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邪馬台国の人々

前回は二代目女王まで考察いたしましたので、今回はその他の人々について考えてみることといたしましょう。

三国志と魏志倭人伝

その前に訂正です。前回「正確には『三国志東夷伝倭人条』」と書きましたのは正確ではなく「三国志魏書30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条」が正確な書名です。これを何ゆえに「魏志倭人伝」と呼ぶのか良くわからないのですが、あるいは岩波文庫の書名に基づくものであるかもしれません。weblioでは「魏書東夷伝倭人条」が正式な呼び名であるとしておりますが、これも果たして正しいものであるのか判断できません。ここでは陳寿が書きました書物全体の名前から「三国志」と呼ぶことといたしましょう。なお、一般に「三国志」と呼ばれております「三国志演義」は、明代に書かれました事実に基づくフィクションで、陳寿の書きました歴史書であります「三国志」とは異なる書物ですのでお間違いのないようにお願いいたします。

官と副

さて、三国志倭人条に出てまいります人名ですが、まず、邪馬台国にいたる間の国々の官の名前は次のようになっております。

對馬國:官が卑狗、副が卑奴母離
一大國:官が卑狗、副が卑奴母離
末盧國:官名記載なし
伊都國:官が爾支、副が泄謨觚と柄渠觚
奴國:官が[凹/儿]馬觚、副が卑奴母離
不彌國:官が多模、副が卑奴母離
投馬國:官が彌彌、副が彌彌那利
邪馬壹國:官が伊支馬、次が彌馬升、次が彌馬獲支、次が奴佳[革是]

対馬と壱岐の官はまったく同じで官が卑狗、副が卑奴母離となっております。卑狗(ヒク)はおそらくは(ヒコ)で、「大将」程度の意味合いでしょうか。そして卑奴母離(ヒヌモリ)は前回も書きましたように鄙守(ヒナモリ)で、同じ名前の官が各国に見られますことから、彼らは卑弥呼政府から派遣された地方行政官の可能性が高いものと思われます。鄙守がおります国といたしまして、対馬と壱岐の他に、奴國と不彌國があります。これらに鄙守がいるということは、卑弥呼政府の監視下にある国々と考えられ、もしそうであれば、これらの国々は卑弥呼共立以前にあったとされております倭国大乱で卑弥呼政府に対立した、江戸時代の外様大名のような国々ということになります。

鄙守不在の国が伊都國、投馬國、邪馬壹國の三カ国です。以前お話したように伊都国が卑弥呼政府の直轄地となっているといたしますと鄙守は必要なく、官名との整合性が取れます。「爾支(ネキ)」は今日の神職であります「禰宜(ネギ)」に音が極めて近く、あるいは巫女的人物が官として扱われていたのかもしれません。「泄謨觚」はシマコとも読め、奴国の官の「[凹/儿]馬觚(シマコ)」と同じ役職を示しているように思われます。考古学的事実といたしまして伊都は北九州においては奴国に次ぐ大国でした。これら大国にあります「シマコ」は、税や物流管理などの経済的側面を担う文官であるのかもしれません。

(2017.1.21追記:シマコは、もしかすると外交官的人物であるのかもしれません。同様な人物に、垂仁天皇(実は開化天皇と考えています)に仕えたとされる「タジマモリ」がいるのですが、その意味は「丹波の島守:タニハノシマモリ」であり、この人物が外交官的働きをしていることから、「シマモリ」が外交官を指す役職ではないかと考えているのですね。「シマモリ」と「シマコ」は音も近いことから、同じものを指しているかもしれません。伊都国と奴国は、いずれも半島交易をおこなう国であり、両国に外交官的人物がいてもおかしくはありません。また、ナの島守である「ナシマモリ」は、後に書きますように、卑弥呼の外交に重要な役割を果たしていたとも考えられ、そうであれば、経済を中心とする定例外交を担う伊都国の島守と、朝貢などの特例的外交を担う奴国の島守、という役割分担ができていたこととなります。)

