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篠田英朗氏の7/22付けBLOGOS記事「電通・博報堂の価値観のままで、オリパラを乗り切れるか」へのコメント

篠田英朗氏の7/22付けBLOGOS記事「電通・博報堂の価値観のままで、オリパラを乗り切れるか」にコメントしました。


そもそもなぜ、日本はこんな冒険主義的な試みをしているのか。

日本のお笑いとか、テレビ番組、特にバラエティの倫理レベルが、全然なっていないことが問題の本質でしょう。特に少し以前はひどかった。今日の日本社会にはびこっております「いじめ」の起源はテレビ番組だろうし、女性蔑視も、少し以前のお笑い番組では、全く普通のこととして扱われていたのですね。

だから、昔から活躍しているプロデューサやタレントを起用して過去を洗われれば、脛の傷の一つや二つあったっておかしくはないし、かといって若い人を起用しても、テレビのバラエティ番組の影響を受けていたりしたら、やっぱりアウトとなる可能性が高い。

もう一つの問題は、日本の多くの組織が、国際的な標準に即した普遍性を目指さず、内向きの社会になってしまっているということ。これは、ポストモダンの時代には即した組織文化のあり方でもあるのだけど、オリンピックのような、国際社会という大きな物語の上に立脚している場面に持ってこられると力を失うのですね。都会に出てきた田舎者が嘲笑の対象になってしまうような話で、これもある意味では「いじめ」であるのだけど、社会常識をわきまえない人が笑いものになってしまうことは、これはこれでやむを得ない面もあるのですね。

結局のところ、オリンピックのような国際的な行事に際しては、海外で活躍している人、海外にも通用するプロデューサやタレントを起用するしか「冒険主義的な試み」から脱する手立てはない、ということでしょう。まあ、長い目で見れば、我が国の社会や組織が、より国際的にも通用する、普遍性に即した場になっていかなければいけない、ということなのでしょう。でも、「中の人」が変わらない限り、これはなかなか難しいのでしょうね。


もう一件コメントしました。


> しかし通常は、多様性(diversity)を包含する(include)することができるのは「世界(The world)」という一つの共通の場があればこそだ。「世界」それ自体が複数になってしまうと「共有する場」が失われてしまう、というのが、普通の国際社会の考え方である。

“Worlds”を否定するこのエントリーには少々腑に落ちないものを感じていたのですが、そうそう簡単に結論が出せるわけでもなく、時間がたってしまいました。

まず、上の引用に関しては、人類全員が「一つの共通の場」に生きているとする考え方は、ポストモダン以前の考え方であり、レヴィ・ストロースらが構造主義を唱えて以来は、むしろ「多文化併存の相対主義」が思想界の主流ではないかと思います。

そしてそうなった理由は、西欧文明が唯一絶対であるとする「大きな物語」が終焉を迎えてしまったということ。この一つの原因に、我らが日本の80年代の躍進もあったことは、ちょっと誇ってもよいのですね。(それ以外にも、資源国などの興隆や、マイノリティの人権尊重などもあったのですけど。)

URLが示せないので、以下、立教大学の上田信教授が立教大学全学共通カリキュラム運営センターのNewsletter(2008.12.1)に書かれた「そこも地球の真ん中 」の一節を引用しておきます。(ちなみに、語学教育の役割を語る一文ではあります。外大の方も、ちょっと考えたほうが良いような、、、)

> 現代を生きる力とは、地球という球体を遠く宇宙から俯瞰する力と、その球体の上に複数形の世界(worlds)が存在していて、自分の世界もそのなかの一つであり、さらに他にも存在する多様な世界が存在することを実感できる力ということになるのではないか。「(わたしが生きる)ここも真ん中」という意識とともに、「(あなたが生きる)そこも地球の真ん中」だと語れる力である。

1 thoughts on “篠田英朗氏の7/22付けBLOGOS記事「電通・博報堂の価値観のままで、オリパラを乗り切れるか」へのコメント

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