするものです。

世界R:人とかかわりなくそれ自体として存在する世界(自然界)で、一般的な意味での「客観」に相当します。物自体が情報を保持し、それ自体の法則性により、情報の変形を行っております。この世界を“Real World”または“Raw World”(生の世界)という意味で世界Rと呼ぶことにします。

世界C:人が認識した世界で、「主観」がこれに相当します。個人の脳の働きにより、情報の保持、修正がおこなわれております。この世界を“Cognitive World”または“Cooked World”(調理された世界)の意味で世界Cと呼ぶことにします。

世界S:人の集団ないし社会が認識した世界で、今日の哲学者が「客観」を代替するものと考えている(フッサールによれば「相互主観」の)世界です。情報の保持と加工は人間社会の持つ様々な機能によって行われ、常識や学術的知見が蓄積されていきます。この世界を“Social World”または“Swarm World”の意味で世界Sと呼ぶこととします。

この三つの世界は、たがいに依存関係にあります。世界Cは世界Rの上に成り立っております。つまり、さまざまな物質の働きで人の脳は成り立ち、その内部で、物質固有の情報処理とは異なる階層の情報処理がおこなわれております。社会は多数の人によって構成され、個々人の脳の働きをコミュニケーションチャネルで結び合わせることにより、個々人の脳の働きを超えたさらに上の階層の情報処理がおこなわれております。個々人の脳の形成には、社会の働きが大きく影響し、人が自然界を知る過程も社会システムから得た情報に強く依存しています。

個々の人が知ることができるのは世界Cだけです。しかしながら、世界Cの中には世界Rと世界Sの不完全なコピー(世界R'と世界S')があり、人はこれを世界Rなり世界Sと見做して行動しています。こう考えれば、なにが主観で何が客観であるのか、われわれはいかなる世界について論じているか、ということは、かなりクリアーに理解できるのではないかと思います。

世界Cが、すなわち先験的自我の世界であり、この世界は個々人にとって最初から存在する世界であり、その中ですべてが生起する、人が知ることのできる世界のすべてです。

人は、同時に、物的世界である自然界の中に生きていることを実感しているのですが、人が知りえる自然界は、人の主観の内部に構成された自然界である、世界R'なのですね。

そして、それを人は、自己の外部にあって自分自身がその上に構成されている世界Rであるとみなすのですが、実は、人は世界R'を自らの外に想定される場所に投射し、投射された世界R'のイメージを自らの外部にある世界Rであると認識しております。

世界Sも同様であり、人は、自然界以外に、人間社会から多くの知識・情報を得ているのですが、これらの知識は人間社会に共有された知識・情報であり、これらによって成立する世界(世界S)が存在すると考えられております。

世界Sもまた、人はそれを知ることができず、人が知ることができるのは自我の内部に構成された世界S'です。ひとは、これを個々人がおのれの想定する人間社会に投射し、これを世界Sとして認識しております。

人が認識している世界Sや世界Rは、実際には人の主観内部にある世界S'、世界R'ですから、ここに誤解の入り込む余地があるわけですね。

カントの到達した世界?

実は、このような考え方は、カントが到達した世界を今日の情報概念を用いて平易に説明したものに過ぎないのではなかろうか、と私は考えております。

多くのカント学者が指摘するように、カントの書物、特に主著であります純粋理性批判(上)(中)(下)(推奨する岩波文庫版のリンクを示しています)は非常に読みにくく、カント学者の解説こちらも)を読んでもなかなか理解し難いものがあります。

一方で、ハイデガーは、カントの哲学をかなりかみ砕いて理解していたように思われます。これは、以前のこのブログでご紹介こちらがよろしいでしょうか、あるいはこちらか)いたしましたように、木田元氏の書物を読むとその思いを強く抱きます。(そのものずばり、ではないのですが。)

ただし、本稿では、肝心のカントの主張を私が把握できていないため、この考え方がカントの世界観であると主張することは致しません。その代わり、カントの世界観である可能性に留意して、私オリジナルの考え方であるということも主張しないようにいたします。


こちらに訂正があります。