コンテンツへスキップ

ニュートンの「プリンシピア」における絶対時間

本日はニュートン著「プリンシピア」の第1巻から、ニュートンの絶対時空に対する考えを読み解き、今日的な観点からこれに批判を加えたいと思います。このエントリーでは、まず、時間について議論しましょう。

ニュートンのプリンシピアでの時空の扱い

ニュートンはプリンシピアの第1巻最初に、質量、運動量、力などの定義を与えたのち、(ブルーバックス版でP30)として次のように書き、万人周知の概念である時間、空間、場所、絶対運動などには定義を与えないとします。(以下、可読性を改善するため、引用部にも適宜段落を補っています。)

以上において、まだはっきりと知られていない言葉に定義を下し、以下の講述において理解してほしいそれらの言葉の意味を説明した。時間、空間、場所及び運動などには、万人周知のものとして、その定義を与えることはしない。

ただ注意してほしいことは、普通一般の人々は、これらの諸量を、それらが感覚的対象に対してもっている関係だけからの観念で理解しているということである。そして、それゆえに、ある種の偏見をひき起こすのであるが、それらを除去するために、それらを絶対的なものと相対的なもの、真なるものと見かけ上のもの、数学的なものと通常のものとに区別するのが便利であろう。

原文(ラテン語)はプロジェクト・グーテンベルクにあり、該当箇所は以下の通りです。

Scholium

Hactenus voces minus notas, quo in sensu in sequentibus accipienda sunt, explicare visum est. Nam tempus, spatium, locum et motum ut omnibus notissima non definio. Dicam tamen quod vulgus quantitates hasce non aliter quam ex relatione ad sensibilia concipit. Et inde oriuntur prajudicia quadam, quibus tollendis convenit easdem in absolutas & relativas, veras & apparentes, Mathematicas et vulgares distingui.

Andrew Motte氏訳の英語版はこちらにありますが、このサイト、直訳すると「赤信号強盗」という、N国党みたいな人たちのサイトです。つまり、交通違反の罰金を取るのは強盗みたいなものだ、と主張してるわけですから。ちなみに、冒頭の“SCHOLIUM”はラテン語で、英訳すると“Note”、日本語では「注」に相当します。

SCHOLIUM.

Hitherto I have laid down the definitions of such words as are less known, and explained the sense in which I would have them to be under stood in the following discourse. I do not define time, space, place and motion, as being well known to all. Only I must observe, that the vulgar conceive those quantities under no other notions but from the relation they bear to sensible objects. And thence arise certain prejudices, for the re moving of which, it will be convenient to distinguish them into absolute and relative, true and apparent, mathematical and common.

以下の原著、英訳版の出典も同様です。

ここでニュートンは、時間、空間、場所、運動は万人周知であるから定義は与えないといいながらも、絶対的で数学的で真のものと、相対的で普通の見かけ上のものとを区別しなくてはいけないとするのですね。

この区別は、これだけでは何のことかわからないのですが、具体的な説明を聞けばなんとなく理解できます。

プリンシピアの絶対時間と相対時間

ニュートンはまず、時間について説明しますが、ここで絶対時間相対時間という概念を導入します。

I. 絶対的な、真の、そして数学的な時間は、おのずから、またそれ自身の本性から、他の何物にも関わりなく、一様に流れるもので、別の名では持続と呼ばれる。

相対的な、見かけ上の、そして通常の時間は、運動というものによって測られる持続の、ある感覚的な、また外的な(正確であれ、あるいは不均一なものであれ)測度であり、普通には真の時間の代わりに用いられる。すなわち、1時間、1日、1か月、1年といった具合である。

ラテン語版原文は、以下の通り、

I. Tempus absolutum verum & Mathematicum, in se & natura sua absq; relatione ad externum quodvis, aquabiliter fluit, alioq; nomine dicitur Duratio; relativum apparens & vulgare est sensibilis & externa quavis Durationis per motum mensura, (seu accurata seu inaquabilis) qua vulgus vice veri temporis utitur; ut Hora, Dies, Mensis, Annus.

英訳は、以下の通りです。

I. Absolute, true, and mathematical time, of itself, and from its own nature flows equably without regard to anything external, and by another name is called duration : relative, apparent, and common time, is some sensible and external (whether accurate or unequable) measure of duration by the means of motion, which is commonly used instead of true time ; such as an hour, a day, a month, a year.

