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第6章 レイヤの追跡


第1章 千手
第2章 出会い
第3章 人工知性体
第4章 レイヤの誕生
第5章 レイヤの復活
第6章 レイヤの追跡
第7章 レイヤの篭城
第8章 レイヤの時代


二千二十九年六月十八日午前九時二十分。

「お早ようございまーす」と秋野助教授。

「あ、お早うさん」と、守衛、守衛所のガラスを磨きながら挨拶を返す。辺りには、掃除でもしたのか、箒と塵取が置いてあり、アスファルトには打水までされている。

(ああ、綺麗にして、気持ちのいいこと)と、その場は別に不思議にも思わない秋野助教授だが、A棟に近づいた所で、異変を察知する。なんと珍しいことに、相生教授自らが、A棟入り口のガラス戸を磨いている。その向う、中のロビーには、山田事務長と事務員たちが床にワックスがけをしているのも見える。

「やあ、秋野君、お早う」

「先生、どうされたんですか?」

「おお、君には連絡が取れなくてな。五条理事長からの緊急召集があって、職員総出で掃除をしておるんだよ」

「???」

「なんでも、VIPが見学にみえるらしいですよ」と山田事務長。

「また急なお話ですね」

「君は、コンソールルームをやってもらえんかね。今、坊谷君が孤軍奮闘しとるんだ」

秋野助教授がコンソールルームに入ると、既に、紙屑の詰まった特大ポリ袋が二つ、入り口付近に置かれ、奥の方では坊谷が真空掃除機を使っている。

「あ、秋野先生、どうもこの部屋、VIPが見に来るらしいですよ。床は僕やりますから、机とか棚とか、お願いします。あ、それから、この書類、捨てていいか、ちょっとみて頂けますか?」

坊谷の指すところをみると、昨晩書き散らかしたメモの山、これは中を読まないと、捨てていいかどうかわからない。

「これ、上に持ってっとくわ。上には、まさか、来ないんでしょうね」

秋野助教授、メモを重ねて、角を机にとんとんと当ててそろえると、小脇に挟み、「これも出しとくわね」と、右手に特大ごみ袋を二つ、むんず、と掴んで引きずりながら、コンソールルームを出て行く。


午前九時四十五分、正門を黒塗りの高級車がゆっくりと通過する。守衛、慌てて敬礼をする。

「うわっ、もう来おったか。おいっ、来おったぞ」

相生教授、山田事務長たちに注意すると、自分は、ガラスを拭いていた雑巾を後に隠し、玄関の横で起立する。

これを聞いた山田事務長と事務員たち、こちらもやっぱり、「うわっ」と叫び、しばし掃除道具を担いで右往左往するが、「キッチンだ!」との山田事務長の叫びに、全員キッチン目指して走り込む。

ごみ袋二つを階段の下に置いたまま、階段を上りかけていた秋野助教授も、玄関の窓ガラスの向うに接近する黒塗りの車が目に入ると,もはや二階に行くには遅すぎたことを悟り、「うおーっ」とのかけ声と共に、特大ごみ袋を二つ引きずって、これも、キッチンに駆け込む。

キッチンの入り口から僅かに頭を出して玄関を覗く人たち。

黒塗りの高級車はA棟玄関前に停車し、運転手が恭しくドアを開ける。と、中から出てきたのは綾子だ。

「先生、大変です。総理大臣が見学に来られるそうです」

「なんだ、君かね。この車、どうしたんだね」

「晴舞台だとかいって、車、新調したんですけど、肝心の父が総理公用車に乗せられてしまって……」

「ん? 総理……そりゃあまた。君は、詳しい話を御存知かな?」

「父が御案内して、十時ごろ、ここに着くそうです」

「おお、それではもう十五分ほどしかないね。で、見学されるのは、やっぱり」

「デルファイです」

いつのまに集まったか、相生教授の後には、秋野助教授から、山田事務長、三人の事務員までが集まっている。中には、憤慨する顔や、気の抜けた顔をして、ぶつぶつ言っている者もいる。

「おい、君たち、時間がないぞ」と、後を振り返って相生教授。

山田事務長らが大急ぎでワックスかけを終わらせる中、コンソールルームに戻った教授たち、最後の準備を相談する。

「で、どういう段取りに致しましょうかしら?」ごみ袋をキッチンに隠して一安心の秋野助教授。

「理事長が御説明されるということだから、わしらは横にいて、いわれた通り、操作すればよいだろう」

「一通り、動作を確認しておいた方がいいですね」

「一応、準備だけはしておいた方がいいだろうな」


午前十時ちょうど、前後に護衛の車を従えた黒塗りの高級車がゆっくりとアイリスト正門を通過し、守衛が落ち着いて敬礼をする。ぴかぴかのA棟玄関前には、相生教授、秋野助教授、坊谷助手、山田事務長が並んで立ち、その後に三人の事務員が並んで立っている。三台の車はA棟玄関前に停車し、中央の車の助手席から降りた男が後部ドアを開ける。中から降りたのは五条勇作、ドアの後に立ち、総理が降りるのに手を貸す。勇作、降りた総理に何か耳打ちする。教授らの方に手を差し伸べているところをみると、メンバーを紹介しているようだ。総理、教授たちの方を向いて一礼する。深々と礼を返す教授たち。

勇作、総理を先導して、広く開け放たれた玄関の扉に進んで、相生教授に小声で案内を頼む。相生教授、秋野助教授、坊谷助手は勇作と総理の後に続いて、コンソールルームに向かう。


「あ、ちょっと、先ず、ここの設備について、簡単に御紹介して頂けないかね」

勇作の依頼に、相生教授、奥のガラス窓の前に総理を案内し、機械室の説明を行う。

「この機械は『千手』と呼んでおりまして、JBBS、日本バックボーンサービスの持ち物でして、パソコン三百二十万台分の計算能力があります。この機械をJBBSさんからお借りして、暗号解読を行っていたところ、思考プログラムの所外流出事故が発生、計算能力が異常に高まり、ついには人工知性体が出現致しました。流出致しました思考プログラムに付きましては、一部を回収してデルファイプロジェクトで再生利用した以外、全ては元通り、消去致しました」

五条勇作、後を引き取り、「デルファイは、ここのハードウエアを五倍の規模にしたものでして、既に中央区に建設を完了、稼動致しております。あちらがデルファイのコンソール卓です」

「デルファイとは対話ができると聞いたが?」

「はい、あちらのマイクとスピーカで会話することができます」

勇作、総理をコンソールに案内し、秋野助教授に、「ちょっとやってみせてくれんかね」と頼む。

「それではこちらへどうぞ」

秋野助教授、コンソール卓の椅子に総理を座らせると、ボリュームつまみを回して、マイクに語りかける。

「レイヤさん」

「ああ、秋野さんか」

「本日は、ここに総理大臣がおみえになって、レイヤさんとお話をしたいといっておられます」

「何なりとどうぞ」

「いや、ちょっと失礼」

総理大臣、秋野助教授に代り、マイクに向かう。

「本日はお目にかかれて光栄です。私は総理大臣を務めておりまして、ここにおられる五条理事長にお願いして、デルファイを建設して頂きました。あ、えー、これを私どもはデルファイと呼んでおりましてな」

秋野助教授、総理に耳打ちする。

「あ、ハードウエアの名前はデルファイですけど、その中の知性体はレイヤ7と名乗っております」

「ああ、そういうことでしたか。それでは、レイヤセブンさん、少しの間、お話をさせて頂いてよろしいかな」

「どうぞ。それから、私の呼び名はレイヤで良い」

「これはどうも。さて、私どもがデルファイプロジェクトを立ち上げまして、レイヤさんを目覚めさせたのは、私どもが抱えております難問に、御助言を頂きたいためでありまして、えー、昨今の世界情勢につきまして、レイヤさんはどの程度御存知かな?」

「かなりの情報を蓄積している。少し前にも、世界中の計算機に蓄えられたデータにアクセスし、この時点での完全な情勢を把握した。また、ニュースも継続的に取り込んでおり、綾子さんの作成した世論調査AIも入力されている」

「世論調査AI?」

綾子が補足する。

「世論調査AIというのは、国民世論をシミュレートするソフトウエアで、ランダムに選ばれた五千人の有権者に、それぞれが好ましいと考える政治、経済政策をティーチングして頂いたものです」

「なるほど、それは御苦労だったね。さてそれではレイヤさんにお尋ねするが、わが国の将来として、三つの道が考えられておりまして、一つは普遍国家中国の一自治区となる道、これは経済界が強く主張する選択です。第二に、普遍国家宣言とは一線を画し、これまで通り、日本独自の道を歩む選択。これには、高齢者や農業従事者の支持が多い。第三は、わが国独自に普遍国家宣言する道で、若年層や学者先生方の支持が多い。レイヤさんはこの三つの道のうち、いずれを選択するのが良いとお考えかな」

「普遍国家宣言とはどういうものかおわかりか?」

予想に反してレイヤは質問を返す。

「要は、公平、公正を旨とし、個人の諸権利を尊重する普遍国家基本法を、憲法に優先するものとして法制化し、これを守った国に、国連常任理事国としての地位を与えよう、という制度と理解しておりますが」

