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音喜多駿氏の5/27付けBLOGOS記事「政治家が前のめりになる『誹謗中傷』対策。改善は必要だが、冷静な議論を 」へのコメント

音喜多駿氏の5/27付けBLOGOS記事「政治家が前のめりになる『誹謗中傷』対策。改善は必要だが、冷静な議論を 」にコメントしました。


ユーザから見ればこれは全く逆の話なのですね。誰が力をもっているのか、という問題なのですが。

現状では、サービス提供側にはすべてが見えている。ユーザが何者で、どういう思想をしていて、嗜好はこれこれ、お金の使い方はどうであるか、などなど、すべてを知った上で、外部に対してはこれらを隠す匿名のサービスをしているのですね。

一方で、サービス提供側は、メッセージの流通に影響を与えないことで、内容に対する責任を逃れている。この結果、ネットコミュニケーションの無責任な現状が生まれてしまっているのですね。

だけど、サービス提供業者よりも為政者が強い場合には、サービス提供側の強みがすべて権力サイドに移る。そしてそれが外部からは見えないという点が非常に危ないのですね。

現在これができてしまっているのが中国などの一部の独裁国家であって、日本などではこれは難しいのですが、何らかの理由があれば一気にこちらに向かうことも原理的には可能。なんとなれば、現在のサービス提供側の有利な立場が何かの普遍的権利に立脚しているわけでもないからです。

実際問題として、自由や権限と責任はリンクさせなくてはいけない。サービス提供側がユーザの管理やメッセージのコントロールができるなら、この権限に対して責任を取らせるようにしないといけないのですね。

このための法整備が必要であることは確かなのでしょう。

なお、現在の法制度は、以前のパソコン通信の時代から後退している。

かつて、ニフティサーブというパソコン通信での誹謗中傷事件に対して、中傷した者と、ニフティ(企業)と、モデレータ(司会者的存在)の賠償責任を認められたことがあったのですね。

これを援用するなら、今回の事件も、中傷メッセージを発信した者とSNSの主催者が責任を問われなくてはいけない。それができないのはなぜか。この点を解明していかなくてはいけません。


他の方のコメントへの返信が発展しております。

山口一夫

ネットの中傷による犠牲者と言われていますが、本当にそうなのかが わかりません。自殺という言葉が、出てこないことが奇妙に思えます。

ネットの犠牲者という言葉で法改正が論じられたり、1人のツイート から法改正が延期されたり、何か世の中がおかしくなっています。

犠牲者の方も、もとはドラマにでた結果で、悪役を演じたわけらしい です。悪役はそもそも憎まれることを目的としているため、誹謗中傷 されるのは予測された結果ではないでしょうか。やはり、自分を公開 するには覚悟がいるわけです。

その覚悟や知識がなかった一人の犠牲者によって、ネット社会の検閲を 法で定める議論は行き過ぎです。また、マスコミが盛んに煽っています が、これはネット排除を狙っているとも思えます。

私は、まさに表現の自由が規制される第一歩のように見えます 1人の女性の死は、いたましいですが、それを政治問題化するのは 如何なものかと思います


瀬尾 雄三

これは、意図的に「自殺」という言葉を使わないようにしているのだと思いますよ。この手の事件は、連鎖反応を引き起こしがちですので、ディテールは一切報道しないのが理にかなっております。

そういう意味では、舛添氏のエントリーも少々問題なのですね。

ただし、無責任な匿名の誹謗中傷がやり放題という現状に問題があることは事実であり、こちらはこちらで対策の必要があることに、変わりはありません。


山口一夫

>>意図的に「自殺」という言葉を使わないようにしている

こだわって申し訳ないのですが、皆自殺を前提に考えているの ですから、後追いの心配は同じことではないでしょうか。

自殺とすれば遂行遂行した人にも責任が来るので、ネットの 被害者としたほうが、一方的にネットが悪くなる効果を狙って いると感じます。

このように、一つの事実を感情論へ誘導するのはいけないと 思います。宗教によって異なりますが、自殺は原因はともかく 本人の罪です。


瀬尾 雄三

山口一夫 さん

自殺報道が難しいのは、ディテールを報道すると真似をする人が出てくることで、特に青少年の自殺の場合、特定の場所や特定の方法などを報道すると、同じような場所や方法で自殺する人が出てくる。

単に自殺という行為それ自体を真似るということではないのですね。

もう一つは、いじめを苦にする自殺の場合、加害者に対する非難の論調が出てきてしまうのですが、似たような境遇の人がこれをみれば、なるほど、そうすれば復讐できる、などと考えてしまう恐れもあるのですね。

だから、この手の情報の提示は、いずれかの点で止めなくてはいけない。「自殺」という言葉を使わないのは、その一つのリミットを意識してのことかもしれません。

1 thought on “音喜多駿氏の5/27付けBLOGOS記事「政治家が前のめりになる『誹謗中傷』対策。改善は必要だが、冷静な議論を 」へのコメント

  1. mitsu minomi

    自由というのは
    1.成人で判断能力のある者は(valid consent, 有効な同意)
    2.身体と生命の質を含む「自己のもの」について
    3.他人に危害を加えない限り
    (harm-principle, 危害原理)
    4.たとえ当人にとって理性的にみて不合理な結果になろうとも
    (the right to do what is wrong, 愚行権)
    5.自己決定の権利をもち、自己決定に必要な情報の告知を受ける権利がある(autonomy, 自治権)、とするもの。

    なので(wikipedia)、今回のことは他人の危害を加えているので、自由という名に値しない。

    今回のことは、たんなるわがままな意見なのだ。

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