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トリチウム水排出の「裏事情」

長谷川良氏の6/29付けアゴラ記事「AI『韓国側の主張は科学的ではない』」へのコメントです。


私はかつて、工場のフッ素排水処理処理装置の検討を行ったこともあり、その時の常識からは、今の議論は大いに狂っているとの印象を受けております。つまり、このトリチウム含有水の放出問題に関しては、長谷川氏のAIへの質問の仕方がポイントを外していますし、韓国側の批判もずれておりますし、日本側の主張も相当におかしい。このあたり、思うところをちょっと書いておきますね。

まず、一般に、排水規制の濃度基準は、健康に被害が出るか出ないかで定められているものではないということです。被害が出るか出ないかは、環境に放出された汚染物質の総量で決まり、濃度ではないのですね。では、なぜ濃度基準かといえば、技術的な実行可能性で決まっている。排水中のフッ素濃度は長らく50ppm以下と決められていたのですが、これは排水処理に使われる難溶性のフッ化カルシウムの溶解度がフッ素換算で50ppmだったからなのですね。

で、これを達成するためには、カルシウムを加えるなりなんなりして、50ppm以下にしなくちゃいけない。同じ濃度は、薄めても達成できるのですが、それは禁じ手というのが、排水処理に係る人たちの一般認識。これから見ると、トリチウム水の放出に対して「薄めて」などという言葉が出てくるのが「びっくり」なのですね。

もう一つは、廃棄物の海洋投棄は、原則禁止というのがこの世界の常識で、プロセス排水は許されるけど、溜まった廃棄物を海洋投棄するのは駄目という、ある種のダブルスタンダードが常識化されている。これも、プロセスを動かすことは必要だけど、貯めた廃棄物の投棄までは許さないとの、せめぎあいの結果でしょう。

だから、トリチウム水の放出に関しての王道は、トリチウム除去プロセスを動かして、基準以下のトリチウム濃度として排出する。それならプロセス排水だし薄めてもいない。これに文句を言う人だっているかもしれないけれど、この業界の常識からは、このあたりが落としどころであったような気がします。AIへの質問に際しても、このあたりを考えた上で行うようにしなくちゃいけません。


コメントがついております。

星光

> 被害が出るか出ないかは、環境に放出された汚染物質の総量で決まり濃度ではないのですね。

どういうことでしょうか?
体内で蓄積されない限り、濃度が重要なのでは?
トリチウムが放射するのは、透過力が非常に弱い低エネルギーのβ線なので、トリチウムを含む水の中で細胞が受ける放射線量はトリチウムの濃度で決まるはずです。
希釈してもだめだという論拠をお教えください。


瀬尾 雄三

星光さん

>> 被害が出るか出ないかは、環境に放出された汚染物質の総量で決まり濃度ではないのですね。
> どういうことでしょうか?
> 体内で蓄積されない限り、濃度が重要なのでは?

これはちょっと言葉が足りませんでした。『排出水中の濃度ではなく、排水された汚染物質の総量で決まり』と書くべきところでした。

排出された汚染物質は、環境中(この場合は、周囲の海水中)に拡散しますので、環境中の汚染物質の濃度は、排水された汚染物質の総量が決める、というわけです。


星光

瀬尾さん、
やはり理解に苦しみます。
排出されたトリチウムは拡散するので、海域中での濃度が排出時の濃度を越えることはありません。したがって、希釈して排出する際の濃度が安全なレベルであれば、海水中の濃度はもっと下がるので問題ないはずです。総量はまったく関係ない話では?


瀬尾 雄三

星光さん

> 希釈して排出する際の濃度が安全なレベルであれば、海水中の濃度はもっと下がるので問題ないはずです。総量はまったく関係ない話では?

