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「哲学05:心/脳の哲学」を読む

以前のこのブログで「岩波講座 哲学 05 心/脳の哲学」の前半部分についてご紹介いたしましたが、本日は後半部分をご紹介することといたします。

同書の構成

同書の構成は、大別して次のようになっております。

展望 心身問題の現在
I 心身問題の起源と展開
II 心身問題の諸相
探求 心/脳の哲学の未来
概念と方法
テクストからの展望

このうち、展望とIの部分につきましては前回ご紹介いたしましたので、今回はIIを中心にご紹介することといたしましょう。

心身問題の諸相

IIの章立てと内容概略は以下のとおりです。

1.感覚・知覚・行動(長滝祥司):田谷の定義「体の内外の環境変化によって即時的に引き起こされる意識内容が感覚で、意識された内容が過去の経験や学習にもとづいて意味のあるものとして解釈される場合が知覚である」といった考えを紹介し、知覚はデカルト流の意識が介在していること、感覚はデカルト以前の認識論(意識が介在しない、実世界に存在する身体現象としての認識論)に対応しているものであるといたします。

しかし、デカルトの知覚は、二元論として後の現象学者によって批判されるとして、長滝氏は次のように述べます。

デカルト流の二元論では身体は認識主観とは別の次元に属する単なる事物として扱われていたが、身体自体に認識する能力を認めたところに現象学者たちの特徴がある。結果、かれらの認識モデルはスタティックなものではなく、ダイナミックなものになる。……「私の身体はじぶんの世界を了解するのに〔明示的〕表象を経過する必要がない」と述べられている。こうした記述からうかがえるのは、メルロ・ポンティが知覚と身体行動の結びつきを強調するにあたり、意識やデカルト流の明示的表象を知覚から排除しようとしていたということである。

長滝氏は、ポンティの身体の現象学を、「後期フッサールのキネステーゼ論や、その影響を受けて展開された身体の現象学(メルロ・ポンティ)の観点から見れば」として、現象学の主流とみなしております。確かにそのような見方も成り立つのでしょう。つまりは、メルロ・ポンティをフッサール現象学の後継者であるとする考え方です。

しかしながら、「身体の現象学」は脳科学的アプローチと重なってまいります。そして、このような科学的なアプローチは、外界を捨象してコギト(主観ないし自らの意識)に礎を置いて哲学を築こうとしたフッサールの初心とは、まったく逆のアプローチであるように私には思われます。

デカルトの心身二元論を批判するとすれば、松果体の中の心が身体に影響を与えているとする、デカルトの一元論的解釈こそが問題なのであって、認識がスタティックであるのかダイナミックであるのかは、私に言わせれば些細な問題です。

フッサールの解

この問題に対するフッサールの解は、主体を捨象して外界を記述する自然科学的アプローチとは別に外界を捨象して主体の側から記述する現象学的アプローチを打ち立てたことであり、二つのアプローチを並立させたことにある、と私は理解しております。

もちろん、フッサールの哲学もさまざまな事柄を扱っており、何をもってフッサール現象学の根幹であると考えるかは、後世の人たちの判断に委ねられはするのでしょう。しかし、世界理解に二つのアプローチを並立させる考え方こそ、心身問題の真の解であり現象学の最大の功績である、と私は強く思う次第です。

なにぶん、人が外界を解釈する際に、自然科学が最も頼りになるといたしましても、自然科学は人による自然界の理解であり、その行為自体は自然科学の範囲外です。人による自然界の理解は、人の精神内部の作用であって主観の中に特定の概念を形成する行為です。

(その概念は、社会に共有されることによって真実と認められるのでして、そこには別の形の精神的作用が存在するのですが、これにつきましては以前のこのブログでも議論いたしましたので、ここでは省略いたしましょう。)

もちろん、人が外界に概念を見出し法則性を発見するというその行為そのものも、外界における自然現象の一つであって、自然科学の観点から解釈すれば脳の中のニューラルネットワークにおける情報処理に対応付けられるでしょう。

しかし、ニューラルネットワークの自然現象はあくまで「観察される対象としての自然現象」なのであって、考えている当人は自然現象であるとは思っておらず、まさに今意識している問題について考えているわけです。自然現象としての脳の機能は、単にインパルスが飛び交っているだけであり、概念や法則に対応するニューロンの興奮状態のパターンがあるだけであって、概念そのものはあくまで(考える主体としての)人の精神的働きの内部にのみ存在いたします。

同様な関係は、漫画が物語であると同時に紙の上のインクであるという関係にも見出すことができます。また、コンピュータプログラミングの世界では、オブジェクト指向プログラミングにおけるオブジェクト(変数など、プログラムの構成要素)が、主記憶上の領域であると同時に意味を持つデータのまとまりであるという関係にも見出すことができます。

これらの二元論は、外界の実在としての理解と、精神的主体による解釈としての理解の二元論なのであって、同一物が複数の論理世界に属するが故の二元論ということになります。漫画に表現された物語やコンピュータプログラミングにおけるオブジェクトの意味は、それが人の精神に取り込まれてはじめて生じるのであって、外界の実在としては、単なる紙の上のインクであり、主記憶上の特定のアドレス領域である以上の意味はもちません。

