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「言葉ありき」と語用論的前提

長谷川良氏の2/4付けアゴラ記事「『口から出るものが人を汚す』時代」へのコメントです。


「はじめに言葉ありき」は、今日の論理学でいう「語用論的前提」です。言葉がなければ、あらゆる言説は意味を失いますから。同じ意味で「われあり」も語用論的前提なのですね。

まあ、聖書などを書こうというのであれば、言葉がなくては始まりませんけど、人は言葉がなくてもいろいろと感じ取ることができる。そうしている限りでは、言葉は前提にはならない。「われあり」で充分です。

ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」も、最初の部分で「世界は成立している事柄の総体である」と語り、「論理空間の中にある諸事実、それが世界である」とするのですね。この論理空間、もちろん言語により規定されておりますから、こちらも「言葉ありき」が前提です。

今日では、ヴィトゲンシュタイン流の世界だけがすべてではないとする見方が主流だとは思います。言語化以前の知性も大事だということですね。でも、それにしてもなお、旧約聖書を書いた人たちの洞察力にはシャッポを脱ぐしかありません。