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あたり前を語るという異常さ

音喜多氏のBLOGOSエントリーへのコメントと、この元になりました津川氏のBLOGOSエントリーへのコメントに関連して、表題のポイントについて解説いたします。


実はすごく古いBLOGOSエントリーへもコメント(「旧コメント欄」をご覧ください)したのですが、あたり前を大真面目に語るということは、それなりに異常なことなのですね。この部分を以下に引用しましょう。

筒井康隆氏が書いた、精神病棟に入院しているある患者の話を彷彿させます。 この人、近所の人を自宅に集め、「このひもを引っ張ると電気が消えます」と天井の照明から下がっている紐を引いてみせたのですね。で、これを見た家人が、すぐに当人を病院に連れ込んだ、と、、、 あたりまえのことを改めて語る、という行為そのものがおかしいと思われることもあるのですね。

実は、津川氏のBLOGOSエントリーコメントした理由は、そこに適切ではないものを感じたからでして、きちんと読めばおかしくはないのだが、なんとなく変な感じがする。

この「変な感じ」というのは実は研究者にとって欠かせないセンスの一つで、こういう感じがする場合は何らかの問題が眼前にあることを意味する。その問題を無意識のうちに感じ取るから、これが「変な感じ」として意識に現れてくるのですね。

で、津川氏の未査読論文の問題は、「コロナ感染者とGoTo利用者の間に相関関係があることがわかった」と主張するもので、その可能性の一つとして「GoToの利用がコロナ感染の原因である」点をあげております。

一般に、二つの事象間に共通の原因がある場合には、因果関係はないが相関関係がある状態が作られます。今回のケースでは、外出性向の高い人は、コロナ感染のリスクが高いはずだし、GoToの利用頻度も高いであろうと予想され、共通原因があり得るのですね。むしろ、そうであることは当然ともいえ、双方に相関関係が認められることは「あたり前」だといえるわけです。

このようなことは、論文執筆以前の実験計画を立てる時点であらかじめ予想し、この可能性が排除できるように実験計画を立てなくてはいけない。逆に言えば、そのくらいのことは配慮したうえで実験が行われ、論文が書かれているのだと、普通の読者は予想してしまうのですね。

こういう予想の元に論文を読む態度は、「寛容の原則」として一般に推奨されていることでもあります。つまり、論文を読む際には、これを書いた人物はそれが意味のあるものであると考えて書いているのであり、著者の意図を最大限くみ取るように読まなくてはいけない、という原則があるのですね。

でも、そういう態度で論文を読んでも、経験を積んだ研究者は「変な感じ」をいだく場合がある。そういう時に、改めて論旨を見直すと、おかしな点に気付くわけです。

で、今回の津川論文の場合は、「あたり前のことを語っているだけだ」という点がおかしい。そこにアンフェアな要素があるとすれば、この相関関係を生じさせる「共通の原因に関する言及」が欠如している点なのですね。

つまり、人による外出性向のばらつきが共通の原因になるということが書かれていれば、この相関関係は生じてあたり前であり、この論文自体、あまり意味がないということになる。

これを悪くとれば、そうであるから津川氏はこの点に言及しなかったのであり、これは読者を欺く行為であるともいえるわけです。まあ、これに気が付かずに騙されるのが愚かである、ともいえるのですが。

今回の野党議員は、これに見事にひっかかったわけで、これはこれでお恥ずかしい話ではあるのですが、津川氏の論文にも少々難があるわけで、ここは、喧嘩両成敗みたいな評価を下すのが妥当ではないかと思った次第です。

1 thought on “あたり前を語るという異常さ

  1. mi.mino

    >>そこにアンフェアな要素があるとすれば、この相関関係を生じさせる「共通の原因に関する言及」が欠如している点なのですね。
    そうですね。

    返信

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