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クックマートと親鸞の「大地」

倉本圭造氏の9/12付けアゴラ記事「普通の"倍"も売り上げるローカルスーパーの経営論 vs. テスラ的合理性(後編)」へのコメントです。


これは面白いですね。クックマートの『魔境』は、親鸞が流配先の越後の地で出会った『大地』に相当するものなのでしょう。鈴木大拙師は彼の著「日本的霊性」の中で親鸞の歎異抄を紹介しつつ次のように述べます。

この教文でうかがい知られることは、第一に親鸞の宗旨の具象的根拠は大地に在ることである。大地というのは田舎の義、百姓農夫の義、知恵分別に対照する義、起きるも仆(たお)れるも悉くここにおいてするの義である。……
時代の背景を想像して、常陸地方からはるばる上京して来た田舎の人々を考えて見ると、親鸞と彼らとの関係が決して概念的・形而上学的・言語文字的なものではないということが看取せられる。かれらのつながりは大地的であったのである。
「南都北嶺の学者たち」のあいだでは見られなかったものがここに在ると言わなければならぬ。親鸞が京都を離れる機縁を失っていたなら、こんなにまで彼の心は大地に食い込まなかったであろう。

「概念的・形而上学的・言語文字的なもの」とは「南都北嶺の学者たち」が扱う仏教理論なのでしょうが、親鸞が田舎の地で見出したものは「知恵分別に対照する義、起きるも仆(たお)れるも悉くここにおいてするの義」、つまりは『生き方そのもの』であり、これが田舎の人びとの心をとらえ新しい仏教の興隆に繋がっていった、ということでしょう。

このような論理以前、言語化以前の価値は、パーシグが「禅とオートバイ修理技術(上)」の中でこだわった「クオリティ」に通ずるもので、つまりは「禅=日本的ものの考え方(大拙師の言う『霊性』)」に繋がっているわけですね。そういえば、QCサークルのQは「クオリティ」のQでした。たしかにこのあたりに日本の未来はある、まだまだ救いはある、ということであるのかもしれません。

1 thoughts on “クックマートと親鸞の「大地」

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