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幻冬舎plusの12/3付けBLOGOS記事「『やばみ』『うれしみ』の『み』はどこから来たのか|日本語の大疑問 – 国立国語研究所」へのコメント(ブログ限定)

幻冬舎plusの12/3付けBLOGOS記事「『やばみ』『うれしみ』の『み』はどこから来たのか|日本語の大疑問 - 国立国語研究所」へのコメントですけど出ていきません。まあ、そうなるとは思いましたけど、、、


このエントリーに現れております言葉でも「面白さ」に対して「面白み」という言葉はあり得る。そもそも、たいていの形容詞に「さ」を付けて名詞化できるし、「み」を付けても名詞化できるのですね。

この双方の違いは、「さ」は名詞化された対象の実質的存在を指し示しているのに対し、「み」はそれを受け止める人間精神の側における現れ、そういう現れを生起せしめる特性の存在を意味していると理解するのが良いのではないでしょうか。

この違い、絶対的事実を述べるのか、己の感覚を述べるのか、という違いであって、「さ」には相当な責任が伴うのに対して「み」は単に自分の感覚を述べているだけという気楽さがある。

そうなりますと、この風潮、一つの流れに位置づけられるのかもしれません。思い起こせば、「というかぁ」とか「みたいなぁ」とか「一応」という言葉は、ホリエモンが登場したころから若者の会話に多くみられておりました。これと似たような話であるように私には思われるのですね。

つまるところ、このような傾向は、近年の若者たちの、断定的表現を避けて、あいまいに、雰囲気を伝えたいという意識に対応したもので、このような言葉を使うことによって、主体的関与を避け、傍観者的立場に自らを置こうという意識の表れと考えられるわけで、形容詞の名詞化語尾である「み」の多用と通底するものがあるように思われます。

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