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スマホ中毒と二種類のメディア

黒坂岳央氏の10/10付けアゴラ記事「なぜスマホ中毒があってもPC中毒はないのか?」へのコメントです。


通信手段の人への影響に関しては、マクルーハンの「メディア論」が有名で、ラジオ・映画・書物などの情報量の多い「ホットメディア」とテレビ・電話・漫画などの情報量の限られた「クールメディア」を対比して、後者は受け手の参与を必要とするとします。このようなメディアの特性の違いは、その内容にも影響を与え「メディアはメッセージである」と彼は主張するのですね。

マクルーハンのこの主張は、ラジオや映画といったメディアがナチス興隆を助けたという反省と、当時拡大したテレビに対する期待を背景にしたものですが、今ではテレビは決して低精細度ではない。その情報量は、ラジオや映画に勝っているのですね。

マクルーハンはラジオと書物を共に「ホットメディア」に分類するのですが、その一方でラジオが潜在意識の深層に働きかける感性的であるのに対し、「印刷された言葉」は思考と感情を分離すると述べます。知性に働きかけるか、感性に働きかけるか、むしろこちらが、メディアの特性として重要なのではないか、と私は思うのですね。そして、ナチスの興隆へのメディアの役割は、感性に働きかける点にあったのではないかと。

PCを介したネットコミュニケーションとスマホは、どうかとなりますと、記録され長文が可能で繰り返し読まれるPCは、印刷された言葉と同様、知性に働きかける傾向があるのに対し、一時的に読み飛ばされる短文主体のスマホは、感性に働きかける傾向が高い。そして、CMなどの商業利用には、ナチス同様、感性への働きかけが要求されるのですね。

PCを介したメッセージも、短文で、感性への働きかけを狙うこともできる。でも、そうしたメッセージは危険性も伴うのですね。少なくとも私は、知性への働きかけを意識したメッセージを発信したいと考えております。このコメントも、そうしたものの一つではあるわけです。

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