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コギトの論理、再考

先日のこのブログで、デカルトの「エゴ・コギト・エルゴ・スム(ego cogito, ergo sum)」はトートロジーだ、なんてことを書いてしまったのですが、もしかするとこれはもっと意味のある論理だったかも知れません。ここでは、この点に関して、少し考えてみましょう。

「われ思う」には「われあり」が含まれる

「われ思う」という叙述には「われあり」を含みます。これは、「元カレと喧嘩した」という言葉が「元カレあり」と受け取られてしまうのと同じ論理です。

なぜそうなるか、という論理的裏付けは、前回書いたのですが、「われ思う」の意味論的前提に「われあり」があり、「われ思う」が成り立っている以上、「われあり」も成り立っていなくてはいけない。「われあり」が偽なら、必然的に「われ思う」も偽になってしまうのですね。

そうすると、「われ思うゆえにわれあり」は「われありゆえにわれあり」と同等であり、トートロジーである、ということになるのですが、果たしてこれは正しいのでしょうか。

カントもこの言葉をトートロジーとしており、カントの主張を疑うのは恐れ多いことでもあるのですが、疑問点は、きちんと片付けておかなくてはいけません。

「ゆえに」の意味

コギト命題を三段論法であると考える哲学者が多いのですが、これは、「ゆえに」ということばが三段論法で多く使われるからでしょう。

三段論法とは「AならばBである(命題1。)BならばCである(命題2。)ゆえにAならばCである(命題3。)」の形をした論理で、命題1と命題2の双方が成り立っていれば命題3も成り立つことを主張しています。

「われ思うゆえにわれあり」は、命題が一つしかありませんから、これはもちろん、三段論法の形式を満足していません。あえて三段論法であると主張するためには、「思う者は存在する」といった命題が省略されていると考えるしかありませんが、省略されている命題を勝手に想定するなどということを認めてしまっては、収拾がつかなくなってしまいます。

ここで、「ゆえに」はどういう意味を持っているでしょうか。よく考えてみれば、三段論法の場合には、命題1と命題2の成立に対して「三段論法という論理的推論型式をあてはめれば」ということを意味しているように思われます。

なにぶん三段論法の形式であっても、「AならばBであり、BならばCである」なら、その瞬間に「AならばCである」が成り立ってしまう。だから、「ゆえに」に先立つ言葉「AならばBであり、BならばCである」は、「AならばCである」を含んでおり、「ゆえに」の前後を見れば「AならばCであるゆえにAならばCである」となり、トートロジーであるともいえてしまいそうです。

これを防ぐためには、「ゆえに」を用いた叙述は「論理的推論型式をあてはめればかくかくなる」という叙述であるからして、「ゆえに」を解釈する以前には、述語に対する論理的推論は、いったん保留しておかなくてはいけない、と考えるしかありません。

つまり、「AならばBである」と「BならばCである」という二つの命題をそのまま受け取り、「ゆえに」の言葉で三段論法という論理的推論を働かせる。そして、「AならばCである」という三段論法の結果を受け取るわけですね。

そうなりますと、「われ思うゆえにわれあり」の「われ思う」に対しても、三段論法と同様の論理的推論である意味論的推論などを事前に行ってはならず、「われ思うゆえにわれあり」の「ゆえに」を解釈する段階で意味論的前提に基づく推論という論理的推論型式をあてはめ、「われあり」という結論を導き出す、と解釈すべきでしょう。

(2022.9.13追記:しかもデカルトのこの言葉、ラテン語では一人称主格の場合に通常不要な主語 “ego” を含めている。このようなケースで主語を含めるのは、主語を強調するなどの特殊な場合に限られるのですね。主語を強調しておいて「ゆえに」ときたら、それが意味論的推論であることは、相当に明白であるといえるでしょう。)

つまり、この論理は、トートロジーではなく、意味論的推論ということになります。そう考えますと、デカルトのこの言葉は、論理的に何らおかしなものではない、意義のある言葉である、ということになります。

そういえば、「元カレと喧嘩した、ゆえに元カレあり」も、論理としてはおかしくなく、「元カレと喧嘩した」と語られた言葉から多くの人が「元カレあり」と推論しているのですから、これも論理的推論の一つであり、この論理は全く正しく意味のある論理であるということになります。

これまでのこのブログ(これこれこれこれなど)では、デカルトのこの言葉をトートロジーとしてまいりましたが、これらは修正が必要です。つまり、「われ思うゆえにわれあり」という論理型式は、三段論法ではなく、トートロジーでもなく、意味論的推論である、これが正しい。

「われあり」にはそれ以上に重大な問題が

さてこれで一件落着ということになるかといいますと、そういうことにもならない。

じつは、「われあり」という命題は、先日ご紹介いたしました語用論的前提にも関係してまいります。つまり、「われあり」は否定できない命題なのですね。これは、「われあり」を否定すると、すべての論理・言説が意味を失うことによります。

結局のところ「われあり」は、他から証明されるような命題ではなく、最初から前提として与えるべき概念、哲学の世界では「原理」、ユークリッド幾何学では「公準」、会計学では「原則」などと呼ばれるア・プリオリに与えられる規約(プリンシプル)と考えるしかありません。

ここで、すべての前提となるような重要な概念に「われ」というような普通の言葉を使うのは間違いや誤解を招く元ですから、哲学者はこの概念に対して特別な言葉を使う。それが「先験的自我」という言葉で、すべてに先立って与えられる「われ」を意味します。