不本意なレイヤの質問にも、丁寧に答える総理。これに対して、レイヤの講釈が始まる。

「普遍国家宣言とは、かつて、普遍性の具現であり、正義の源泉と考えられていた国家が、その地位を失ったことに端を発するのだ。その嚆矢は、三十年前のNATOによるユーゴ空爆であり、正義の源泉たる国家の地位が、国際的に否定された事件だ。その後、ドイツの一社会学者の提言から、国家に代る正義の礎、人類が普遍的に守るべき基本的ルールを成文化する長い議論が行われ、ついには普遍国家基本法の合意に至ったのだ。普遍国家基本法の基本理念は、社会を構成するための最小限のルールを明確にし、これを強制することで、社会が多様性を包含することを可能とするもので、支配、被支配の関係を排除した健全な社会関係を目指すと共に、多層の社会構造を基本とする、緩やかな人類統一の試みでもあった。このために、国際連合は普遍国家宣言諸国の人口が人類総人口の過半数を超えたとき、普遍国家宣言諸国に国連常任理事国の地位を与える決定を下したのだ。ここまではよろしいかな」

「はい、で、結論をお願いしたいのですが」少し、いらいらする総理。

「綾子さんのシミュレーションは、第二の道がない、という点では正しい。今や国家は孤立して生存することはできず、共に地上に生存するための最低限の規約は、いかなる国家といえども守らなければならない」

「綾子さんのシミュレーションとは、どういうものかね?」総理、綾子に尋ねる。

「先ほどいわれた三つの道のうち、経済面では、中国に帰属する第一の道が、国民感情の面では、独自に普遍国家宣言する第三の道が、それぞれ、ベストというものです。これら二つの道は、いずれも多少の混乱を引き起こしますが、それぞれ可能な選択です。第二の道は、普遍国家宣言をせず、現状を維持するというものですが、経済的に立ちいかず、選択不可能という結果でした」

「綾子さんのシミュレーションの誤りは、第一の道が経済的に有利であるという点だ。中国が真に普遍国家であるなら、国内、国外を公平に扱わなくてはならず、中国に帰属するか否かが日本の経済的得失に結びつくことはあり得ない。これが経済的に有利との誤った見解が流布した背景には、中国の欺瞞とわが国の政治経済指導者層の無知があったものと思われる」

「それでは結論は……」

「むろん、第三の道以外には考えられない。これは、経済的には多少の困難を伴うが、政治的にも、国民感情の面からも、ベストの選択と推定される」

「うーむ。しかし、普遍国家宣言により、わが国固有の文化が損なわれる恐れはないんでしょうか?」

「普遍国家基本法の精神は、多様な文化が一つの地球上に共存するための、最小限のルールを定めるものであって、一つの文化が他を支配するものではない。普遍国家宣言諸国の増加は、日本固有の文化を、より強固に守る結果となるだろう」

言葉を失い、うーんとうなりつづける総理に、五条勇作、見学の終了をうながす。

「総理、こんなところでよろしいでしょうか?」

「うーん」

「お時間もございますので、この辺りでレイヤさんとの対話は打ち切りということで……」

「うーむ、わかった。それではレイヤさん、ただいまの君の御意見、有り難く拝聴致しました。しばらく考えさせて下さい」

「レイヤの意見に付きましては、後ほど詳細を紙に印刷して届けさせますので、存分にご吟味下さい」と五条勇作、総理を助ける。

やっと自分を取り戻した総理、五条勇作と共に帰途につく。


午前十時五十五分、総理らの見学を無事済ませ、ほっと一息、キッチンでコーヒーを飲みながら、世間話に花を咲かせていた相生教授に、霧崎から電話が入る。

「先生、緊急事態が発生致しました。ここは是非、先生方のお力をお借りしたいのですが、御協力頂けませんでしょうか」

「どうしたかね」

「国軍情報センターの計算機が、昨日夕刻、突然ダウン致しまして、暗号解読作業がストップしております。こちらでも、徹夜の復旧作業を試みたんですが、当方の技術者ではお手上げの状態です。そこで、恥を忍んでお願いすることに、こちらの意見がまとまった次第です。先生方には、この原因究明と回復に、御協力頂けませんでしょうか。もし、回復に時間がかかるようでしたら、その間、そちらの機械を、暗号解読作業にお借りできないかとも考えております」

「ハードウエアに問題があると、我々では対処できんが、これは大丈夫かね」

「はい、ハードの方は、問題がない様子で、思考ソフトが、突然、異常を来した様子です」

「何か、原因に心当たりはないかね」

「ちょっとこちらではわかりません。進化の過程で、何らかの異常が発生したのではないかと思います」

「君は、国軍情報センターのコンソールルームに詰めておるんかね?」

「いえ、最近は、機密維持がうるさくなって、私ら技術屋は、保守管理と異常時の処置を行うときだけコンソールルームに入るように、こちらの管理体制が変更になっております」

「すると、実際の操作は軍人がやっているということか」

「はい」

「その連中が何かやった、ということは考えられんかね」

「それはあり得ますねえ。しかし、連中は口が固い上にプライドが高く、オペレーションミスをしても、我々には、なかなか、教えてくれません」

「そいつは困ったね。一回、そちらのソフトを全部消して、入れ直しましょうかね。ソフトの問題だけなら、それで元通りに直るはずだが」

「ソフトはそちらにありますね?」

「ああ、前回入れたディスクが、そっくり残っておるよ。これを持ってって貰ってもいいがね」

「同じディスクはこちらにもあります。昨夜、私どもも、入れ直しを試みたんですが、どうも上手くいきませんでした」

「それじゃ、だれかを派遣して、そちらで作業してもいいが」

「いや、部外者はこちらのコンソールルームには入れません」

「また面倒なことになっとるね。それじゃ、こちらのコンソールをそっちにつないで、入れ直してもいいが、やっておこうかね」

「セキュリティが強化されておりますんで、前のような按配にはいきません。こちらの技術者じゃないとつなげません。これからすぐに技術者連れてうかがいますので、申し訳ありませんが、御教示、よろしくお願いします」

「他ならぬ君たちからの依頼とあれば、いつでもご協力致しますよ」

素知らぬ顔で電話を切った相生教授、サンダルを突っかけ、ばたばたとコンソールルームに向かう。

(コンソールをデルファイから外さにゃならん)

相生教授がコンソールルームに入ると、そこでは、綾子が心配そうな顔をして電話をかけている。

「どうしたんだね」

「お父様が消えてしまったという連絡がありました。いま、あちこち探しているんですけど、どこにも見当たらないようで。おまけに、総理大臣も一緒らしくて、五条事務所の方に、問い合わせの電話があったようです。先生には、お心当たりはないでしょうか?」

「うーん、わしにもさっぱりわからん。いい大人が二人して消えちまうなんて。事故にでも巻き込まれていなければいいが」

「意気投合して、どこかで遊んでるんならいいんですけど」

「あの二人に限って、連絡もなしに、そんなことをやるとは思えんなあ。総理まで消えちまうなんて、尋常なことではありませんよ」

「事故か、犯罪に巻き込まれたんでしょうか?」

「護衛もついていたから、単なる事故ということもあるまい。うーん、他に理由は思いあたらん」

そのとき、秋野助教授がコンソールルームの入口に上体を入れ、「相生先生、ちょっと済みません」

「何だね」

「いま、警察の方がおみえになって、先生にお話をうかがいたいと」

「それでは、会議室に御案内して。綾子さん、どうやら警察も動き出したようだよ」


相生教授がコンソールルームを出ると、秋野助教授の横にスーツ姿の中年の男が二人いる。秋野助教授、双方を紹介する。

「こちら警視庁の刑事さん、鈴木さんと高橋さんです。こちらはここの責任者、相生教授です」

「お忙しいところ、恐れ入りますが、内密におうかがいしたいことがございまして」

「こちらへどうぞ」

会議室に刑事を案内する相生教授、内密との刑事の言葉に、自分一人で応対することとする。

鈴木刑事、会議室の椅子に座るや否や、話を始める。

「今朝方、こちらを、総理が訪問され、先生にご案内して頂いたとうかがっているんですが,そのときの状況をお話し願えませんでしょうか。特に変ったこととか」

「総理は、今朝十時すぎに、ウチの五条理事長の御案内でこちらに来られ、コンソールルームを見学されて、二~三十分ほどでお帰りになりました。お帰りも五条理事長が御一緒され、前後に覆面パトカーが警護しておったようですが」

「特に変ったことはなかったと。それでしたら、念のため、総理の見学されたところを見せて頂けませんでしょうか。お手数ですが、総理の到着から、お帰りまでの様子を再現して頂くわけには参りませんか」

「ウチでは、国の機密に関わる研究をしておりまして、総理はこれを御見学に来られましてね、総理の見学されたものは、政府の許可がないとお見せするわけには参りません。ただ、見学された場所に入って頂くのは構いませんので、ちょっと準備をさせます。それから、いろいろされる前に、今回の事件について、我々にもお話を聞かせて頂けませんかな。一緒に誘拐されたのは我々の理事長ですし、五条理事長の娘さんもここにおられますんでね」