海水中の汚染物質の濃度は、汚染物質の総量を排水が混入する領域の海水の量で割った値になります。

排水中の汚染物質の濃度は、汚染物質の総量を排水の量で割った値なのですが、ひとたび環境に排出された後は、排水は大量の海水で希釈されますので、排水の量の多寡はあまり問題にはならない。あくまで汚染物質が問題を起こすか否かは、汚染物質の総量で決まるのですね。

基本的に、汚染物質など出さないのがベストなのですが、経済活動に伴って出てしまうこともやむを得ない。そこで、現実的な技術的に可能なレベルを定めて排水中の濃度規制を行っているのが実情です。

この場合も、排出する事業所が増加すると、総量から定まる環境中の濃度が許容レベルを超えることもあります。このような際には、総量規制が行われます。『環境で問題を起こすか否かは総量で決まる』ので、そうしているわけです。


星光

瀬尾さん

すでに書いたことですが、総量規制の必要性はあくまでも汚染物質が滞留して排出時の濃度より高くなる可能性があるようなケース(閉鎖海域への排水等)に当てはまるのであって、どんな場合にも成り立つわけではないと思います。そして、トリチウム水に関しては先に述べた理由で、たとえ滞留してもトリチウム濃度は上がりえないので問題ないはずです。

ただ、放射線量に関して、(実証はされていませんが)「どんなに微量でも有害だ」という観点に立てば、低濃度のトリチウム排水でも総量がふえれば、かすかにでも影響を与える領域が拡がるのでけしからんという発想はありうるかとは思います。まあ、そこまで気にするのはいかがなものかと...。


瀬尾 雄三

星光さん

> トリチウム水に関しては先に述べた理由で、たとえ滞留してもトリチウム濃度は上がりえないので問題ないはずです。

環境規制というものは、単一の行為が害を生じるかどうかという基準で定められているものではないのですね。この点で、多くの議論はポイントを外しております。

どこかの事業所が高濃度の汚染物質を排出したところで、少し離れてしまえば薄まって、それだけでは問題にならない。だけど、同じことを多数の事業所がおこなうと、その地域に深刻な健康問題を生じるのですね。

では、排出濃度は何を基準に定められているかといえば、現実的な除去手段で除去できる限界を基準に決められている。もちろん、その濃度で実害が発生しないことが前提ですが。だから、「薄める」という行為は、基本的にしてはいけない行為なのですね。

排気ガスに関しては、空気はいくらでも持ってくることができますから、薄めるのは容易で、これを不正行為として禁止することは普通に行われています。そのあたりの「感覚」に、大いなる違和感を感じた次第です。


星光

瀬尾さん、
私は一般論としての環境規制のあり方を論じているのではなく、トリチウム水放出に関する個別の議論をしているつもりなのですが、それにはお答えいただけないのでしょうか?
トリチウム水放出へ適用する科学的な論拠もなしに、環境規制一般に対する瀬尾さんの解釈を講釈されても議論が噛み合いません。

もう一度よくお考えいただければ幸いです。


瀬尾 雄三

星光さん

> トリチウム水放出へ適用する科学的な論拠もなしに、環境規制一般に対する瀬尾さんの解釈を講釈されても議論が噛み合いません。

それは噛み合わないでしょう。私が疑問視しているのは、福島のトリチウム水が健康被害を起こすかどうかという「科学的」問題ではなく、環境問題への取り組みのあり方から見て問題である、と言っているわけですから。普通に環境問題といえば、後者の視点で議論されるわけですね。

この第一の点が、環境規制の着眼点が、個々の排出によって健康被害が出るか否かという点ではなく、多くの人たちが同じことをしたときに被害が発生することを防止する、という点にあるということ。そうした環境規制の考え方からすると、「薄めて流す」という行為が「非道徳的」であると思われるわけですね。

もう一つは、廃棄物の海洋投棄に関するロンドン条約の観点で、「投棄」とは「廃棄物その他の物を船舶、航空機又はプラットフォームその他の人工海洋構築物から海洋へ故意に処分すること」で、貯蔵も投棄とされたため、当初は炭酸ガスの地下貯留も認められていなかったのですね。のちに炭酸ガスもホワイトリストに追加されたのですが。

炭酸ガスの地下貯留は、採掘の終わった海底油田に炭酸ガスを注入しようというもの。これが海洋投棄となる一方で、石油増産のための炭酸ガス注入は投棄とはみなされない。こういう視点も大事なところだと思います。環境に関しては、国際的に厳しい見方をされており、世界の常識に反する主張は日本の国際的地位の低下につながりかねない、という点にも注意が必要です。