さらには、紙といいインクといい、主記憶、アドレス領域といい、これらはすべて人の精神内部の概念であり、外界の実在そのものはただそこにあるだけの存在。それ自体では名もなく意味もなく価値もない、しかし確固とした存在あることにも注意しておきましょう。

これらの概念と物語オブジェクトの意味との違いは、外界の実在との対応関係の程度であって「あらゆる概念は実在しない」ともいえます。しかしそういっただけでは哲学とはなり得ず、精神内部に二つの論理世界を並立させることこそが哲学的に重要なポイントです。

イナクティヴ・アプローチ

さて、私の考えを長々と語ってしまいましたが、長滝氏の説のご紹介に戻ることといたしましょう。

ポンティの「身体の現象学」は、ノエらの「イナクティヴ・アプローチ」に引き継がれます。このアプローチは長滝氏によりますと、以下のとおりです。

このアプローチの特徴のひとつは、「知覚が脳内のプロセスであり、知覚システムはそのプロセスによって世界についての表象を構築する」という考えを拒否することにある。かれらは、世界にかんする写真のような内的表象など知覚には必要ないという。こうした表象拒否の姿勢は、ギブソンやメルロ・ポンティの立場と重なる。知覚経験は行動によって生み出されるものであり、世界は知覚者の行動と両者の相互作用によって知覚可能となる。また知覚は、知覚主体の身体全体による巧みな行動である。

しかしながら、このような主張はクラーク、ハンフリーらによって批判され、脳科学研究の成果によってもこの批判の正当性は裏付けられております。ハンフリーの批判を長滝氏は以下のように記します。

ほとんど無意識的なレベルで行動と一体となって生じる知覚と、行動も関与するとはいえ、意識が介入できる知覚という二つの層があり、ノエやオリーガンの知覚行動理論は知覚のそうした二重性を捕らえ切れていないのではないか。これが批判の骨子である。

私が思うには、このような議論は脳の精神的機能に関する自然科学の議論であって、それを自然科学の対象として探るのか、意識の側から探るのかが、脳科学と哲学の差にすぎません。これらいずれのアプローチも自然科学と同じ論理世界に属するものであり、このような議論では心身問題に対する解は得られないだろうと私は考えます。ポンティは現象学を自然科学にしてしまった、本当の意味での現象学が忘れ去られてしまった、というのが私の偽らざる気持ちです。

その他の章

さて、この章の記述で少々書きすぎてしまいました。残りの章は簡単に済ませることといたしましょう。

2.言語による思考の臨界(信原幸弘):この章では言語を扱います。私が思いますには、言語というテーマは哲学で語るには少々重過ぎるテーマです。もちろん、脳内での言語の処理がどのように行われているかという観点でなら、語りやすいのですが、それでは心身問題の解にはなりえません。

クオリアにつきましては、以前もこのブログで議論したのですが、中途半端な概念であり、感覚的議論の域を出ていないように私には思われます。これにつきましては、前章での議論で語りつくされているように思われます。

3.機能する感情・幻想する感情(柴田正良):この章の面白いところは、感情は知能の働きには欠かすことができないというもので、思考を打ち切る作用に価値を認めています。感情と知性の関係については、私も以前考えたことがありまして、このブログのトップページにリンクをおきました実験的小説レイヤ7第4章で議論しております。つまり、感情は知性に方向性とエネルギーを与えるものである、ということなのですね。

4.心・脳・機械(石原孝二):この章では、最新の画像診断技術による脳内現象の観察と、脳と機械を接続する技術について解説がなされます。また、ハードウエアによる脳の置き換えについて議論がなされるのですが、脳のすべてをハードウエアに置き換えたとき、それは人といえるのだろうか、という疑問が提示され、これを人とみなす考えは少ない、と同書は述べます。

私の考え方は、すべてがハードウエアであろうとも、人の脳と同じ働きをするならそれは知的存在であり、仮に出発点が人でなかったところで、結果的に生まれるハードウエアが人の脳と同様の機能を有するならば、それは人となんら変わらない精神的な存在となるであろう、というものです。

なにぶん、人の脳にはなんら超自然的現象は見出されておらず、人の脳の働きは自然現象に過ぎません。そして、自然を人が模倣することも、原理的には不可能ではありません。もっとも、簡単な計算でも、現在の半導体技術では、人の脳と同じ機能を持つハードウエアを経済的に作り出すことは困難であって、これが可能となるのはおそらく2~30年後であろう、というのが私の予想です。このあたりの計算も、上にご紹介いたしましたレイヤ7では議論いたしましたので、ご興味のある方はご参照ください。

さて、そろそろ楽天ブログの文字数制限となるのではないかと思います。余裕があるようでしたら、後ほど少々書き足しますが、およそこの部分で私が述べたいことは書き尽くしたように思います。同書の内容のご紹介は不十分かもしれませんが、ご興味のある方は原著をご参照ください。それほど難しくもなく、読みやすい本ではあると思います。