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俯瞰:邪馬台国(その5)古代出雲王国

このブログでは「俯瞰:邪馬台国」として「その1:邪馬台国の人びと」、「その2:狗奴国」、「その3:大和王権と二人の倭国女王」、「その4:尾張氏と倭国王」を公開してきましたが、今回は出雲に焦点を当ててお話を続けたいと思います。


丹波と古代出雲王国

実際のところはよくわかっておりませんが、大和王権や卑弥呼女王の支配する倭国に先立って、古代出雲王国が存在したとする考えが広くあり、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)がその文化圏を表すとする考え方があります。

後漢書倭伝(原文・和訳・解説)には、以下の記述があります。

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

建武中元二年、倭奴国が貢を奉り朝賀す。使人は自ら大夫を称す。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす。安帝、永初元年、倭国王帥升等が生口百六十人を献じ、願いて見を請う。

この記述によれば、卑弥呼の朝貢に先立つ西暦57年に、倭国最南端の倭奴国(倭の奴国)が朝貢しております。奴国は倭国の一部であることが「倭國之極南界也」との言葉からわかりますが、ではここでいう倭国とは何かとなりますと、一つ該当するのが古代出雲王国であるわけです。四隅突出型墳丘墓の分布は、吉備・山陰・北陸に及んでおりますから、古代出雲王国の版図は北九州から富山県という日本海側の広い範囲に及び、中国山地を隔てた吉備をもその版図に含めた時期があったものと考えることができます。そして、丹波の海部氏が海人であることはその名前からも想像されるのですが、もう一つ、北九州の奴国も海人の国であり、この二国が出雲の東と西にあってその海運を担っていたのではないかと考えられます。丹波の地でも鉄や翡翠(ひすい)が発掘されることから半島交易をおこなっていた可能性がありますし、北陸地方や翡翠の産出する糸魚川付近までを活動範囲としていたものと思われます。

古代出雲王国

大山のふもとに、弥生時代中期(1世紀前半)から古墳時代初頭(3世紀前半)のものと考えられている大規模な集落「妻木晩田遺跡」があり、1/10ほどを発掘した段階で1,000棟弱の住居跡といくつかの四隅突出型墳丘墓が確認されています。この遺跡の最盛期は2世紀後半で、倭国王の帥升等による安帝永初元年(107)の朝貢時期に相当します。そしてその後徐々に衰え、3世紀中ごろにはほぼ消滅に至ります。

この時代に起こった気象変動として、古代後期小氷期と呼ばれる寒冷化の時期がありました。大阪府立大学地球環境科学類が公開している資料「これまでの気候の移り変わり(第五版)」によれば、次のようなことが生じております。妻木晩田遺跡が衰退に向かった理由として、1-2世紀に起こった寒冷化による食糧生産の低下が考えられ、これは同時に、古代出雲王国を衰退に向かわせる要因となったのでしょう。

古代後期小氷期

日本では弥生時代にあたる1~2世紀頃には寒冷期を迎えました。西暦300年頃に温暖な状態に一旦落ち着きましたが,400年頃には冷涼化のトレンドに戻り,5世紀中はそれが続きました。600~750年には再び著しく気候が寒冷化しました。この時代を古代後期小氷期(Late Antique Little Ice Age)と呼びます。この後,750~900年の間には旱魃が増えるなど顕著な温暖化があり,暖かい状態は10世紀まで続きました。

四隅突出型墳丘墓は、出雲の文化圏の広がりを推定する一つの手がかりとなります。下の図は、musica氏のブログ「別館 画廊musica」に掲載された「オホナムチさんの文献上の位置(国名に紫マーキング)」と「四隅突出型墳丘墓の位置(赤丸)」で、文献に現れた「オホナムチさん」の登場場所と四隅突出型墳丘墓はおおむね重なっております。「オホナムチさん」は、出雲を支配したとされる神「大国主命」ですから、広い範囲に出雲を中心とする文化が広がっていたことを示唆いたします。これを、本論では「古代出雲王国」と呼んでいますが、この王国は、宗教的権威に基づくものであり、統治機構を備えていたかどうかは明らかではありません。もっともそういう意味では、卑弥呼を中心とする倭国も宗教的結合に基づく国家であり、統治は個々の国の王がおこなっていたと考えられており、さほど異なる姿でもありません。

オホナムチは、漢字で書けば「大穴持命」と出雲の国風土記には記されているのですが、一般的な名前は大国主で、いなばの白兎の逸話などで有名な方です。大国主に関わる逸話はいずれも神話の類であり、歴史的事実とは思われないのですが、おおよそのストーリーとして、大国主は神殿の建造と引き換えに、王権を天孫族に譲ったとするもので、それぞれの伝承者が自らに都合の良いストーリーに脚色して後世に伝えたらしく、様々な変形が伝えられています。