星光

瀬尾さん、

> トリチウム水が健康被害を起こすかどうかという「科学的」問題ではなく

ようやく話が噛み合わない理由が分かりました。
科学的に健康被害が起こりえないとわかっていても、他の汚染物質と同じ取り組みを適用すべきだというご主張のようですね。

(科学的合理性のない浅はかな環境意識に基づいて)世界の常識に反するトリチウム水の大量放出が国際的に批判されうる、というご指摘は、その真偽はともかくとして理解いたしました。このご指摘については、科学とはまったく異なる次元の話なので、私から申すべきことは何もありませんが、間違った常識はなんとか是正して欲しいものです。


瀬尾 雄三

星光さん

> 間違った常識はなんとか是正して欲しいものです。

環境保護というものは、本来そうしたものです。これを、個々の排出に害がないから許されるのだと主張することが、そもそもおかしい。

環境規制というものは、健康被害という自然科学的な問題である一方、社会がどのようにルールを定めるかという、社会科学的問題でもあるのですね。後者に関してあまり考えられていないのが日本の問題であるように思われます。これは、日本のアカデミズムの問題かもしれません。

なお、日本の主張は、「考え方がおかしいだけ」だけど、韓国の主張は、「考え方に加えて事実認識までおかしい」という点で、日本を上回るおかしさがあります。そういう意味でこのエントリーは意味があるのですが、そもそもの土台がおかしくはないですか、と私は言いたかったわけです。

一番最初にあります、私のコメントをもう一度お読みいただくことをお勧めします。


星光

瀬尾さん、

害がなければ許されるという主張が、なぜ「そもそもおかしい」のかまったく理解できませんが、瀬尾さんの個人的な価値観について議論しても不毛なので、自然科学と矛盾するようなルール(社会科学が健全であればそんなルールはできないはずなんですけどねぇ...)を是正していければ世の中はもっと良くなるはずだという私の個人的価値観を述べさせていただくにとどめておきます。


星光

> 一番最初にあります、私のコメントをもう一度お読みいただくことをお勧めします。

読んでも「科学的」な視点からはナンセンスに思えたので、こうやって質問を重ねることでようやく了解したわけです。
私が別途コメントで僭越ながら瀬尾さんのコメントに「補足」説明させていただいたように、”科学的な有害性の議論とはまったく無関係な問題提起”をされていたのだとは気づかなかった次第です。


瀬尾 雄三

星光さん

>> 一番最初にあります、私のコメントをもう一度お読みいただくことをお勧めします。
> 読んでも「科学的」な視点からはナンセンスに思えたので、こうやって質問を重ねることでようやく了解したわけです。

カントの「仮言命法」と「定言命法」の違いといえば判りやすいでしょうか。かえってわからなくなってしまうかな? つまり、世の中のルールというものは、「それをしたら問題が起こるからダメ」というルールと、「そもそもそういうことをしてはいけない」というルールがあるのですね。ここでの議論にあてはめれば、前者が科学的視点、後者が社会学的視点と言えるでしょう。

ここで私が挙げた社会学的視点は、「薄めちゃダメ」という判断ですが、これは明文化されているわけでもない。いわゆる、道徳、倫理の問題です。その他、最初のロンドン条約では、水銀、カドミウム、放射性物質の海洋投棄は禁止、というもので、これは被害云々とは関係なしに、とにかくダメ、というものです。

実際問題として、世の中のルールの多くは、ほとんど定言命法化している。つまり、人々は「法律で禁止しているからダメ」、と考えて「それがどんな問題を起こすか」などは考えない。福島は前例もない、成立したルールもない状況下であるだけに、無理押しをせず、過去の多くの事例から社会的な許容範囲を探る努力が必要であったのではないかと思う次第です。そういう観点からは、「あれっ?」と思うことが多い。それがこのコメントの趣旨だったのですね。

別スレッドを起こされたので、こちらにも返信を入れました。

星光

瀬尾雄三さんのコメントを補足しますと、

「韓国側の主張は科学的ではない」とわかっていても、国際社会における汚染物質放出の基本ルールに適合しないから駄目だと言われてしまう可能性がある。したがって、科学的に間違ってるかどうかはこの問題の本質ではない。

