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卑弥呼の時代は面白い

宮本暢彦氏の7/8付けアゴラ記事「纏向は崇神に連なる欠史八代の故地である」へのコメントです。


一般にクニの規模に対する認識は過剰である。クニは郡より小さく、倭人伝にいう倭の30ヶ国は北部九州とその周辺地だけで十分収まるはずである。

倭人伝の方位や距離を厳密に議論しようとする人は多いのだけど、戸数の扱いはかなりおろそかになっているのですね。邪馬台国に至るまでの戸数(奴国までが3万戸、投馬5万戸、邪馬台国7万戸)合計15万戸は、修辞的数値ではありますが、オーダー的にはさほど狂っていないはず。一戸あたり5人とすると、トータルで75万人。当時の日本全土の人口として推定されております100~120万人の、過半数を占めるのですね。

そうなりますと、これを九州に納めることは難しい。邪馬台国の版図も、大和盆地に納めることは難しい。邪馬台国として、丹波、大和を含む近畿一帯、美濃、駿河あたりまでの領域を想定せざるを得ない。

これを満足する卑弥呼の時代の大和王としてあり得るのは、尾張氏の祖、丹波の海人が美濃東海へと支配範囲を広げ、大和に進出して、当時大和王家であった葛木氏との婚姻関係を通じて大和王を兼任したと考えるのが妥当ではないでしょうか。その背景には、軍事的緊張関係があったのでしょうが。

じつは、垂仁天皇と開化天皇が同じ人物で、開化時代に存在したとすると、記紀と魏志倭人伝の人物名に非常な類似が認められるのですね。つまり、イクメイリヒコ=伊支馬、ミマキイリヒコ=彌馬獲支、田道間守=都市牛利(「都市牟利」の誤記)というわけ。この一致の度合いは、普通ではありません。

1 thoughts on “卑弥呼の時代は面白い

  1. Mitsunori mi.mino

    最近ハラリ氏の著著作にはまっている

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