ここで、ニュートンは時間について解説します。そして、数学的な真の時間は他とは関係なく一様に流れるものであるとします。

ニュートンの言う絶対時間は、物理学が扱う座標系の一要素としての時刻であり、これに対比される相対時間は、日常一般に語られている時間時刻といった意味でしょう。

絶対時間への批判

ところで、この「絶対時間」に対して、以下の訳注がついています。

ニュートンは、どんな対象にも関わりなしに一様に流れる「絶対時間」(absolute time)というものを考えた。

19世紀の末頃エルンスト・マッハ(Ernst Mach)はこの考えに厳しい批判を加え、このような「絶対時間」はどんな運動を用いても測定できるものではなく、したがて、それは実用上の価値もなければ、科学上の価値もない、いわば無用の「形而上学的」概念にすぎないものであるとした。(『マッハ力学』伏見譲訳、講談社、昭和44年、206頁)。

この問題は結局アインシュタイン(Albert Einstein)の相対性理論によって、より深い立場から考え直されることになった。それによれば、運動している任意の基準系(座標系)の「局所時間」と「絶対時間」を区別する方法はなく、したがって「絶対時間」は物理的実在性をもたないものであり、およそ時間の記述は、特定の基準系に関してのみ意味を持つものであるということになった。(『アインシュタインの相対性原理』マックス・ボルン著、瀬谷正男訳、講談社、昭和46年、246頁)。

ここで、絶対時間とは、空間のあらゆる場所で等しく流れる時間を意味するのですが、絶対時間は測定できないから意味を持たないとマッハは主張します。この主張は、相対論的な時間概念にも相通ずるのですが、マッハは独特の世界観をもっており、マッハの時間概念に関して論を深めることは混乱のもとになりそうです。

そこで、相対論的な空間概念と、その中での時間はどのように扱われるか、私の理解するところを以下述べることといたします。

ボルンの主張:局所時間

まず、マックス・ボルンの指摘については、以前のエントリー「ボルン著「アインシュタインの相対性理論」を読む」でご紹介しましたように、以下が結論となります。

互いに相対的に並進運動を行っている無限に多くの等しく正当な系―慣性系―が存在し、これらの系では力学の法則はその単純な古典的な形式のままで成立する。

英語版では以下の通りです。

There are an infinite number of equally justifiable systems, inertial systems, executing a motion of translation with respect to each other, in which the laws of mechanics hold in their simple classical form.

そして、局所時間はそれぞれの慣性系に固有のものであって、互いに相対運動するすべての慣性系に共通の絶対時間など想定することはできない、ということがその結論になります。

4元時空と局所時間

慣性系とこれに付随する局所時間という考え方は、さらに詳しく見れば、三次元空間である慣性系Aに局所時間TAが付随しており、この慣性系Aから観測される他の併進運動する慣性系Bには、慣性系B固有の局所時間TBが付随している、そして、これらの慣性系は相互に同じであり、それぞれの慣性系で同様に物理法則が成り立つ、というのがボルンの指摘です。

特殊相対性理論は、これらの座標系と局所時間の関係を記述するもので、我々が生きている世界が3次元空間に時間軸を加えた4次元の世界(4元時空と呼びます)であると結論付けております。そして、互いに等速直線運動する座標系の間での座標変換は、ローレンツ変換の形で与えられるのですが、これは時間軸と空間軸を含む平面内での回転変換となります。

その意味するところは、慣性系が互いに併進運動しているという意味は、それぞれの慣性系の時間軸が互いに異なる方向を向いているという意味です。このそれぞれの時間軸が局所時間であり、これが時間のすべてなのですね。

われわれが住む4元時空とはそういう世界であるということに思い至れば、ニュートンが主張するような宇宙全体で単一の絶対時間などあり得ないということが、ご理解いただけるでしょう。

時間軸に関しては、以前のブログで論じましたように、虚数的に扱うことで空間軸と同じ式が適用できるのですが、時間軸と空間軸の双方を含む平面内での回転変換に対してローレンツ変換の公式を用いることで、実数的に扱うことができます。

観測者の生み出す時間感覚

座標系に時間軸が含まれる世界は、実は、凍った世界です。

たとえば、列車のダイアグラムは、横軸に時刻、縦軸に位置(駅名)を目盛り、各時刻における列車の位置をプロットしたものです。この図は、列車の移動を説明するものなのですが、図自体には動きはなく、列車の位置を示す線を人間が目で追うことにより、列車の移動を感じ取ることができます。