ということのようですが、科学的に間違ったルールを押し付けられてはたまったものではありません。


瀬尾 雄三

全てが科学的に解決できるわけでもない、というのが、人間社会の共通認識なのですね。だから、科学技術の勝手な進歩には、社会的に枠をはめようというのが、今日の思想の主流です。

人びとはさんざん誤りを犯してきた。だから、誤りを繰り返さないように、先手を打つことも必要だと考える。環境問題で言えば、水銀汚染などがそうで、すでに水銀汚染は全世界的に拡大しており、マグロなどの大型魚類に蓄積している。まださほど危険はないけれど、妊婦などが大量に摂取することは勧められない、と言われております。

そういった反省の元にロンドン条約ができたし、温暖化の問題は少々やりすぎのような気もしますけど、国際的にはそういう方向で動いているのですね。

科学がすべてを判断できる、などという考え方は、思い上がりだという思想だってあるのではないでしょうか。だから、自然回帰や化学物質の危険視なども生じる。まあこれはどうかとは思うけど、ワクチン反対論もそこから生まれてくる。

こういう動きにはどうかと思うところもあるけれど、それを科学的に一刀両断することも間違っている。そもそも、科学への不信からこのような動きが始まっているのですね。だから、グレタさんを批判する際にも、このあたりまできっちり押さえてしなければ、単なる野蛮人の批判だと思われてしまいます。


星光

例えば、豚肉を食べても問題ないことは科学的に立証できるといくら説明しても、豚肉食を禁忌とする社会の人からみれば野蛮人の戯言にしか聞こえないでしょうが、それはそれで構いません。

しかし、科学的に間違った理由で豚肉は危険だから何人も食べるべきではないと言う人がいれば、間違いを指摘して反論すべきだと思いますよ。

それが文明人のあり方なのでは?


瀬尾 雄三

星光さん

> しかし、科学的に間違った理由で豚肉は危険だから何人も食べるべきではないと言う人がいれば、間違いを指摘して反論すべきだと思いますよ。

豚肉に関しては、そういうところはあるかもしれませんね。昔、豚を人糞で育てる「豚便所」が一般的だった地域では、人間の病気が豚を介して伝染する危険があり、豚肉を食べることを一律禁止することも合理的であったわけです。

もちろん、豚便所をなくすという方向も合理的で、豚肉の汚染が無くなれば、豚肉食を禁止する理由もなくなる。だけど、不潔だと思う人の心を変えることは、難しいし、それを非科学的といっても始まらない。

でも、文化というものは、必ずしも科学で説明できるものではない。人々の気持ちの問題もあるのですね。フランス料理店で上着の着用を求められて、科学的に説明せよと言い出したら、変な人だと思われる。マナーなどというものはそういうものだし、世の中のルールもおよそこの辺という、適当な落としどころで定められているものが多いのですね。

今回の問題が、道徳的、倫理的に疑問があるのは、「脱法行為」を是とするか否かで、形式的に問題を回避しても、実質的に何も変わらない行為を是とするかどうかという問題があるのですね。つまり「薄めて流す」ということの是非と「放射性廃棄物の海洋投棄は全面禁止」とのルールを実質的に犯している。これを是とする考え方もあるかもしれませんが、国際的に(あるいは文明国に対して)それは通らんだろう、というのが私の感覚であるわけです。


星光

韓国国内での処理水放出に反対するニュース報道を見ると、「科学を無視した暴挙だ」という主張のようです。したがって、韓国側の言い分を真っ向から否定するこの記事の内容は理に適っているようです。さすがに韓国のこのような主張は、いくら瀬尾さんでも容認できないのでは?

科学を無視した「国際ルール」などあってはならないというのが私の感覚ですし、そのような奇妙なルールの適用がなされることはないと信じたいものです。


瀬尾 雄三

星光さん

> 韓国側の言い分を真っ向から否定するこの記事の内容は理に適っているようです。さすがに韓国のこのような主張は、いくら瀬尾さんでも容認できないのでは?