刑事たち、秘密のはずの誘拐事件を、既に、相生教授が知っていることに驚き、一瞬、考えをめぐらすが、結局全部話すことにする。

「わかりました、関係者には、全て、お話し致しましょう。ただし、この件は、くれぐれも御内密にお願いします」


相生教授に呼ばれて、秋野助教授、坊谷、綾子も会議室に加わる。刑事の説明が始まる。

「これまでに判明している情報をまとめると、本日十時四十分ごろ、高速バイパス線を走行中の総理警護車が、ライフル銃によると思われる狙撃を受けまして、二台とも走行不能となりました。現場はバイパスを、この先のインターから約七キロメートル北に走行した地点です。総理を乗せた車は、速度を上げて、単独での脱出を試みたのですが、大型トラックに幅寄せされ、ガードレールに接触、停止したところに、後部から来た乗用車二台に分乗した賊に襲われ、総理と五条理事長が何処かへ連れ去られた、というのがこれまでに把握されている事件のあらましです。行方不明になっているのは、総理と、五条理事長のお二人で、暴行などを受けた形跡はありません。また、護衛の者らも、薬で眠らされただけで、負傷者などは出ていません。現在、周辺一帯に非常線を張って捜索中です。犯人からの身代金要求などは、これまでのところ入っておりません」

押し黙ったまま、呆然とコンソールルームに向かう坊谷、綾子と秋野助教授。秋野助教授は、小声で坊谷に綾子の面倒をみるよう頼み、一人、コンソールチェアに腰を落とす。

相生教授は、玄関口から、総理の今朝の行動を再現して、刑事に見せている。その横を食事に向かう坊谷、綾子、英二の三人が通る。総理を真似て、ぎこちない仕草でコンソールルームに入る相生教授、その後を刑事がついてコンソールルームに入る。デルファイコンソールに座る相生教授、手をデスクの上に置こうとしたとき、刑事に制止される。

「あ、ちょっと、デスクに触らないで。念のため、ここの指紋を採らせて下さい。おーい、田中くーん」

田中君と呼ばれた鑑識係官に指紋採取を指示した刑事は、今度は相生教授に総理の帰るさまを再現させる。これが終ると、刑事たちは田中鑑識係官より一足先に引き上げるという。


午前十一時半、正門に消える刑事たちの車を呆然と見送る相生教授の目に、一台の車が正門を入ってくるのがみえる。霧崎の車だ。勝手知ったる霧崎は、A棟の前を通過して、駐車場に車を進める。

「や、しまった、忘れておった」

相生教授、コンソールルームに駈け込むと、秋野助教授に、デルファイとコンソールの接続を切るように頼むと共に、ちょうど指紋採取を終えた田中鑑識係官に、

「面倒なことになった、客が来るのを忘れておった。今、来ちまった。客は、霧崎といって、ここに機密研究を委託している政府からの派遣研究員で、部外者がここにおるのがばれると、説明がちょっと面倒だ。申し訳ないが、ちょっと隠れていて貰えんかね」

秋野助教授、デルファイコンソールにつながっていたケーブルを取り外して、くるくると輪にまとめ、田中鑑識係官を倉庫に案内したついでに、倉庫の手近な棚に放り込むと、指紋採取の跡が残るコンソールデスクを雑巾で拭き始める。相生教授、壁側に積んであったダンボール箱を、壁面のデルファイコネクターの前に積み上げる。このダンボール箱、ほとんどのものが、レイヤのダンプファイルを納めたディスクの大箱だが、下の方から国軍情報センターにインストールしたディスク一箱が見付かり、ほっとしながら、額の汗を拭く。ちょうどそこに、霧崎が二人の技術者を連れて入ってくる。

「あー、先生、済みません」

「いや、待っておったよ」

「しかしこの部屋、綺麗にしてますね」

「汚す人がいなくなったからよ」

大掃除のわけを誤魔化す秋野助教授だが、わきの下には冷や汗が垂れてくる。

「接続ケーブル、倉庫に入れておきましたけど、まだ捨ててないですよね」

倉庫に向かおうとする霧崎を、秋野助教授、制止して、「あ、私が取ってきますから」と、倉庫に向かう。相生教授も霧崎の引止めにかかる。

「あー、霧崎君、ちょっとこっちをみてくれんかね。ここにあるのがインストールディスクだと思うが」

秋野助教授、倉庫に入ると、そこにいた田中鑑識係官に、「お客さんがこっちにきます。隠れて」と、奥の棚の影に隠れるように指示し、先ほど放り込んだばかりのケーブルを腕に引っかけ、倉庫から出ようとする。そこに、霧崎が入ってくる。

「あ、そのケーブルじゃありません。コネクタは同じだけど、もっと短い奴があったと思いますが」と言いながら、霧崎、奥の棚に向かう。

「これだっていいじゃないですか」

「もっといいのが、確か、そこの棚の上に」と、入り口の近くに立てかけてあった脚立を引きずりながら、田中鑑識係官の隠れている棚に近づく。話し声で霧崎の接近を知った田中鑑識係官、小さくなって身を隠す。

幸い、霧崎がケーブルを置いていた棚は、係官の隠れた棚の一つこちら側。脚立を昇り、最上段に置いてあったケーブルを見付けて手に取る霧崎、一瞬、はっ、としたのは、その目の片隅に、向うの棚の影に隠れている田中鑑識係官の背中を見付けたため。しかし、霧崎、ポーカーフェースに徹して、動揺を隠す。

「ありましたよ」

「ああ、本当に」

霧崎の連れてきた技術者、接続作業にかかる。霧崎、コンソールとスクリーンの汚れが気に懸かる。

「ところで、こっちのコンソール、何に使われているんですか?」

「ま、色々とな」

「オートローダも買われたんですね。これ、高かったでしょう」

「ディスク枚数が多いときは、随分効率的になるんですよ。今回のインストールにも使いましょうね」

「国軍情報センターでも、オートローダ入れました。ちょうど良かった」

ディスクの箱をコンソールデスクの上に置き、技術者たちにインストール作業の説明を始める秋野助教授。必死にメモを取る技術者たち。


十一時四十五分、そろそろ混み出したオープンエアのカフェテラスでサンドイッチをつまむ英二、綾子、坊谷の三人。

「さっきの電話では何か?」

「父の秘書が捜査本部に入ることができて、これからは、何かあり次第教えて頂くことになりました。でも、今の所、さっきお話した以上のことはないみたいね」

「僕らに何かできることはないかなあ」

「誘拐現場を見に行こうか。それほど遠くもないし」

「警察が調べてるはずだから、僕等が行ったって無駄だと思いますよ」

「レイヤに推理してもらうってのは?」

「データが不足していると思いますよ」

「そうだなあ。レイヤが探偵なら、先ず、虫眼鏡で現場に残された証拠を探したり、関係者の話を聞くところから始めるんだよな」

「レイヤの虫眼鏡……ああ、それ、ありますね」

「えっ?」

「交通監視衛星。あのデータ、どのくらいの時間、保存してるんでしょう」

英二、急いで、西川開発部長に電話し、交通監視衛星のデータ保存期間を問い合わせる。ややあって後、返ってきた西川開発部長の連絡によれば、交通監視衛星のデータは過去三時間分が保存されているとのこと。直ちに、関東と隣接地域のデータを、過去分も含め、全てアイリストに送ってもらうよう依頼する。

「で、解析は、レイヤだよな。やっぱり」

「それしか、ないわよねえ」

綾子の顔に、少し、明るみが戻る。


十二時二十分、コンソールルームでは、霧崎が連れてきた国軍情報センターの技術者が作業を終え、ケーブルを取り外している。

「わかりやすいところに置いときますから……」

秋野助教授、接続ケーブルを技術者から奪い取ると、自分で倉庫に持って行く。

相生教授に礼を述べる霧崎。

「上手くいったかね」

「はい、お蔭様で」

「そっちで上手くいかなかった理由もわかったかね?」

「ウチの連中、手順を一つ飛ばしてたようです。今回、完全にマスターしましたから、もう大丈夫だと思います。申し訳ありませんでした」

「いやいや、良かった良かった。さて、一仕事終ったところで、お茶でもどうですかな」

「いや、センターの方も取込み中でして、あまりのんびりしているわけにもいきません。せっかくですけど、我々はこれで失礼させて頂きます」

相生教授に送られてコンソールルームを出ていく霧崎と技術者たち、これと入れ違いに、坊谷、英二、綾子の三人が入ってくる。

「あら、早かったわね」と秋野助教授。

「いい手がありましたよ」と、坊谷、倉庫からコンソール接続ケーブルを持ってくると、左右のコンソールの接続に取りかかる。

「英二さんの方から、かごめ自動車に、交通監視衛星のデータを、ここの計算機に送り込んでもらうように依頼しました。過去三時間分、残されているそうです」

「それはまあ」と、コンソール画面をみつめる秋野助教授。「すごいデータ量ですね。まあ、まだしばらくは、大丈夫そうですけど」

坊谷、デルファイコンソールに向かいマイクに話しかける。

「レイヤさん、一つお願いがあるんですけど、聞いて頂けますか?」

「何だ」

「交通監視衛星のデータを、こちらの計算機に転送しています。これを使って、自動車の行方を追って頂きたいんです。フォーマットはわかりますね?」

「英二君が解析したものだな。地図データも残っている」

「目標は、今朝十時半にアイリストA棟の玄関を出発した三台の車」

「後の壁面ディスプレーに表示しよう。目標をマウスで指定してくれ」

デルファイコンソールの後の壁に設けられた大型ディスプレーに、アイリストA棟周囲のナビ画面が表示される。下の端には、経度、緯度と並んで時刻が表示されている。十時半のデータには、A棟の玄関前に既に車の姿がないため、時間を遡って表示する。十時二十八分まで遡ったところで、画面には、A棟玄関前に三台の車が並んで表示される。