そして、カント以降のほとんどの哲学者は「先験的自我」という概念を受け入れており、これは現象学者やハイデガーも同様であると私は理解しております。

なお、その場その場で気分の赴くままに生きているのであれば、先験的自我などに思いを巡らす必要はありません。また、世界について考える際でも、ある種のポエム、美的表現として世界をとらえ、論理性を追求しないのであれば、やはり先験的自我を必要とせずに済ませることもできるでしょう。

先験的自我が必要になるのは、世界について理性的・論理的に考えようとする場合であって、その際には、先験的自我を前提としない限り、何も考えられなくなる、というのがここでの到達点です。

なお、「先験的」と同じ意味の用語に「超越論的」があり、人によっては超越論的自我という呼び方をいたしますが、これは先験的自我と同じ概念を意味します。

デカルトの混乱とカントによる解決

先験的自我という概念は、デカルトのコギト命題によって与えられたと考えても、大きく間違ってはいないでしょう。それ以前に、似たようなことを書いた人もいたのですが、深い考察の対象とはなりませんでした。

そして先験的自我の発見それ自体は、人類史上においても重要な大発見とみなされるべきでしょう。ところがデカルトは、外的事物に対しても、おのれが明瞭・明晰に知ることができるゆえに、その存在を確かなものとしてしまい、先験的自我の意味合いをあいまいにしてしまいました。

外的事物を基本とする考え方は、別に珍しいものでもありません。古くはギリシャ人が眼前の大理石のような外的事物こそ実体であると考えておりましたし、今日の多くの人々も、物理的世界が唯一絶対的な世界であると考えております。

ところが、物理的世界を唯一絶対的な世界とみなすと、これと先験的自我との間に矛盾が生じてしまいます。つまり、どちらが先か、どちらがベースになっているのか、という問題ですね。

物理的世界を基本と考えるなら、人の意識すら自然現象に過ぎないこととなる一方で、自我を基本と考えるなら、物理的世界もまた人が認識したから存在しているあやふやな世界とみなされてしまいます。

外的世界とそのモデル

これを解決したのがカントであり、彼は先験的自我をベースに置き、物理的な外的世界の存在を否定はしないものの、「人はモノ自体を知ることはできない」とします。

これは、驚くべき指摘のようにも聞こえますが、よく考えてみれば当たり前の話です。すなわち、人は外的世界を知っていると考えているのですが、おのれが知っていると考えている「外的世界」は、おのれの主観内部、すなわち先験的自我の内に構成された外的世界であって、外的世界そのものではない、外的世界のモデルとも呼ぶべき存在です。

このことは、一般の制御装置について考えればわかりやすいでしょう。装置が直接参照しているのは、制御装置の内部に取り込まれた外的世界のモデルであり、単純なデジタル制御システムであれば、さまざまな計測値を格納したレジスタを制御回路は参照している。

これらのレジスタは、外的世界そのものではなく、制御装置内部に設けられたデバイスであって、外部のセンサーが出力する信号により、適宜、電圧などの物理量に置き換えられた値を変更している、というわけです。

このような制御装置が正しく機能するのは、制御装置のもつ外的世界のモデルが十分に高い精度で外的世界を表現しており、制御装置の動作が適切に外的世界に働きかけているからにほかなりません。そして、制御装置が動作する外的世界を人はおのれの認識する世界に取り込み、この制御装置が正しく動作していると理解します。

投射される世界

人は、自らの自我の内部に構成された外的世界が、自らの内部ではなく、眼前に広がっているように認識しています。これは人の精神的な働きで、液晶プロジェクタが、装置内部に形成された像を大きなスクリーンに投射するように、人は自らの自我の内部に形成された外的世界のイメージを、眼前に想定された外的世界のあるべき場所に投射した形で理解・把握している、というわけです。

この「投射」している様をカントは「オブジェクト」と呼びました。

ギリシャの哲学者は、実体である外的事物(サブジェクト)が人の心に投射した概念を「オブジェクト」としていたのですが、カントは、これを180度反転させる形で、人の心(先験的自我)の認識した世界を実体(サブジェクト)とし、外的世界は人間精神が眼前に投射した物(オブジェクト)とみなしたわけです。(詳細はこちらをご参照ください。)

今日の自然科学者の多くは、外的事物を実体とみなしているのですが、量子力学の観測問題においては、観測された世界の重みが増しております。このあたりにつきましても、いずれ改めて考察したいと思います。

追記

叙述N 故に 結論C』という構文において『故に』は「叙述Nに対する推論を停止する効果がある」と述べましたが、似たようなことをCSH(Cシェル)がおこなっております。

CSHは、Unixで動作するコンピュータへのコマンドを解釈するシェルと呼ばれるプログラムで、コマンドといくつかのパラメータを与えて実行させます。この時、パラメータが他のコマンドを含む場合、通常はこれを実行せずに、そのままの文字列としてコマンドに渡されるのですが、バッククォート(『』)で囲まれている場合にはこれを実行するのですね。

たとえば『echo today is `date`』と入力してリターンキーを押した場合、CSHは、パラメータを文字列として表示するechoコマンドを実行するのですが、バッククォートで囲まれたdateをコマンドと解釈して実行し、その結果をdateという文字列と置き換えてechoコマンドに渡す。dateコマンドは当日の日付を返すコマンドですので、『echo today is `date`』の実行結果は『today is Wed April 26 08:20:11 JST 2023』のように出力されます。ここでバッククォートを付けない場合は、『today is date』となるわけですね。

故に』という言葉は、CSHのバッククォートの逆の作用をする、というわけですね。つまりその前に置かれた叙述に対して、論理的推論を停止する、という効果を持つというわけです。(2023.4.26)