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卑弥呼とヤマト王権を読む (1)

本日は、久方ぶりに書物を読むことといたします。題して「卑弥呼とヤマト王権 (中公選書 134)」、考古学者寺沢薫氏の手になります全430ページの大著です。今回は、「その1」として、前半部分をご紹介することとします。


同書のアプローチと構成

邪馬台国や女王卑弥呼に関する書籍は、多数出版されているのですが、同書の特徴は考古学者の手になるという点で、内容も考古学的な部分に比重がかかっております。反面、文献をあまり重視しない傾向があり、文献内容に対して無視のし過ぎであるような印象も受けます。

ただし、寺沢氏は、邪馬台国大和説に立って論を進めており、書籍化された邪馬台国論に九州説が多い現状から、一歩進んでおります。

同書の章立ては、次のようになっております。

  • プロローグ
  • 第1章:纏向遺跡論
  • 第2章:日本国家の起源を求めて
  • 第3章:王権誕生への道
  • 第4章:王権の系譜と継承
  • 第5章:卑弥呼共立事情
  • 第6章:卑弥呼とその後
  • エピローグ

第1章:纏向遺跡論

130頁余りを費やしますこの章は、纏向遺跡に関する考古学的事実の紹介で、纏向遺跡には8つの特徴があると言います。

第1の特徴は、それまで人手の加わっていない土地に、3世紀に入ってから急速に人が集まり、巨大な集落を形成したことで、都市の形成と呼ぶにふさわしい遺跡である点です。

第2の特徴は、この地で見出される土器には、他の地で生産された土器が異常に多いことで、この地は経済的な物流センターの色合いがあっただけでなく、政治的な中心も兼ねていたと考えられております。

第3の特徴は、纏向の地に農耕的な色彩が乏しいことで、都市的な性格を持つ地であると考えられております。

第4の特徴は、同時代の他の遺跡には見られない珍しい遺物が纏向にあったこと。一つには紅花など、日本には存在しないはずの花粉が見つかっており、染料となるこの花が、シルクロードを経由して我が国にもたらされたものと考えられています。また、日本最古の絹製品である巾着が発見されております。

第5の特徴は、前方後円墳が纏向の地で発生したと考えられること。寺沢氏が明確に書いているわけではありませんが、その後の日本全国に前方後円墳が拡大したことから、この地は、少なくとも文化面でのリーダ的地位を占めていたと思われます。

第6の特徴は、幾何学的な、瓠帯文と呼ばれる文様の刻まれた呪具が見つかっていることで、吉備の王墓から引き継がれたと考えられております。

第7の特徴は、導水遺構で、井戸などの水源から木樋や溝で水を流すもので、宗教的行事に使われたと考えられております。

第8の特徴は、特異な堀立遺跡で、伊勢神宮や出雲大社に似た性格があると考えられる点です。寺沢氏はこれを最初の大和王権の大王宮にふさわしいと致します。

このあたりの特徴を見ますと、纏向は倭王卑弥呼の居城にふさわしいように思えます。

第2章:日本国家の起源を求めて

ここでは、まず、「日本国家」がいつ誕生したかという論争7・5・3論争が紹介されます。これ、日本国家が7世紀に成立したのか、5世紀に成立したのか、3世紀に成立したのか、という議論で、たしかに日本という名前が用いられるは7世紀になってからだし、大和王権の支配する範囲が東国にまで及ぶのは5世紀になってからなのですが、卑弥呼の倭国を魏が認めたのは3世紀であり、寺沢氏は3世紀を日本国家の始まりとみなしております。

ここで少々違和感を感じますのは、国家の定義を考察するにあたってマルクス、エンゲルス、レーニンを持ち出している点で、このような議論は不毛であるように、私には思われました。

もう一つ、私が違和感を覚える点として、寺沢氏は、初期の日本国家を「イト倭国」であるとするのですね。同書139ページに寺沢氏が掲げております地図には、多数の国が記されているのですが、一般に、北九州の古代の国々として、末盧国(まつろこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)の3か国がその代表的な国となっております。

伊都国は、たしかに考古学的には、多数の遺跡と優れた遺物が見出されており、面白い国であるのかもしれません。しかし、魏志倭人伝は、伊都国の戸数を千余戸としており、奴国の二万余戸と比較すると非常に少なく、伊都国自体が支配的地位にあるようには見えないのですね。ただし、魏志倭人伝は、伊都国を「郡使往来し常に駐する所なり」としておりますから、卑弥呼倭国の出先機関が置かれた可能性を示唆します。

後漢書には、卑弥呼以前の朝貢記録として次の二件が記載されています。

  • 西暦57年(建武中元二年)倭奴國(倭国の極南界)の自稱大夫による朝貢
  • 西暦107年(安帝永初元年) 倭國王帥升等による朝貢

寺沢氏は、後者を「イト倭国」による朝貢であろうと考えておられます。一方、57年の朝貢は倭国の極南界にある倭奴国によるとはっきり書かれており、107年の朝貢も奴国によると考えるのが自然であるように、私には思われます。奴国は倭国の極南界の国であるとしており、57年時点の倭国は奴国から北に広がっている必要があります。つまり、この時点での倭国は「イヅモ倭国」であったと考えるのが自然なのですね。107年時点での倭国王が奴国王であったと致しますと、この間に国譲りがおこなわれたこととなり、日本神話の記述と一つ整合性がとられることになります。

先にも示しましたように、戸数では、伊都国の千余戸に対して奴国は2万余戸と20倍の戸数を数えます。これで卑弥呼の時代に伊都国が主導的地位を得ている理由は、卑弥呼共立国の後ろ盾があったと考えるのが普通でしょう。

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