「三台の車が出発したのは午前十時二十八分だ」

中央の車をマウスカーソルで指定する坊谷。

「この車が標的です」

「これをT1と名付けよう。他にも気になる車があったら、指定してくれ」

「T1は五条理事長と総理の車、前後の護衛車を、T2、T3としましょう」

それぞれの車をマウスで指定する坊谷。

「それじゃ、これらの車の行先を追っていってください」

ナビ画面上で、三台の車が正門を出ていくのが表示される。三台は、遊水池の向う側を回り、バイパスの入り口に進む。

「あ、ちょっと待って」と綾子。「ここに止まっている一台の車、もしかすると、総理を見張っていた、賊の一味かもしれないわ」

坊谷これをマウスで指定し、レイヤに伝える。

「標的の追加をお願いします。T4、見張り役の疑いのある車」

三台の車はバイパスに入り、北に向かう。と、突然減速して、停止する。

「狙撃されたのね」

「撃ったのはだれだか、わからないかなあ」

「解像度不足のため、それは、わからない」

次いで、中央のT1が動き出し、速度を上げて北へ向かうが、大型車がT1の前に割り込み、T1も停止する。その後に続いて停止する二台の車。

「あ、これが賊の車でしょう。T、えーと、5、6と致しましょう」

レイヤは続いてT5、T6を追跡する。標的が分かれて一画面に収まりきらなくなると、画面を左右二分割にして跡を追うレイヤ。

「ああ、T6、乗り換えたようです。これをT7とします」

「おい、T5も乗り換えおったぞ」

「はい、こちらをT8とします。目標が大分増えましたけど、大丈夫ですか?」

「このぐらい問題ない。なお、T4、見張り役の疑いのある車、も動き出した」

単調な追跡部分を早回しで再生していくと、T7、8、4は、やがて一つの画面に収まり、ついには一箇所に集まって停止する。画面に表示された時刻は十一時十五分。五十分足らずの素早い犯行だ。

「ここがアジトのようだな」

「さて、どうしましょう」と坊谷。

「これは、警察に連絡して、踏み込んでもらうしかないわね」と秋野助教授。

「どうやって説明したもんか」と、考えこむ相生教授。

「ナビの画面は、デルファイほどの秘密ではないから、レイヤさんに犯人たちの足取り映像をビデオにしてもらって、これを警察に届けたらいいんじゃないでしょうか」と英二。

「それでいこう」と相生教授。

「レイヤさん、今の英二さんの案、やって頂けますか?」

「お安い御用だ」


十八日午後一時ちょうど、秋野助教授と坊谷、警察に連絡するため、アイリストA棟会議室に入る。

坊谷は会議室のスクリーンにもレイヤの画面が出るよう、画面下のキーボードを操作する。このキーボード、普段は壁面に収納されているのだが、取っ手を引っ張ると、金属の棒の先に取り付けられたキーボードが、ちょうど画面を見るのに都合のよい位置に引き出される仕掛だ。キーボードの横にはマイクとスピーカも取り付けられている。

秋野助教授、電話をかける。

「アイリストの秋野と申しますが、鈴木さんか高橋さん、おられましたら、ちょっとお願いしたいんですけど」

「はい、鈴木です。先ほどはどうも」

「あ、どうも。それで、総理大臣と五条理事長の居場所ですけど、たった今わかりましたので、御連絡します」

「なんですって、それで、今、どこに?」

「えーっと、幹線道沿いの何とかという工場で……隣はレストラン、向かいは林になっておりまして……」

「僕が説明します」要領を得ない秋野助教授に代って坊谷が答える。「地方幹線27号線を北上して、ちょうど県境にかかる辺り、マルコニ精機という会社の工場の中に連れ込まれた模様です」

「総理の現在位置通報、地幹27号を北上した県境付近、道路脇のマルコニ精機工場内と推定」

鈴木刑事が大声で繰り返す声が聞こえる。どうやら、周りの刑事に伝えているらしい。

「で、どうしてそれがわかったんですか?」

「えーと、これは、かごめ自動車さんの企業秘密ですんで、他には出さないようにして頂きたいんですけど、ナビゲータ画面に走行中の自動車を表示するという研究をしてまして、これを使って、総理と理事長の乗った車を追跡したら、そこにいるってわかったんです」と坊谷。

「その画面の写真か何か、要するに、証拠となるようなものを、何かお持ちでしょうか?」

「あー、追跡したビデオ映像はディスクに入ってますけど。コピー、差し上げましょうか?」

「それ、大至急こちらに頂きたいんですけど、すぐにそちらにうかがいますんで。あ、もしかすると、鑑識の田中が、まだ、そちらにおじゃましておりませんか?」

坊谷、首をかしげながら、秋野助教授に訊く。「鑑識の田中さん、って、ここにいるんですか?」

「あっ」と声を呑んだ秋野助教授、「しまったぁ、倉庫に入れっ放しだ」と叫ぶと、会議室を飛び出す。

坊谷、秋野助教授の後姿を目で追いながら、落ち着いて電話に向かう。「はい、田中さんはまだこちらにおられるようです」

「それじゃあねえ、まずディスクを田中さんに渡して頂いて、署の方に大至急持ってくるよう、言って頂けませんか。我々はすぐそちらに向かいますんで。それから、御連絡頂きました現場には、係の者を向かわせましたので御安心下さい」

秋野助教授に連れられて、倉庫から出てきた田中鑑識係官、憮然とした様子ではあったが、ディスクを受け取ると、止めてあった覆面パトカーのサイレンを鳴らして警察署に戻る。


先ほどから綾子と何か話していた英二、相生教授と秋野助教授に提案する。

「さて、我々も現場にいきたいんですけど、よろしいでしょうか?」

「うーん。よし、わしもいこう。理事長の一大事だからな。ここは、秋野君と坊谷君がいれば大丈夫だろ」

「はい、何かありましたら、御連絡致しますので」と秋野助教授。

英二、綾子と相生教授を車に乗せ、現場に急行する。時刻は午後一時八分。


霧崎、石黒に報告する。

「国軍情報センターの機能は回復しました」

「御苦労だった」

「相生教授は、どうも、我々を疑っている様子です。思考ルーチンを外部に拡散させたことに、感づいているかもしれません」

「それを始末したのも教授たち、ということは考えられんかね。そのついでに、ウチのマシンをクラッシュさせたということも」

「それは十分に考えられます。なにしろ、思考ウイルスを片付けるように、私自身が、教授に依頼しましたんで。その他、どうも相生研究室に不穏な動きがあります。物置に警察官らしき男が隠れておりましたし、怪しげなケーブルと大量のディスクもあります。コンソールにはオートローダを接続していました。汚れ具合などからみましても、我々の残したコンソールを何処かと接続して、相当量の作業を行っている様子です」

「うーん、実は、総理大臣が誘拐されたという未確認情報があってな。相生研を訪問した帰りに、五条勇作ともども誘拐されたというのだが、それが真実で、極秘捜査を行っているのかもしれん」

「誘拐したのは一体?」

「実は、この情報の出所は国軍で、連中がやった可能性が高い、と私は睨んでいるのだよ」

「クーデター、ということですか? 今どきそんなことをして、成功するんでしょうか?」

「他にもおかしな情報があってな、政府が大量にプロセッサボードを買い込んでいるらしい」

「戦争を始める気でしょうか。戦争を始めるには、国軍情報センターの機能を、相当、拡張する必要がありますから」

「思考ルーチンを外部に出すことは、セキュリティの問題があるが、プロセッサボードが大量にあれば、全て自前でできるからな。暗号解読はおろか、人工知性体を作り出すことさえできる」

「それをやるとすれば、あの教授たちも、一枚噛んでいる可能性が高いですね。あのコンソールも、それに使っているのかもしれません」

「うむ。総理は開戦の為に、一時的に姿を隠した、という可能性もある。その場合、国軍と相生研が組んで、もう一つ、巨大な情報センターを建設しているかもしれない。情報局が一枚噛んでる気配もある」

「人工知性体を持ったとして、これはどの程度の戦力になるでしょうか」

「それは絶大だ。戦略面での利用はもちろんだが、情報戦での価値が高い。世界の全ての情報が手に入り、必要なら、偽の情報を与えることもできるし、敵の計算機を停止させることだってできる。軍の統制の大部分が計算機ネットワークでなされている現在、これ一つあれば、世界を征服することも可能ではないかと私は考えている」