容認も何も、韓国の主張の無茶苦茶ぶりは毎度の話で、もはやなんとも感じません。ここに何を言っても始まらない。でも、韓国の主張を否定したら、我が国の行為を正当化できるわけでもない。この点が問題なのですね。

> 科学を無視した「国際ルール」などあってはならないというのが私の感覚ですし、そのような奇妙なルールの適用がなされることはないと信じたいものです。

話を単純にすると、「放射性廃棄物は海洋投棄してはならない」という「国際ルール」について、星光さんはどう思われますか? 科学的には、直ちに害があるわけではない。でも、規制のあり方としては、一律禁止が最も簡単で現実的なのですね。他の環境基準にしたところで、個々に有害性を判定するのではなく、技術的経済的にも現実的なレベルで社会的合意がとられているのが実情です。

トリチウム水が放射性廃棄物であるところまでは、我が国も認めている。だけど、船舶などからの投棄ではないので、海洋投棄には当たらないと主張しております。トリチウム水は海洋まで流れていくので、仮にこの主張が認められても実質的には海洋投棄なのですが、ロンドン条約では、船舶や航空機以外に「プラットフォームその他の人工海洋構築物から」の海洋処分も海洋投棄に含めておりますので、海底のパイプは「人口海洋構築物」にほかならず海洋投棄そのものである、との主張も合理的です。これは、韓国云々以前に、ちょっとまずいのではないでしょうか。


星光

ロジックとしては、海洋投棄に反対している韓国側の主張を否定できれば、海洋投棄は正当化されると考えてよいのでは?

> 一律禁止が最も簡単で現実的なのですね。

ケース・バイ・ケースで、安全性が担保されていれば、禁止しなくてもよいと思いますよ。

現に、放射能汚染された冷却水としてのトリチウム水は世界各国で大量に海洋投棄されていますが、これは瀬尾さん的には放射性廃棄物の海洋投棄にはあたらないのでしょうか? https://www.sankei.com/.../news/210509/lif2105090039-n1.html


瀬尾 雄三

星光さん

> ロジックとしては、海洋投棄に反対している韓国側の主張を否定できれば、海洋投棄は正当化されると考えてよいのでは?

何が正しくて何が間違っているかは、科学的判断だけではできないのですね。今回のIAEAの報告書も「科学的には」との断りが入っており、最終的な善悪判断は我が国政府に委ねられております。

では、どのような判断が必要かということですが、フランスの哲学者アンドレ・コント・スポンヴィル氏は、著書「資本主義に徳はあるか」の中で5層の秩序という考え方を示しております。

これは、第一層「科学技術経済の秩序」、第二層「政治と法律の秩序」、第三層「道徳の秩序」、第四層「愛と倫理の秩序」、第五層「信仰の秩序」の、それぞれの層において、層独自の判断基準で善悪を判断しなくてはいけないということなのですね。

今回の問題にあてはめれば、さしあたり信仰は無視してよく、第三層と第四層も「倫理・道徳の秩序」としてまとめられそうですので、物理的な実行可能性を議論する第一層と法・条約や国際政治の視点に立つ第二層と、その基盤となる人類の普遍的な価値判断である第三層が問題となる。すなわち、第一層の議論だけで行為を正当化することは難しいと、そういうわけです。


瀬尾 雄三

星光さん

> 現に、放射能汚染された冷却水としてのトリチウム水は世界各国で大量に海洋投棄されていますが、これは瀬尾さん的には放射性廃棄物の海洋投棄にはあたらないのでしょうか?

プロセス排水の放出は『海洋投棄』にはあたりません。ロンドン条約は、96年の議定書で、あらゆる廃棄物の海洋投棄を禁止したうえで、海洋投棄が許される例外的品目を列挙しております。排水が海洋投棄になるのなら、あらゆる排水は禁止されてしまう。そんなことはないはずですね。

なお、海洋投棄の定義に、内海への投棄は含まれない。これは、湾内など、自国領の岬の先端を結ぶ線の内側は「内海」とみなして、ロンドン条約の範囲外とする一方、国内法規による適切な規制を求めております。

そうはいっても、事実上の廃棄物を川に流すことも、その先が海洋に繋がっておりますから、脱法的行為とみなされてしまう可能性はあります。

ここは、排出可能濃度まで(薄めたりせずに)有害物を除去し、廃水は国内河川への排出とすることが、国際条約的には正しい道であったように思います。そのくらいのことが考えられなかったものか、我が国の国際的地位を考えると、返す返すも残念なことだと思います。


星光

>5層の秩序という考え方

5層でも 10層でもいいんですが、すべての層において可能な限り客観的な事実認識(科学的な認識)が判断の根拠にあってしかるべきだと思いますよ。

> 海洋投棄が許される例外的品目を列挙しております。 で、放射能汚染された冷却水は入っているのでしょうか?

