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知性を知らずに知性と言うな

アゴラ編集部の4/3付けアゴラ記事「川勝知事が職業差別発言で電撃辞職:JR東海の株価は急騰:退職金はまたもらうの?」へのコメントです。


この方、「知性」の意味を分かっておられるのでしょうか。「理性」か「知識」と混同されているような印象を受けるのですが、大丈夫でしょうか。つまり、普通に「知性」といえば、それはカントの言う「悟性(独:Verstand、英:Understanding)」を含む概念なのですね。それどころか、最近の訳(1234567)ではVerstandを「知性」とするものさえある。

この「悟性」、養老孟司著「バカのものさし」によれば、「わかるというのは、もともと自分の中にわかるだけのものが、ループのくり返しによりでき上っていて、それを外から説明されるから、わかるんだ」というわけで、理屈を覚えるのではなく、予め経験を通しておぼろげに把握していることに、説明が与えられて「わかる」ということ。その機能が「悟性」なのですね。

鈴木大拙師は「日本的霊性」の中で、越後に流配された親鸞が「大地」という概念を掴み取り、それが彼の教義の礎になったと指摘します。鈴木大拙師は、同書の中で次のように書きます。頭で読んでは、わからないかもしれませんが、悟性の目覚めがここにあります。

この教文でうかがい知られることは、第一に親鸞の宗旨の具象的根拠は大地に在ることである。大地というのは田舎の義、百姓農夫の義、知恵分別に対照する義、起きるも仆(たお)れるも悉くここにおいてするの義である。……

時代の背景を想像して、常陸地方からはるばる上京して来た田舎の人々を考えて見ると、親鸞と彼らとの関係が決して概念的・形而上学的・言語文字的なものではないということが看取せられる。かれらのつながりは大地的であったのである。
「南都北嶺の学者たち」のあいだでは見られなかったものがここに在ると言わなければならぬ。親鸞が京都を離れる機縁を失っていたなら、こんなにまで彼の心は大地に食い込まなかったであろう。

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