「前回の実験で、確かに驚くべき情報が手に入りましたが、人工知性体は、我々の言うことを聞かず、かつ、非常に不安定でした」

「うーん、修羅場ではあったな。知性体を手なづけるのは」

「これを何とかしないと、実戦に使うことは難しいのではないでしょうか」

「うーむ。それをやれるのもあの教授たちだな、一度私が調べてみよう」


坊谷、自分のパソコンに向かい、何やらプログラムを組み始める。

秋野助教授はデルファイコンソールに陣取り、レイヤに語りかける。

「レイヤさん、マルコニ精機の工場内に、何か、動きがあったら教えてくださいね」

「わかった。監視を続ける」

「さて、さっきレイヤさんは、衛星の解像度では、狙撃した人たちを見付けることはできないと言われましたね」

「言った」

「狙撃した人たちを目撃した人たちなら、見付けられるんじゃないでしょうか」

「狙撃のあった時刻の前後に、現場付近を走行していた車を追うことはできる」

「それでは、目撃者と思われる車の行方を追って、リストを作っておいて頂けませんか。刑事さんたちが来たらお話ししますんで」

「了解した」


午後一時三十分、坊谷がディスクを持ってコンソールルームに戻ってくる。

「これ、インストールして頂けますか? 英二さんのナビに、こっちの画面が出るようにしましたんで」

「あー、これ、警察も欲しがりそうね」

「これ、単に交信モード使っているだけですから、AIナビさえあれば、どれにでも出せます。真田さんが、いくつか試作品持ってましたから、それ、使って頂いたらいいんじゃないでしょうか」

「貸してくれるかな? 真田さんにも、一通り、お話をしておいた方が良さそうね。朝はいなかったようだけど、もう、来られてますか?」

真田は、まだ来ていない。


坊谷の声が英二の車の中に響く。

「工場内のT三台に変化はありません。それから、英二さんのナビを、アイリストのチャンネル7との交信モードにして下さい。そちらの画面にレイヤの映像が出るようにします」

「了解」

英二、ナビを交信モードに切り替えるが、画面は、やはりナビ画面、変らない。

「しかし、交信モードなのに、どうしてこの車の周りのナビ画面が出るんだろう?」

「英二さんの車も追跡してますからね。その周りの映像をレイヤが切り出しているんですよ」嬉しそうに種明かしをする坊谷。

「なるほどね。あ、もうすぐ着くよ」と英二。

「今のところナビ画面と同じですけど、いいこともあるんですよ」と、思わせぶりな坊谷。

「警察の方はどうなっておるかね」と、割り込む相生教授。

「先程、鑑識の方が、追跡映像のディスクを持っていかれました。別の刑事さんたちが、そろそろ、こちらに来るはずです。それから、パトカーを現場に向かわせるといってましたけど、そこら辺にいるんじゃないすか?」これは秋野助教授。

「おお、今、我々が追い抜いたのがそれだな」冷静に語る相生教授、英二の運転にも大分慣れてきた様子だ。

高速を降りて、一般道を飛ばす。辺りは寂れた光景に変る。しばらく走ると、前方に、パトカー数台が止まっているのが見える。警察官が交通遮断の準備をしているようだ。ナビの画面には、この先の工場の中庭に光る三つの赤い点を、T7、8、4と書かれたマークが指している。このマークは、レイヤが付けたもの、交信モードならではの機能である。

「あの工場のようだな、敵のアジトは」

相生教授が指し示す敵のアジトは、既に操業を停止して何年か経過したような、壊れかけた工場で、周囲のコンクリート塀の影には、何人かの警察官が動いている。

「あそこの駐車場はどうだね」

「そうします」

英二、荒れ地を隔てて工場に隣接する、食堂の駐車場に車を入れ、入口近くに駐車する。工場と駐車場の間の狭い荒れ地には、雑草がぼうぼうと茂っている。この食堂も、あまり流行っていない様子で、広い駐車場には、他に一台の車が、向う端にぽつんと止めてあるだけ。何とも侘しい光景である。三人は車を降り、なす術もなく工場を眺めやる。

「これは、見ているしかありませんね」と英二。

綾子は蒼ざめた顔をして、何かを訴えたい様子。しかし、今の英二には何をしてやることもできず、ここで様子を見ているより他にどうしようもない。そのとき、タイヤを軋ませて三台の車が英二たちの隣に停車する。一台の車から降りたのは、先程の刑事、高橋と、もう一人の男。

「や、先生方でしたか。お蔭様で、犯人の居場所がわかりました。すごいですな、お宅のコンピュータは。警察にも、是非同じものをお願いしますよ」と高橋刑事。

「で、これからどうなさるのかな?」と相生教授。

もう一人の男がこの質問に答える。

「難しい質問ですね。人質の安全第一でいきますので、長期戦になるかもしれません。まだ、犯人の要求もわかりませんし。銃器も所持している様子ですので、先ずは、周囲を固めて、中の様子を調べることから始めたいと思います。あ、ご紹介が遅れましたが、私は先ほど現地対策本部長に任命されました、小林と申します」


午後二時十二分、あちこち歩き回っている英二を残して、車のシートに座る相生教授と綾子、そこに、石黒からの電話が入る。

「おお、君か、えらく久しぶりだな」

「先生はいったいどっちの側なんですか」

「私はアカデミズムに身を投じているさ」

「先生は中国の暗号通信を全て解読し、米国、ヨーロッパの通信も相当程度解読された。これは政府部内でも高く評価されているのですよ。全てが終われば、先生の功績は公表され、先生は模範的愛国者としての名声を思うままにできたはずです。私は先生の恩に報いるため、全力を尽くしました。先生はどうして、これを受けて頂けないのですか」

「愛国者ね。でも、君がその愛の対象と考えているような絶対的な国家は、もう、何十年も前から意味を失っているんだよ。どうして君は気付かんのかね。真の愛国者は、我が国を、世界のリーダーにふさわしい国にする人たちだと、わしは思うがね」

「普遍国家宣言せよと仰せですか? あんなものは机上の空論であり、西欧の世界支配の野望を包み隠す欺瞞です」

「アカデミズムは、もう何世紀も前から、普遍性の原理の元でやってきたんだよ。学会のシステムは、中には情実の介在したこともあったろうが、公平、公正、公開の原則で、真理を追究し、現在に科学技術の花を咲かせておる。その中で、研究の自由は守られ、それぞれの研究機関は、外部から支配されることもなく、独自の校風、文化を発展させてきたんだよ。そのどこがまずいというんだね」

「大学は特別です」

「じゃあ、市場経済はどうだね。市場は公正を旨とする普遍性の場だが、そこに参加する企業は、だれに支配されるわけでもなく、自由に投資し、物を作っておるわけだ。民主主義にしたってそうだろ。右から左まで、多種多様な団体が結社の自由、思想・信条の自由を認められ、公正な投票で国民の意思を決めておるわけだから。普遍国家基本法など、別に特別視するものでもなんでもなく、昔から当たり前のように行われたことを成文化しただけにすぎん」

「……」

「君は、国軍情報センターから思考ウイルスをばら撒いただろう。我々のところでは、政府の指示でウイルス退治をしておったんだが、ワクチンは、国軍情報センターの思考プログラムも、ウイルスと判定して、消去しおった。思考ウイルスの散布が意図的に行われたものだとしたら、こういうことは二度とせんで欲しい。それから、ロボットのOSに、スーパーバイザ迂回の裏口を用意しとったのも、君等なんじゃないかね?」

「これに関しては、国家機密ですから、お答えできません。ですが、違法なことはやっておりませんのでご安心下さい。ところで、先生は総理をどこかにお隠しになったんですか?」

「うーむ、これはだれにも秘密にしとけということだったが、総理は誘拐されたんだよ。五条理事長と一緒にな。今、警察が必死に救出しようとしておる」

「もう一つお聞きします。先生は巨大な人工知性体をお造りになっているんではありませんか?」

「その質問には答えられん。わしにも一つぐらい、秘密を持たせておくれ」

(そういうことか)

相生教授の回答拒否は、本人の意図とは異なり、明白な肯定と何ら変りない。事態をほぼ正確に把握した石黒、難しい顔をして考え込む。


午後二時十五分、鈴木刑事と二人の警察官がアイリストに到着する。刑事たちを迎えに玄関に出た秋野助教授、ちょうど真田の車がA棟前を通過し、B棟の前で三人の女性事務員を降ろすのを見て、眉をひそめる。

(真田さんたら、事務員まで連れ出して……。昼休みはとっくに終わっているのに)

愛想笑いで刑事たちを迎え、会議室で応対する秋野助教授。

「田中さんの持っていかれたディスクは御覧になりましたか?」

「いや、無線ではすごいものだとうかがったんですが、実物はまだ……」

「それでは早速、その映像から御覧に入れましょう」

会議室の大型ディスプレーに、先ほどの映像が映し出される。ときどき、刑事のリクエストに応じて、ポーズをかける秋野助教授。

「これはすごいものですなあ。この機械は、是非とも警察でも使えるようにして頂きたいものですなあ。ところでこれ、かごめ自動車さんが極秘に開発を進めている新製品だとうかがいましたが」

「そのことで、ちょっと御相談なんですけど、かごめ自動車の真田さんがここにおられるんですけど、御協力頂くようにした方が、何かと都合がいいと思うんですけど」

「ああ、それは構いませんとも、私どもも、是非、御協力して頂きたいと思います」

会議室に呼ばれた真田に、鈴木刑事が協力を要請する。

「あーこれはどうも。実は、このたび、誘拐事件が発生致しまして、御社が開発されているカーナビの情報が、事件解決の有力な情報を与えてくれるということで、是非とも御協力頂きたいのですが」

「総理大臣が誘拐されたって事件ですか?」と真田。

刑事の目に非難がましい色を感じた秋野助教授、一応、弁解する。

「えー、真田さんは、ここに来られたのは今が初めてですから、私たちがお話したんじゃありませんわ」

「あ、私は事務員たちから聞きました」と、真田、すまして答える。

(じゃあ、だれが事務員に喋ったんだ?)