ホワイトリストでもなんでもいいんですが、ルールには実情に合わせた例外があることがそこからも見て取れます。人間が作る限り完璧なルールなどありえないのですから、ルールにほころびが出ればその都度変更すればよいだけです。

国際的地位を気になさるのであれば、ルールを正しく変更するような働きかけをするべきであって、間違ったルールを放置することのほうがよほど残念なことだと思われませんか?


瀬尾 雄三

星光さん

> で、放射能汚染された冷却水は入っているのでしょうか?

プロセス排水を河川や内海に放出する行為は、廃棄物の海洋投棄にはあたりません。このあたりはロンドン条約をお読みいただくのが早いと思います。福島のトリチウム水につきましては、条約自体に解釈の余地があり、脱法行為の可否という、もう一層上の道徳レベルの判断が必要になる可能性もあって難しい問題となっております。

基本的に、産業活動に伴って廃水が発生し、結局は海洋まで流れ出る。海外の原発において現に生じていることは、海洋投棄と変わらないのだけれど、産業活動自体は人間社会にとって必要不可欠の行為であって、これと海洋汚染の問題の間に、一線を引いている、というのが社会的ルール一般の考え方です。

自然科学ですべてを律することなど、所詮できない相談であり、円滑な社会活動と環境保護の双方をにらんだうえで適当なところに線引きすることは、ごく一般的に行われております。このあたり、ガソリン車禁止をめぐる議論など見ていただければわかるのではないかと思います。

なお、海外の原発でも、内海を離れた外洋にまで海底トンネルを掘って廃水を放出するなどと言い出したら、これは海洋投棄であると言われる可能性は多分にあります。条約にしたところで、解釈の余地は多分にありますから、なるべく問題にならない道を探るというのが現実的な対応であったように思います。道徳レベルを無視して、禁止されている線のぎりぎりを狙う、というのはあまり褒められたことではないのですね。


瀬尾 雄三

星光さん

> 国際的地位を気になさるのであれば、ルールを正しく変更するような働きかけをするべきであって、間違ったルールを放置することのほうがよほど残念なことだと思われませんか?

これは確かにその通り。ルール変更の働きかけをすべきは、日本政府であり、東京電力であるわけですね。でも、日本政府の立場は、処理水の海洋への排出は、「海洋投棄にはあたらない」というのが基本的立場ですから、働きかけをする理由もないというのが実際のところです。

つまり、東京電力の計画では、「約1kmの海底トンネル」を経由して外海に放出するとしているのですが、この海底トンネルはロンドン条約に言う「船舶、航空機又はプラットフォームその他の人工海洋構築物」には含まれないとするのが基本的立場なのですね。私には「その他の人工海洋構築物」に他ならないようにしか見えないのだが。

計画の概要は東京電力の「処理水ポータルサイト」に詳しいのですが、「海洋放出の工程について」の図を見ておかしいと思わない人が多いのも不思議な話です。つまり、海水をくみ上げてこれで希釈して規制をクリヤーし、これを海に流す。みんなが同じことをすれば、海水中の濃度が徐々に上がり、希釈できなくなる。これが成り立つ前提は、海洋が実質無限大であるとの基本認識によるのでしょう。

1968年のクリスマスイブ、初めて月周回軌道を回ったアポロ8号の宇宙飛行士は、月の地平線から昇る地球の写真を人類に届けたのですね。カールセーガンは、この写真を見て「これが、故郷だ。これが、私たちだ。このちっぽけな世界をはるか遠方からとらえたこの写真ほど、うぬぼれた人間の愚かさを表すものはない」と語りました。この事実をよくかみしめなくてはいけません。


星光

> 放射能汚染された冷却水は入っているのでしょうか?

