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スノーの二つの文化と文系問題

黒坂岳央氏の8/29付けアゴラ記事「日本語がおかしい人は地雷である」への、今度はコメントです。ふむ、出て行きません。二つ目のコメントは拒絶、かな? 再ポストは出てます。文字数の問題か、一日1コメントの制限があるのか、、、


今朝方茶々を入れてしまいましたが、まじめなコメントも付けておきます。このエントリーで黒坂氏が主張していることは、コミュニケーションの成り立たない相手がいる、という事実でしょう。このような問題は、「異文化コミュニケーションの問題」として古くから認識されており、解は「普遍的コミュニケーション」とされております。

まあ、「普遍的」という意味は、誰にとっても妥当するということで、更にその意味を問われれば「文化の異なる人々にも通ずる」という意味ですから、この解は、トートロジーといいますか、何も語っていないようなところもあります。

この問題がもっと深刻なのは、わからなくてはいけないことがわからない人たちがいる場合でして、1990年以降、情報技術が急速に進展し、業務のあらゆる局面への応用が図られたのですが、これを使えない人がいる、という問題で、要は、数学的センス、論理的思考能力のない人たちがいるという問題なのですね。

最近時々聞く『文系問題』というのがこれかもしれませんけど、この問題は古くから知られており、C.P.スノーの『二つの文化』という概念が有名です。つまり、数学のわかる人とわからない人がいる、という意味ですね。ファインマンも数学のわからない人には手を焼いたようで、ちょくちょくこのスノーの概念を引き合いに出されております。

このエントリーを読んで強く感じたのはそういうことなのですが、違いますでしょうか? そしてもう一つ感じたことは、「数学のわからない人を地雷と考えているのならよいのだが」ということです。まあ、難しいことは考えないようにいたしますが。


(9/1追記)以下に修正して再投稿いたしました。SPAM扱いされなければよいのですが、、、


このエントリーで黒坂氏が主張していることは、コミュニケーションの成り立たない相手がいる、という事実でしょう。このような問題は、「異文化コミュニケーションの問題」として古くから認識されており、解は「普遍的コミュニケーション」とされております。

まあ、「普遍的」という意味は、誰にとっても妥当するということで、更にその意味を問われれば「文化の異なる人々にも通ずる」という意味ですから、この解は、トートロジーといいますか、何も語っていないようなところもあります。

この問題がもっと深刻なのは、わからなくてはいけないことがわからない人たちがいる場合でして、1990年以降、情報技術が急速に進展し、業務のあらゆる局面への応用が図られたのですが、これを使えない人がいる、という問題で、要は、数学的センス、論理的思考能力のない人たちがいるという問題なのですね。

最近時々聞く『文系問題』というのがこれかもしれませんけど、この問題も古くから知られており、C.P.スノーの『二つの文化』という概念が有名です。つまり、数学のわかる人とわからない人がいる、という意味ですね。ファインマンも数学のわからない人には手を焼いたようで、ちょくちょくこのスノーの概念を引き合いに出されております。

問題は、黒坂氏がどちらの文化に属するかという問題で、このエントリーからはその点が読めないのですが、気になる点ではありました。

1 thoughts on “スノーの二つの文化と文系問題

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