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「共感が動かす社会」の危険性

池田信夫氏の9/16付けアゴラ記事「統一教会の『魔女狩り』をやめて宗教法人法を改正せよ」へのコメントです。(9/17追記あり)


理性的に考えれば明らかにおかしな社会現象がしばしば生じる原因は、大半の人びとが『知性』にではなく『共感』に従っているからなのですね。統一教会に対するキーワードは「気持ち悪い」。この感覚は、一つ間違えれば、赤狩りのような思想統制や、人種差別の方向にだって向かいかねないのですね。

ポール・ブルームは「反共感論/社会はいかに判断を誤るか」の中で次のように述べます。

共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。

興味深い点は、反共感論を持ち上げた佐倉統東大教授(科学技術社会論)の朝日新聞書評に対して、中筋直哉法政大学教授が次のように批判している点なのですね。http://nnakasuji.ws.hosei.ac.jp/wp/?p=1287

それを誰よりも先に批判しなければならないのが「科学技術社会論」なのではないのか。その批判の倫理的根拠は、他でもない「社会」、すなわち佐倉が馬鹿にしている、疑似科学に踊らされ、情動的共感しかできない私たちではないのか。

この文章で、今日の『リベラル』の問題がわかったような気がしました(外しているかもしれないけれど。)つまり『情動的共感』で動いているのだ。だから、反ワクチン論や(合理性に欠く)原発反対運動がでてくるのですね。こういうことをやられるから、まともな議論ができなくなる。困ったものです。


(9/17追記)以下、コメントにお答えしての注記です。

「共感」の反対概念は「反感」ではなく、「理解」、「納得」といった感覚でしょう。

これは、共感が感性の働きであり、反感も同じく感性的な反応なのですね。これに対して理解・納得は知性への働きかけということになります。

インターネットは、知性に働きかけるコミュニケーションも不可能ではないのですが、広範な人々がこれを使うとなりますと、感性的なメッセージの方が受けが良い、PVも稼げるとなりまして、メッセージの発信を商売としている人たちは、感性的なメッセージを送出しようというインセンティブが働いてしまうのですね。

そして、最も効果的な感性的メッセージが、社会集団を分断する感性的メッセージで、「俺たち」と「奴ら」に人々を分断し、「俺たち」に心地よいメッセージを発信すればよい。このようなメッセージは「奴ら」には反感を与えるというわけです。

典型的なのが「ネトウヨ」「パヨク」の二分法ですが、「原子力村」に対抗して出てきた「放射脳」などもその一つですね。まあでも、この手のメッセージは、最初から感性に働きかけることを意識しているわけですから、まともに取り合う必要もないメッセージであるともいえます。下手に、カチンときて反論したりするとドツボにハマるのですね。

コミュニケーションツール(メディア)には、古来より、感性に働きかけるものと知性に働きかけるものがあります。一般に会話などのオーラルコミュニケーションのような、一過性のコミュニケーション手段は感性に働きかける傾向が高く、書かれた文字によるコミュニケーションのように跡が残るものは知性に働きかける傾向が高い。

ところがインターネットコミュニケーションは、瞬時に伝わるという意味で話された言葉と類似する性質を持つ一方で、記録が残るという意味では印刷物と同じ性質も持つ。このため、利用者は時として混乱してしまうのですね。

私としては、ネットを介したコミュニケーションも知性に訴えるべきとの考えをもっており、ここ何年かは、ボードのコメント欄もブログにコピーを残すようにしております。こうすれば、古いメッセージも再度利用できまして、言葉に厚みも出るというものです。

まあ、このあたりはいろいろな考えがあり、他人に強制することもできないのですが、、、

2 thoughts on “「共感が動かす社会」の危険性

  1. mitsu minomi

     つまり合理性がある話を共感できるように話を持っていけばいいわけだ。
    なのに池田氏は放射能やコロナ脳などといった「反」感を起因することばかりしている。
     
    だから、その言葉を使ってはいけないといったのに。。。

    氏にはこの言葉がぴったりだ。
    「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」

    こうやって敵を増やしているのだ。

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