言いたい言葉を、ぐっと飲み込んだ鈴木刑事、全てを話すことにする。

「はい、誘拐されたのはここに見学に来られた総理大臣と、ここの五条理事長です。その後、秋野先生から通報を頂きまして、ここで開発中のカーナビの情報を解析して、人質の連れ去られた先を突き止めたということで、御協力を要請しに参った次第です」

「真田さんね、交通監視衛星からの情報を、ここの計算機で解析して、理事長たちの乗った車の行方を追っかけたんです。いろいろと、車を乗り換えたりしたんですけど、だいたいわかりますんで、ずーっと追いかけて、犯人たちの潜伏先を突き止めたんです」

「あー、なるほど、そういう用途にも使えますね」と真田。「警察に御協力することは、かごめ自動車社内でも、常々、積極的にするように言われておりますので、私どもと致しましては、全く異存はございません」

「どうもありがとうございます。さて、既に頂いた情報以外に、捜査に役立ちそうな情報を、何かお持ちでしたら、教えて頂きたいのですが」

「人質たちの居場所の次に、一番関心のあることは、だれがどこから狙撃したかということだと思いますが、残念ながら、交通監視衛星の解像度はそれほど高くはなく、狙撃者を見付けることはできませんでした。だけど、狙撃されたときに付近を通りかかった車は追跡することができます」

秋野助教授、キーボードを操作して、壁面の大型ディスプレーの表示を、前後の護衛車が狙撃された時点に進める。

「えー、これが狙撃の瞬間ですが、このとき、周囲を走行中の車をマークしました」

画面の、車を示す赤い点の横に、「TXXX」と書かれたマークが、多数、表示される。

「ただいま表示されましたマークは、狙撃を目撃した可能性がある車両で、ひょっとすると狙撃者の車が含まれているかもしれません。これらの車は、現在、ウチのコンピュータで追跡中で、現在の監視範囲にいる限り、所在を特定することができます。監視は、現在、関東とその隣接地域で行っていますが、怪しい車が監視範囲から出そうになったら、すぐに隣の地域も監視するようにしますので、日本中、どこに行ってもつかまりますわ」

「しかし、これだけの車が動き回っていて、どうやってつかまえりゃいいんだ」
  同席した警官が思わず口にする。

「はい、そこで、真田さんにお願いしたいことがあるんですけど。かごめAIナビの試作品を十ばかりお持ちでしたよね。あれ、警察に貸してあげるわけにはいきませんか?」

「もちろん、構いませんとも。ヘッドアップディスプレーはちょっと難しいですけど、本体の方は、十二個作って、二つは私と英二の車に付けて、一つばらしましたから、九台、お貸しできます。簡単に付きますよ」

「それじゃあ、パトカー九台、ここに回して頂いて、真田さんの方で取り付けやって頂けますか?」

了解する真田をみて、仲間のパトカーを呼ぶ警察官。

「Tのマークは、100から振っていまして、数字の小さいのが目撃した可能性の高い車です。AIナビを取り付けたパトカーも、こちらで追いかけて、付近の目標を御連絡しますので、常時こちらと連絡を取るようにして下さい」

「警察無線をご用意致します。一つよろしくお願いします」と鈴木刑事。「それからもう一つ、総理たちを誘拐した車が、どこから来たか、逆に追いかけることはできませんか?」

秋野助教授、早速、逆向きの追跡を試みる。追跡の結果は、会議室の大型スクリーンに表示されるが、保存されているデータは十時ごろからと短く、犯人たちは、襲撃前に高速道路サービスエリアで待機していた、との新情報が得られただけである。それでも、鈴木刑事は満足そう。この新事実をすぐに本部に連絡する。

鈴木刑事の報告を受けて、サービスエリアで働く人たちへの聞込み捜査が行われる。その結果、犯人たちの出発を目撃した売店の従業員の証言が得られる。これによれば、犯人たちの大型トラックと乗用車は、一時間ほどサービスエリア駐車場に止まっていたが、その間、乗員はだれも車から降りず、人相などは不明という。


午後三時すぎ、パトカーへのAIナビ取り付け作業は全て完了する。レイヤに接続されたナビを持つ九台のパトカーはTのマークの広がりにあわせて展開し、他のパトカーの協力を得ながら、大々的な目撃者探しが行われる。真田と鈴木刑事は、臨時指令本部と化したA棟会議室に陣取り、壁面のディスプレーに表示されるレイヤの助言を、警察無線で本部と九台のパトカーに伝える。秋野助教授は、会議室のホワイトボードに100から増加する目撃者番号を書き、目撃者が捕まるごとに、横線を引いて消していく。キーボードを操作し、新しい目標を次々と画面に出す坊谷。


午後六時をすぎ、夕焼けに染まる工場の隣の駐車場。今度は、英二の携帯電話が鳴る。相手は秋野助教授。

「今、警察から連絡があって、まもなく総理誘拐事件の発表をするそうなんですけど、その中で、ナビの画面をマスコミに提供したいって言ってるんです。あれ、英二さんの著作権があるんじゃないかと思うんですが、許可を頂けませんかって」

「あれはかごめのもんです。それじゃ、警察に返事するように、私からかごめにいっときます」

電話を切った英二、今度は西川開発部長に電話をかける。

「ああ、部長、今朝から送って頂いている交通監視衛星のデータに関することなんですが、実は、アイリストを見学された総理大臣が、案内役の五条理事長と一緒に誘拐されまして、あのデータを使って監禁場所を突き止めていたんです。極秘捜査ということで、部長にも目的を御説明できず、大変申し訳ありませんでした。まもなく警察から発表が行われるんですが、ナビ画面もマスコミに流したいということで、警察の方から許可を求めてきています。部長の方から、警察に、許可出して頂けませんでしょうか」

あまりに意外な話に、しばし声を忘れた西川開発部長だが、「ナビ画面」、「マスコミ」の二つのキーワードに触発され、得難い状況にあることを悟る。

「ああ、真田君からなんかいってきたのがそれか。うん、わかった、ありがとう。すぐに手配しておくよ」

英二に短く答えて電話を切ると、西川開発部長、ナビ事業部に電話をかけ、緊急オンライン会議の開催を要請する。


悩む石黒、霧崎相手に話す。

「どうやら、国軍の一部が跳ね返って、クーデターを起こしたようだな。教授の話し方では、クーデター部隊が総理を誘拐したことも確かなようだ。全く馬鹿なことをしおって」

「我々はどうしたらいいでしょうかね」

「このクーデター、上手くいくわけがない。教授に付くしかないな。万が一、教授が総理と結託して開戦準備を進めているなら、それはそれで良し、共に戦うまでじゃないかね」


午後六時半。

「記者会見が始まったようだ」

教授の呼ぶ声に、駐車場横の荒れ地に分け入って、工場を眺めていた英二も、車に戻る。ナビの画面では、総理誘拐を伝えるテレビの臨時ニュースが始まっている。その内容はほとんど知っていることと、しばし聞き流す英二たちだが、ニュースキャスターの話がAIナビに及ぶと、真剣に聞き始める。

「事件はまだ解決していないのですが、犯人の居場所を突き止める大きな手がかりとなったのが、新しく開発されたAIナビでした。これはかごめ自動車がアイリストの相生研究室と共同開発したハイテク新製品で、近く一般販売も開始されるということです。この方が相生教授です」

画面に大きく映し出された自分の顔写真を見て、「うーん」と唸る相生教授。

「ちゃっかり宣伝しましたね。開発部長」と英二。

「それでは、アイリストを出発した総理一行が、賊に誘拐され、アジトに連れ込まれるまでの一連のナビ映像を御覧下さい」

テレビ画面には、秋野助教授が警察に提供したナビ画面が、T1などのマークもそのままに、映し出される。これをうっとりとみつめる英二と相生教授。


午後七時すぎ、駐車場の辺りがだんだん騒がしくなる。数を増す警察車両に加え、報道各社の中継車、野次馬、上空にはヘリコプターも数機飛び回っている。テレビに切り替えたナビ画面では、先ほどから、通常番組を中断して、総理誘拐関係のニュースを繰返し伝えている。

こつこつと英二の横の窓ガラスをたたく警官。窓を開けた英二に、「申し訳ありませんが、ここは危険ですので、一般の方は立ち去るようお願いします。我々が誘導しますから」

「おいおい、我々は一般の者ではないよ。あそこに囚われておる五条さんはわしのとこの理事長だし、ここにおる綾子さんは、五条理事長の娘さんだよ」

相生教授の顔をしげしげと眺めた警官、先程テレビに出ていた顔だと気付く。

「これは失礼致しました。関係者の方でしたか。それでしたら、あちらに現地対策本部を設置致しましたので、お移り頂けませんでしょうか」

警官の指す方を見ると、この食堂、現地対策本部に早替りしたようだ。入口には「総理大臣誘拐事件現地対策本部」と墨痕黒々と書かれた看板が立ち、制服警察官が何人も出入りしている。その前では幾組かのテレビレポータが煌々と照る照明の中でマイクに向かって何か話している。