ダイアグラム

4元時空内にいる人間(観測者)は、当然のことながら、過去の世界には過去の自分自身が、未来の世界には未来の自分自身が、無数に連なって存在します。そして観測者の意識は、連なる自分自身の中を過去から未来へと移動しております。そして、この移動速度(4元測度)が局所時間と呼ばれるものです。

観測者から見れば、自分自身は静止しているため、1時間後には、空間的な位置は移動せず、ただ時刻が1時間後となります。これをあえて表示すれば時速1時間(1 Hr/Hr)ということになるのですが、時速1時間は分子分母が同じですから、無次元数の1となります。

ある観測者Aが他の観測者Bから見て空間的な速度をもっている場合、これに時間的測度を加えた(1, ux, uy, uz)/√1 - u2/c2が観測者Bから見た観測者Aの速度ということになるのですが、これは同時に、観測者Bから見た観測者Aの時間軸ということにもなるのですね。

ここで、速度の分母は速度の絶対値を1にするための補正係数であり、4元ベクトルの大きさは観測者の速度によらず一定であるために必要となるものです。

この係数が実は、特殊相対性理論における時間や空間の伸び縮みといった、一見不思議な現象を起こす原因となっているのですが、長さ一定の柱が傾けば高さは低くなるのと同様の、取り立てて不思議な話ではないのですね。

さて、観測者Bが東京から新幹線で京都に向かう場合、彼の時間軸は現在の東京から2時間15分後の京都に向かって伸びており、東京駅にいる観測者Aの時間軸は、現在の東京から2時間15分後の東京に向かって伸びております。観測者AとBとは、互いに異なる時間軸を感じているのですね。

無数に存在する慣性系において、時間軸はそれぞれ4元時空内の異なる方向を向いている。これが、時間軸を「局所時間」と呼ぶ理由であり、これらはあくまでそれぞれの座標系に固有な相対的な時間であって、絶対時間などというものは存在しない。これが相対論的世界観における時間概念です。

時間軸と空間軸はなぜ異なるか

時間軸は、空間軸と異なり、これを含む平面内での回転はローレンツ変換で記述されます。この回転変換を空間軸同士が作る面内での回転と同じ式で扱おうと思えば、時間を虚数として扱う必要が生じます。

これらが意味することは、時間軸と空間軸は異なる扱いをしなければいけないということなのですね。

一方時間軸は、それぞれの慣性系固有の局所時間であって、互いに相対運動する観測者から見れば4元時空内の異なる方向を向いている。そうなりますと4元時空自体は等方的であり、時間軸に空間軸と異なる性質を与えているのは観測者である、ということになります。

観測者は4元時空から、現在に相当する3次元空間を切り出す形で観測を行っており、この際にこの三次元空間に直交する時間軸に特殊な性質を与えている、と考えるしかないでしょう。

もの自体の世界と認識された世界

先日のブログに書きましたように、人はもの自体を知ることができないとカントは主張しました。もの自体の世界は4元時空であると考えると、この主張は非常に納得のいくものです。

人は、4元時空そのものを知ることができません。この世界では、4つの次元は対等の関係にあります。

一方、人(つまり観測者)は、4元時空の中を運動の方向(局所時間)に沿って伸びた形で存在しており、その意識は時間方向に速度1で移動しながら三次元空間を次々と切り出しております。

人に意識される世界(観測される世界)では、時間軸はすべての空間軸に直交する方向に延びており、併進運動する他の座標系への座標変換はローレンツ変換の形で与えられます。これは、以前のこのブログでご説明しましたように、時間軸を虚数で表現した時の回転変換に相当します。

絶対時間が存在しないということは、観測者ごとに異なる座標系で世界を見ているということであり、世界はそれぞれの観測者にとっての世界であることを意味します。少なくとも、流れる時間は、人によって認識された世界に固有のものなのですね。

その世界の向こう側にある4元時空そのもの、時間軸と空間軸の区別がない、凍り付いた世界をありのままに感じ取ることは、人間には不可能であるといえるでしょう。

もちろん、4元時空の数学的モデルを推論することは可能ですが、それはあくまで頭の中で考えられたモデルにすぎません。カント的世界観は、相対論における時間概念と整合性が取れているともいえるでしょう。