とはいえ、出雲の王権が、後の大和王権の祖となる一族に譲られたと考えるのが素直な考え方であり、譲られたのが大和の王であるのか、九州の王であるのかが一つの疑問ではあるのですが、記紀神話を素直に読めば、九州の王に一旦譲られたとみることもできるでしょう。そして、これが、後漢書にある、西暦57年の「倭國之極南界也」である奴国の「太夫」の朝貢と、西暦107年の「倭國王帥升等」の朝貢の間に起こったと考えると、日本側の神話と、中国文献との間に整合性がとられることになります。つまり、いずれの朝貢も奴国の王がおこなっていたとすれば、57年には古代出雲王国を構成する一国である奴国の王(太夫)が朝貢し、107年には出雲から王権を譲られた「倭国王」として朝貢したという形になっております。

出雲からの各国の離反

古代出雲王国は後に強大な国となる3つの国を従えておりました。西の筑前(奴国、那国、灘などとも)、南の吉備、東の丹波です。灘と丹波は、それぞれ出雲の西側と東側で海運を担当し、朝鮮半島との交易も行っていたものと思われます。南の吉備と、東の丹波(尾張氏)は、比較的早い時期に出雲とたもとを分かち、大和の勢力に接近したものと思われます。このことは、箸墓古墳の後円部から吉備式の土器が、前方部から尾張式の土器が発掘されていることからも裏付けられるでしょう。

本論では奴国が後漢に朝貢したものと考え、57年の朝貢を倭国の一部である奴国として、107年の朝貢を倭国王として朝貢したと考えております。つまりこの間に、出雲からの王権の譲渡がなされたということですね。ここで、国譲り神話が正しければ、奴国王は王権を得る代わりに出雲に神殿を建立し、領地を安堵しております。つまりは、出雲・奴国連合があった可能性を本論はとりたいわけです。

魏志倭人伝によれば、「其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼と曰う。)」としており、卑弥呼擁立の前に「倭国大乱」と呼ばれる戦乱の時代があったと考えられます。卑弥呼擁立は、卑弥呼による最初の朝貢(西暦238年)の直前と思われ、その直前である3世紀の初頭に倭国大乱があったものと考えられます。なお、後漢書は「桓靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」と、「桓靈間」すなわち西暦146年から189年の間に倭国大乱があったとしているのですが、中国のこの時代は世が乱れた時期とされており、修辞的な形で「桓靈間」の言葉が用いられたのではないかと、本論は推定しております。

この時、誰と誰とが戦ったかという点が興味深いのですが、このヒントとなるのが魏志倭人伝に現れた官の名にみられる「卑奴母離」です。これは、後の我が国で地方を防衛するために置かれました官「夷守」に通じ、すべてに同一の名称であることから、卑弥呼の倭国が各国に置いた目付け役のようなものではなかろうかと推定されるのですね。つまり、卑奴母離が置かれた国は、江戸時代の外様大名のような、卑弥呼を支える主要国にかつて敵対した国であろうと考えられます。各国の官は次のようになっておりました。

この表より一目でわかることは、對馬国から不彌国に至る北九州の国々に卑奴母離が置かれており、おそらくは奴国を中心とする旧出雲王国を支えた国々と、投馬国(吉備に比定)と邪馬壹国(丹波、大和、美濃に至る、後の尾張氏支配領域)とが敵対したであろうと推察されます。この戦乱は、最終的に卑弥呼擁立という手打ちがおこなわれ、北九州勢の実質敗北の形で、吉備と邪馬台国指導の下、これに敗戦国が従う形で倭国の運営がおこなわれたのでしょう。

ここで、伊都国には卑奴母離は置かれていないのですが、魏志倭人伝の書き方をみますと、伊都国は卑弥呼政府の直轄となっている様子であり、卑弥呼政府は伊都国を窓口として大陸との外交をおこなった様子が読み取れます。伊都国は元来奴国と対立関係にあり、倭国大乱の際に奴国とは組まなかったとも考えられます。吉備としては、伊都国に肩入れすることで、競合国となり得る奴国をけん制するとの意図があったのではないでしょうか。

その後の出雲の戦乱

倭国大乱の以後も、何度か、出雲と卑弥呼を擁する倭国ないし大和王権との間での戦乱がありありました。

狗奴国と温羅伝説

このシリーズのその2にも書いたのですが、魏志倭人伝に西暦247年に、「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼と素(もと)より和せず、倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く)」との記述があり、この狗奴国を本論では出雲に比定しております。また、狗奴国と女王国の争いは、吉備の温羅伝説として伝えられており、この背景には、西暦244年と245年に行われた魏の将軍毌丘倹(カンキュウケン)による高句麗の丸都城の攻撃と落城があったものと推定しております。