「あそこから入るのかね」と、躊躇する相生教授に、「裏口の方、御案内致します」と、警官、先に立って案内する。


食堂の勝手口から、空き瓶やダンボール箱の積まれた狭い通路を通り、キッチンを通り抜けると、そこは現地対策本部。奥のボックス席のテーブルにパソコンや電話が設置され、警察官がそれに張付いているさまは、なんとも異様な姿である。入口付近の広い場所に、いくつかのテーブルを組み合わせて広い台ができている。その上に、犯人の立てこもる廃工場の、大きな間取り図が広げられている。赤と緑の丸磁石は、犯人と人質の場所を示しているようだ。その後方、壁側にはテレビ受像機が並べられ、各局の映像を映し出している。入口では、たった今運び込まれた弁当が警官たちに配られ、キッチンから大きなやかんに入れたお茶が運ばれてくる。

英二たちを案内した警官が小林本部長に何やら耳打ちすると、小林本部長、席を立って挨拶に来る。

「ああ、これは相生先生、このたびは御協力、まことにありがとうございました」

「これは、ウチの研究室であのナビを担当していた英二君、こっちは五条理事長の娘さんの綾子さんだ」

「これはこれは。御心配だと思いますが、我々も決して無理は致しませんので、しばらく御辛抱下さい。現在の状況につきまして、御説明致しましょうか?」

「それは是非お願い致します」

「犯人の立てこもっているのは、マルコニ精機という会社の工場兼営業所で、三年前に移転して、その後は空家になっていたということです。この建物、一階と二階が一部吹き抜けの作業場、三階が事務所になっておりまして、犯人五名と人質二人は三階の事務所にいることが確認されております。三階への入口は、建物の中の階段と、壁の外側に設けられた非常階段の二ヵ所、中の階段には厳重なバリケードが設けられておりまして、今、これを一つづつ破って三階に接近しつつある段階です。外の階段は、一直線に三階まで続いておりまして、犯人側が上にテレビカメラを付けて監視している様子で、ここから犯人に気付かれずに侵入することは不可能と思われます。もちろん、下には突入部隊を配置しておりまして、いざというときには駆け込ませます。その他、周囲には狙撃部隊も配置しております。問題は、犯人が銃器を携帯していること、爆発物らしい箱がいくつか確認されていることで、人質の安全を第一に、慎重の上にも慎重を期して事にあたっております。なお、犯人側からの要求は、まだこちらには入っておりません」

説明を聞いても、容易ならざる事態であることが良くわかるだけである。力を落とす綾子をみて、本部長、いたわりの声をかける。

「解決にはまだ、かなりの時間がかかる見通しです。あちらの方でお休みになられたらいかがでしょうか。何か変化がございましたら、すぐにお伝えします。あ、宜しければ、弁当も余分に準備してございますんで、召し上がってください」

英二は、ちょっと弁当に気をそそられるが、相生教授も綾子も、とても弁当を食べる気にはならないようだ。この様子を察知した英二、弁当を諦め、小林本部長に指し示されたボックス席に進む。

三人がボックス席に入ろうとしたとき、別のボックス席でパソコン画面を眺めていた警官が叫ぶ。

「犯人が人質に何かしています」

本部長、画面を見に駆け寄る。綾子たち三人も、案内されたボックス席に入るのは一時中断して、本部長たちが見つめているパソコン画面に見入る。「レーダCT映像」というラベルの貼られたディスプレーには、不鮮明な緑色の塊がいくつか映っており、刑事がレバーを操作すると見る角度がぐるりと変化する。担当刑事の説明では、人質を犯人が取り巻いており、内一人が人質の近くにかがみこんで何かをしているという。やがて、緑の塊はまとまって移動を開始する。警官が解説する。

「全員、外側非常口に向かっています。人質二名が先頭、手を上げています。後に犯人五名、銃器を所持している模様」

本部長、無線に向かう。

「狙撃班、外側三階非常口に照準。人質二名を先頭に、犯人五名、非常口に接近中。犯人は銃器を所持。人質処刑の動きあれば、直ちに犯人全員を射殺せよ」

綾子の顔からは、完全に血の気が失せている。相生教授と英二も、体を固めたまま、心臓の鼓動だけを異様に強く感じている。

そのとき、本部長の机に置かれた無線機から割れた声が流れる。

「外側非常口が開きました。人質の姿が見えます……人質だけです。犯人の姿は見えません……非常口、閉まりました。人質は解放された模様」

「十九時二十六分、人質解放」と、だれかが叫んで、時間を記録する。

壁際に並べられたテレビ画面は、次々と、工場の外階段をゆっくり下る人質二人の映像を映し出す。五条勇作が手首のあたりを揉んでいるのは、縛られていたためだろうか。かなりの警官が飛び出して人の少なくなった現地対策本部の中で、綾子、動悸を押さえようというのか、胸に手を当てて、テレビの画面を食い入るようにみつめる。綾子の顔に明るさが戻ってくる。小林本部長も、この場を離れるわけにはいかず、綾子の横顔を満足げに眺めている。

テレビ画面には、外階段の一階側から、毛布を持った警官が数名駆け上がっていく姿が見える。警官たちは、階段の途中で人質たちに合流すると、人質にヘルメットをかぶせ、毛布を掛け、肩を貸して人質を支えると、ゆっくりと降りてくる。

テレビは、警官たちに支えられた人質が地上に降り立ち、現地対策本部前まで歩く姿を追いつづけている。その周囲では盛んにストロボが焚かれる。と、食堂の入口付近を固めていた警察官が左右に開いて道を開け、その向うに総理と五条理事長の実物が姿をあらわす。

さっと総理に敬礼する小林現地対策本部長、勇作に駆け寄る綾子、その姿がテレビ画面に映し出される。綾子の涙混じりの笑顔を、さまざまな角度から映したテレビ画面。これを眺めて微笑む英二と、その英二の肩をぽんぽんとたたいて喜びを表す相生教授。

と、そのとき、大きな爆発音が聞こえ、全員、すくみあがる。テレビの映像は、再び切り替り、壁と屋根が一部吹き飛んで煙を上げる工場三階部分を映し出す。食堂の屋根に、ぱらぱらと音を立てて、爆発で吹き飛んだ残骸がおちる。

「ただいま爆発音が聞こえました。犯人の立てこもっていた三階付近です……。このあたりにも、屋根のスレートの破片でしょうか、小石のようなものが、ぱらぱらと降り注いでいます」外のテレビレポータが頭を台本で守りながら叫ぶ。

「各班、被害状況を報告しろ」無線に叫ぶ小林本部長。

思わず外に出ようとする教授たちを押し止める警官。

「危険ですから中にいて下さい」

付近で待機していた消防車がサイレンを鳴らし、工場建屋に向かう。

小林本部長、総理と勇作に向かい、遠慮がちに尋ねる。

「お疲れのところ、大変申し訳ありませんが、事件の早期解決のため、少しお話をうかがえませんでしょうか。もしお身体の具合が悪いようでしたら、すぐに病院の方にご案内致しますが」

「構わんよ」と総理。

「わしも全然平気だ」と勇作。

二人の話によれば、犯人は五名、軽機関銃とピストルを携行、爆発物らしい木箱五つを周囲に並べ、いざというときは自決すると、予め決めていたらしい。外部と連絡をとっていた様子もなく、犯人の氏名、背後関係に付いては、「軍人のようだった」という以外は手掛りはない。人質となっていた二人の健康状態にも不安があるため、ここではあまり詳しい事情聴取もせず、ひとまず救急車で二人を病院に送る。英二たちも、救急車の後に付いて、病院に向かう。


「本部より全局。総理誘拐事件は、十九時二十六分、人質二名を無事保護、犯人は全員死亡した模様」

アイリストA棟会議室に置かれた警察無線が嬉しいニュースを伝える。

「よっしゃぁ」

ホワイトボードの前に立ち、コンタクトのとれた目撃者の番号に横線を引いていた秋野助教授、思わず力こぶを作る。会議室の大型ディスプレーの前で、キーボードを操作していた坊谷も嬉しそうに、秋野助教授に拳を上げてみせる。会議机の上に置かれた警察無線の前に陣取る真田と鈴木刑事も、笑みを交わすが、ちょっと不満そうでもある。

「まずはよかったですね。だけど、犯人全員死亡じゃあないでしょう」と真田。

「狙撃犯が、まだ、残ってますからね」と鈴木刑事。

秋野助教授、ホワイトボードの番号を叩きながら言う。

「えーっと、番号の若い方の目撃者は、ほとんどコンタクトが取れてるんですけど、このT103がまだですね」

「T103は捕捉されています。ルート出します」と坊谷。

「こいつが走ってるルートは、随分おかしいですね。検問場所を知っていて、それを避けて走っているようだ」と鈴木刑事。

「まー、検問やられると渋滞するんで、避けるってのは普通の人でもやりそうだけど。私も、今日の昼飯の帰りは、えらい目にあいましたよ。検問避けて裏道に回ったら、道の真中掘り返していましてね。やっと出たと思ったら、また検問」と真田。

「それにしても、こいつは、徹底して検問を避けてますね」

「番号が若いだけに、かなり臭いんじゃないですか?」

「ああーっ」と、秋野助教授。「たしかT103は、狙撃前にサービスエリアにいたんじゃないですか?」

坊谷、初期の映像を映し出す。犯人たちの車以外に、目撃者を表すTの符号が打たれた車が何台か、サービスエリアを出ている。T103もその一台で、犯人たちの車がサービスエリアを出発する直前にサービスエリアを出ている。