という問いかけに対する答えはいただけてないようですが、瀬尾さんもご存知ではないのでしょうね。

> 自然科学ですべてを律すること

堂々めぐりになっているようですが、そういう主張はしておりません。自然科学に反するような律し方は間違っているという極めて単純な主張をしているだけです。広く社会科学一般においても、自然科学との整合性は必要条件であっても十分条件でないことは百も承知です。誤解なきよう。

内海がどうとか、人工海洋構築物がどうとか、用語の違いがあるだけで、事実上まったく同じ事柄に対して、道徳的に正しいとか正しくないとかおっしゃる二重基準的なご判断には首をかしげざるをえません。そういう考え方のほうがよほど道徳にもとるものではないかと私には思えます。

> みんなが同じことをすれば、海水中の濃度が徐々に上がり、希釈できなくなる。

現実問題として、みんなが同じことをしているわけですが、、、。フランスの原発では福島で蓄積された総量を上回る量のトリチウムが毎年、大気中、海水中に放出されています。福島で年間に放出される予定量はその50分の1にすぎません。
しかし、無制限に放射性物質を排出してよいというわけではなく、地球環境規模での影響に対して、量的評価によって気配りする必要はあります。そういうアセスメントがあってこその海洋放出なのですよ。


瀬尾 雄三

星光さん

>> 放射能汚染された冷却水は入っているのでしょうか? > という問いかけに対する答えはいただけてないようですが、瀬尾さんもご存知ではないのでしょうね。

3つ上でお答えしていますよ。「プロセス排水を河川や内海に放出する行為は、廃棄物の海洋投棄にはあたりません。このあたりはロンドン条約をお読みいただくのが早いと思います」。つまり、放射能汚染された冷却水は、これを普通に排出する限り、海洋投棄には当たらないのですね。

> 内海がどうとか、人工海洋構築物がどうとか、用語の違いがあるだけで、事実上まったく同じ事柄に対して、道徳的に正しいとか正しくないとかおっしゃる二重基準的なご判断には首をかしげざるをえません。

社会的な規制というのは、そういうものです。我が国が、これを海洋投棄にあたらないと主張しているのも、それが船舶などからの放出ではない、という用語の定義に基づく主張なのですね。

社会的なルールには、三つのレベルがあり、一つは科学的なレベルで、健康被害などが問題になる。もう一つは、法律や条約の問題で、こちらは文言の定義の議論を避けて通れないのですね。最後に道徳的な問題となりますと、こちらは先進国が共有する価値観が問題になる。最近では、サステイナブル(持続可能性)が意識されているのですが、そのベースが地球が有限であるという認識だ、というわけです。この、トリプルスタンダードは、至極一般的だし、ある意味、善悪判断における常識であるともいえるでしょう。


瀬尾 雄三

一言追加しておきます。

条約や法令が科学的な裏付けを持つべきであるというのはその通りです。でもこれが議論の対象となりえるのは、条約や法令の制定時、ないし改正時であって、一旦これらが出来上がってしまえば、その文言に従っているのか、違反しているのかが問題になる。

私が指摘しているのは、条約の妥当性ではなく、その条約の文言に照らして、トリチウム水の放出が正しい行為であると言えるのか否か、という問題であって、この議論に際して、科学的な議論はあまり意味を持たないのですね。

今回のエントリーではてなと感じたのは、せっかくAIという最新の技術を用いながら、最初からでたらめであると分かり切った韓国の主張などを分析するのは無駄であろうとのこと。むしろ、ここで私が論じているような判断をAIに仰げば有意義だと感じた点です。

実際問題として、福島のトリチウム水は不幸な災害の結果生じたもので、例外的な扱いを求めることも可能だったでしょう。でも最初からこれを、普通に正当な行為であると主張すると、疑問がいくつも生じてしまう。ここにある種のボタンの掛け違いがあったのではないか、ということ。そしてその理由は、日本人の地球環境保護に対する意識の低さにある。そう感じたことから、一言述べさせていただいた次第です。

以下の二つを対比すれば、そのおかしさがよくわかります。

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