つまり、女王国に対する狗奴国の攻撃は、出雲に逃げ込んだ高句麗の敗残兵が中国山地を超えて吉備に攻め入ったものであった、と本論は推定いたします。温羅伝説の一方の立役者である吉備津彦は、崇神天皇の時代の四道将軍の一人であり、出雲侵攻を武渟川別(たけぬなかわわけ)とともに行っております。また吉備津彦の別名「ヒコイサセリビコノミコト」から「ヒコ」と「ミコト」を除きますと、正始4年(西暦243年)の朝貢使節を率いた太夫「伊聲耆(イゼリ)」に近く、吉備津彦と伊聲耆が同一人物であるなら、魏志倭人伝と記紀の記述、そして温羅伝説がこの人物を通して一つに結ばれることとなります。

崇神天皇による出雲攻略

日本書紀によれば、崇神60年に天皇は、武日照命(タケヒナテルノミコト)が天よりもたらしたという神宝を一目見たいから借りて来いと命じて、武諸角を出雲に派遣します。そして、出雲の支配者、出雲振根(イズモフルネ)が筑紫に出かけて留守の間、この地を管理していた振根の弟、飯入根(イイイリネ)がこれを貸してしまうのですが、振根はこれに怒り、数年後に飯入根を謀殺してしまいます。そこで、崇神天皇は出雲に吉備津彦(キビツヒコ)と武淳河別(タケヌナカワワケ)とを遣わして出雲振根を成敗いたします。

ここで一つの疑問は、崇神天皇の命により出雲に派遣されたのが正始4年(西暦243年)の朝貢使節を率いた「伊聲耆(イゼリ)」に該当する彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)であるのか、という点です。正始4年の朝貢は、卑弥呼の時代であって、天皇の代では崇神天皇の先代の開化天皇の時代にあたります。この時代に活躍した吉備津彦が、果たして崇神天皇の代にも活躍したかとなりますと、少々疑問があるわけですね。

実は、吉備津彦と呼ばれた人物は二人おり、一人は上で論じた「彦五十狭芹彦命」と呼ばれた吉備津彦であり、もう一人は彼と多くの場合行動を共にした「稚武彦命(わかたけひこのみこと)」、古事記では「若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」「若建吉備津日子命」などとされた吉備津彦なのですね。彼は「稚武彦(わかたけひこ)」と呼ばれ、上の大吉備津彦とは区別されております。

稚武彦は吉備津彦と行動を共にすることが多かったことから、吉備津彦が正使を務めたと本論が想定しております正始4年の朝貢の折にも稚武彦がこれに加わっていた可能性が高いものと思われます。この時の副使を「掖邪拘(えきやく)」と魏志倭人伝は伝えておりますが、最初の文字が「わ」と読まれる文字であったとすると「ワカク」と読むことも可能であり、「ワカヒコ」がなまった可能性もあるのではないでしょうか。

崇神天皇時代の吉備津彦が実は稚武彦であったという可能性は、魏志倭人伝に書かれた朝貢使節の記事からも補強されます。正始4年(西暦243年)の朝貢使節では、正使が太夫伊聲耆(彦五十狭芹彦命に比定)、副使が掖邪拘(稚武彦に比定)であったのですが、二代目女王の市が派遣した朝貢使節(泰始2年=西暦266年と推定)では、正使が太夫掖邪拘となっております。本論では太夫を倭国を構成する国々の王と考えているのですが、これが正しければこの間に彦五十狭芹彦命から稚武彦に、吉備の王の代替わりがあったことになります。

四道将軍が活躍するのは、二代目倭国女王である市に相当すると考えております倭迹迹日百襲姫命の死後であり、出雲成敗も同様ですので、この時点での吉備津彦は稚武彦であった可能性が濃厚です。二代目倭国女王(市=倭迹迹日百襲姫命)の死後に四道将軍が諸国を平定し、崇神天皇は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と呼ばれるようになる。当時の大和王権は東国までの支配権を得ておりませんから、ここでの「平定」は、実際のところでは新たな倭国王の誕生を告げたということだとは思いますが、二代目倭国女王である市の死により、崇神天皇が宗教的権威としての倭国王の地位に就いた、これを諸国に伝達した、ということですね。そして、その地位を確かなものとするため、崇神天皇に競合する可能性のある宗教的権威である出雲を平定した、というのが実際の流れではなかろうかと推察しております。

いずれにいたしましても、政治権力としての出雲は、吉備津彦らによる出雲成敗によって潰えるのですが、祭祀の主体としての出雲は、後の大和朝廷にも尊重され続け、現在に至っております。


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