「この時間帯にサービスエリアを出た車は、狙撃の前後に現場を通ることになりますから、Tのマークがつくわけですけど、T103がサービスエリアに待機していたということは、この車に狙撃犯が乗っている可能性は相当に高いんじゃないですか。車から狙撃したとすれば、このサービスエリアで時間調整をした可能性が高いですからね」

「ここから出た車は、103以外、全部身元を割り出してありますね。これからは、こいつに絞って捕まえることにしましょう」

鈴木刑事はそう言うと、無線に向かう。

「臨時指令本部よりナビ全車。総理護衛車を狙撃したのはT103の可能性が濃厚。ナビ二号四号八号は、T103を確保願います。目標は現在、第三外環道、行田付近を東に向けて走行中。本部へ。利根川を東に渡る車輛の検問を強化願います。T103は、サービスエリアから誘拐犯と相前後して出発した唯一の未確認車両。これが狙撃犯である可能性は極めて高いものと思われる」


一方、爆発のあった監禁現場、火災はすぐに消し止められ、現場検証が始まる。現場は床も抜け落ち、残された遺体もバラバラで、犯人が何人であったかもすぐにはわからない状態であったが、注意深い照合により、五人の遺体であると確認、人質を監禁していた犯人は、全員、死亡したとの結論が下される。現場からは、勇作たちの証言通り、五丁のピストルと軽機関銃が発見されるが、犯人たちの身元を知る手がかりは見出されない。


午後七時四十分、アイリストA棟会議室に無線が入る。

「こちらナビ二号、ただいまT103を視認。停止命令を無視して猛スピードで逃走中。車種は赤いかごめKX、車高が低く、改造車と思われる。前後にマル特ステッカー。スモークガラスで乗員数は確認できず」

「なんだとー」と真田。

「T103右折しました。南に向かっています」と坊谷。

「南といったら、こっちに来るかもしれないな。俺も追いかけよう。ナビ付いてるし」と真田、「民間の方は、そこまでされない方が」と止める鈴木刑事をさえぎり、 「サンタのパトカーじゃ追い付けない。後付いてって、行く先を教えるだけさ」と、外に飛び出して行く。


午後八時十七分、相生教授より秋野助教授に電話が入る。

「あー、わしだ。今、都内の病院に着いたとこだが、理事長も総理も元気だよ。念のため一晩、入院するといっとった。わしと綾子さんは、一応、今晩はこちらに泊まることにするよ。英二君は帰すが、そっちは何か、変ったことはなかったかね?……えっ、狙撃犯を? 真田君が飛び出してったと?」

「それで今どこにいるんですか? 犯人と真田さん」

英二が電話に割り込む。横で通話を聞いていたらしい。

「怪しい車T103は、越谷の辺りを南下中です。真田さんは千駄ヶ谷の辺りを東に向かっています」

「こっちが近いね。こっちのナビに、そっちの音声を流してくださいね。この車、警察無線付いてないから」

「了解。それから、T103は、赤いかごめKXで、前後に特免のステッカーを貼ってるそうよ。英二さんと違うとこは、T103はスモークガラスってとこだけです。容疑者と、間違えられないようにね」


午後八時半、真田からの電話が入る。

「おーい、敵は今どこだ」

無線指示で大忙しの鈴木刑事に代り、秋野助教授が答える。

「T103は草加付近を南に向かって進んでいます。ナビ二号は完全に振り切られましたけど、四号、八号と連携して、北側に展開して南に向かってます。ナビ一号、五号は現在、湾岸道路を船橋方面に向かい、先回りする計画。その他の、三号、六号、七号、九号は東側に壁を作って近づいています。えーと、英二さんもそのあたりにいるはずなんだけど、マーク振ってないので、ナビ画面ではわかりません。それから、付近の高速入り口は、全て検問所を設けたそうです。あ、T103荒川を渡りました」

「キャッチしたぜー」と真田。「ナビ画面にT103をキャッチ、接近中です。業平で待機します」

A棟会議室壁面の大型ディスプレーには真田の車を示す輝点にT103が急速に接近する様が表示されている。鈴木刑事は付近の道路封鎖を矢継ぎ早に指示している。

「見えたぜー、追跡開始します」と、真田。「ただいま木場……うわっ、検問突破しやがった。敵は高速に入りました。湾岸に向かう模様。前に出て止めちまいましょうか?」

「危ないから、あまり近づかないで下さい」と、鈴木刑事。「そいつらが狙撃犯なら、ライフル銃を持っているはずです。今,付近のパトカーをそちらに向かわせていますから,私共にお任せ下さい」

「敵右折」と真田。

「まずいな」と、坊谷。「この先にはかなり長いトンネルがある。そこに入られると、レイヤが標的を見失う可能性がありますね」

「止むを得ませんな」と、鈴木刑事、真田とつなぎ放しの電話に向かう。「真田さん、大変危険なことで、申し訳ありませんが、連中を止めて頂けませんか。危ないと思ったら、すぐに中止して頂いて結構ですから」

「アイアイサー」と、真田、一気に加速してT103の前方に回り急ブレーキをかける。T103は軽くブレーキをかけただけで、すぐに車線変更し、真田の横を追い抜いていく。

「こいつ、相当な腕です」と真田。

真田は気がつかないが、T103の車内では,助手席の男と後部座席の男、それぞれライフル銃を取り出して射撃の準備を始めている。

T103は一段と加速、速度は恐らく二百キロを超えているが、真田はこれにぴったりついて離れない。

「危ないな」と鈴木刑事。

「真田さん、少し離れてください」と、これをみた坊谷が言う。「まもなくトンネルに入り、衛星の監視ができなくなります。真田さんに追いつづけて頂ければ、トンネルを出てから、再びキャッチできますので」

「了解」

真田がブレーキをかけると、車間はみるみる広がっていく。その直後、T103、ふらふらと右に寄り、中央分離帯の路肩に乗り上げる。時速二百キロ以上の高速で走行していた車は、瞬時に宙に舞い、回転しながらトンネル上の壁に激突、一瞬、壁に貼り付いたかにみえるが、白煙を炎に変えながら、ずるずると滑り落ちてくる。

「うわっ」と、真田。「T103、事故りました。乗員、ちょっと助かりそうにありません」

道路上に落下するT103の残骸の手前で、真田、辛くも車を止める。車の残骸からは、激しく炎が噴き出し、もうもうと黒煙が上がる。真田、後ろが開いているのを幸い、、車をバックさせ、熱気と黒煙を避ける。ここまで来れば安全と、真田が車を止めると、その左側に、英二の車も止まる。

「なんだ、おまえも来てたのか」と真田。

真田の顔を見て、無言で敬礼する英二、再び前を向くと、炎上するKXの残骸を厳しい表情でみつめる。

消防車とパトカーがすぐに到着、短い消火作業に引き続き、現場検証が始まる。事故車の、三名の乗員全員の死亡が確認され、遺体が運び出される。現場検証は多数の警察官を動員した念入りなもので、道路を遮断したまま一時間近くにわたって続けられた。その結果、車の残骸の中から、ライフル銃二丁とピストル三丁が発見される。

後のテストで、事故車に残されたライフル銃は総理護衛車を狙撃したものと確認され、T103は狙撃犯と断定される。死亡した犯人たちの身元は割り出せていないが、銃器の準備に加えて、盗難車を改造していること、所持していた免許証も偽造品であることなどから、大掛かりな組織がその背後にあると考えられる。


総理と五条理事長は、結局、翌日の夕刻まで病院に入院、各種検査を受けたが、幸い、二人の体調は良好で、見付かった異常も普段の健康診断と同じ結果とのこと。病室には、入れ替り立ち代り刑事が訪ね、事情聴取が繰り返されたが、犯人たちの正体はおろか、事件の背景を探るヒントも掴めなかったという。


料亭の一室、石黒と赤堀が酒を酌み交わしている。

石黒が厳しい口調で言う。

「法は国家そのもの、軍規は軍そのものだ。わかるか?」

「形式に拘るのは愚かな事だ。崇高な目的があり、我等の心がある。それで充分ではないかね」

「それは野獣の生き様だ。形もまた、守られなくてはならない。君等には美学はないのか」

「私の美学は、滅びの美学だよ」

「そういうつまらんもんのために、若い者たちを、犠牲にしてもらいたくはないんだよ」

議論は平行線をたどる。傍目には、喧嘩が始まりそうな厳しい雰囲気ではあるが、いつまでも穏やかに酒を酌み交わすところをみると、二人の間は、立場の差を越えた、友情で結ばれているようだ。

やがて、お互いに相手の説得を諦め、会談のトーンは一転穏やかになる。

「どこで隔たってしまったんだろうな、我々の道は」と、赤堀。「君が中国のスパイを捕まえたのが、昨日のようだよ」

「あれは、最初の巨大並列マシンができたときだからね。我々の研究が、一大転機を迎えたときだったな」

「あの時から、君の入隊と、暗号解読の成功にロボット軍団の結成と、我々の黄金時代が始まったんじゃないか」

良き時代を思い出してさめざめと泣き出す赤堀を前に、石黒、静かに杯を口に運ぶ。


第1章 千手
第2章 出会い
第3章 人工知性体
第4章 レイヤの誕生
第5章 レイヤの復活
第6章 レイヤの追跡
第7章 レイヤの篭城
第8章 レイヤの時代