柄渠觚はヒココとも発音されるのですが、これは対馬や壱岐と同じ「(ヒコ)」であるかもしれません。「彦」の意味ですが、崇神の時代に活躍した武人「大彦」から、軍事的役割に対応した名前と考えるのが妥当でしょう。この場合、鄙守も軍事的色彩が強く、壱岐・対馬は軍事的色合いの強い国ということになります。そしてその後背地であります伊都国にも彦がおりますことは合理的であるように思われます。

投馬の官「彌彌(ミミ)」は古代の尊称で、「殿」なり「殿下」のような意味合いと思われ、投馬国(吉備と推定)の王に相当する人物と推定されます。副の「彌彌那利(ミミナリ)」が何であるかは不明ですが、王子のような存在ではなかろうか、と私は考えております。記紀に現れた吉備の人物といたしましては「吉備津彦」が目立つ存在であり、これを結びつける根拠は何もないのですが、ミミあるいはミミナリは吉備津彦であったのかもしれません。(2017.1.21追記:ミミが吉備津彦なら、ミミナリは若日子建吉備津日子命である可能性が高いでしょう。のちに述べますことが正しければ、この二人は別の形で三国志に登場することとなります。)

倭奴國の自稱大夫と倭國王帥升

邪馬壹國の官につきましては前にご紹介しましたので省略し、次は朝貢を行った人たちです。

まず、後漢書によりますと建武中元二年(西暦57年)に「倭奴國」の「自稱大夫」が朝貢しております。「大夫」は土地持ちの貴族であり「領主」的な意味合いと思われ、奴国の王を意味するのではなかろうかと考えております。奴国の王は倭国の王とは区別され、「倭國之極南界」にある「倭奴國」が朝貢を行ったという形となっております。次にその50年後の安帝永初元年(西暦107年)に、「倭國王帥升」らが朝貢いたします。「帥升」は「スイショウ」の読みがあてられていますが、これがどのような人物であるかは皆目見当もつきません。

この二つの朝貢が50年という短い期間を隔てて行われていることから、同じ国が行ったのではなかろうかと私は考えております。最初の「倭奴國」は、倭国の極南界という記述から、後の奴国とみなすのが妥当です。50年後の朝貢も奴国が行ったといたしますと、この間に奴国王は「倭國王」と呼ばれるに至ったことになります。この間に一体何が起こったか、これが一つの謎、と言うことになります。これに付きまして、ちょっと考えてみることといたしましょう。

古代出雲王国からの国譲り

まず、最初奴国は倭国の極南界の国であったわけですから、倭国はここから北に向かって広がっていなければいけません。この倭国が後の卑弥呼の倭国と同じものであるのか否かが一つの問題となるのですが、私はこれら二つの倭国は異なると考えております。なにぶん、卑弥呼の倭国は卑弥呼の共立により成立しておりますので。

卑弥呼以前にわが国の広い領域を押さえていたのは、いわゆる古代出雲王国であり、新潟県から九州、瀬戸内海にいたる広い領域に出雲文化の影響が認められております。奴国が古代出雲王国を支える一国であり、南端にあって半島交易を担う存在であったといたしますと、中国サイドの文献記述と整合いたします。

出雲の存在が中国文献に現れていないことはもう一つの謎なのですが、出雲の半島交易の相手は漢民族ではなく(扶余などの)北方民族であったのではなかろうか、という仮説を考えております。当時の半島情勢は、北方民族と漢民族が激しい勢力争いを行っており、徐々に漢民族が優勢となる時期に相当いたします。これに合わせて倭国も交易相手を北方民族から漢民族に切替える、これが1世紀に行われたのではないか、と考えているのですね。

(2017.1.21追記:当時の半島情勢は、南部に三韓と呼ばれる領域があり、北部は北方民族である扶余・高句麗と漢民族が覇を競い合っておりました。三韓は、文化風習の違いにより、西から馬韓、弁韓、辰韓の三領域に分かれ、それぞれが後の百済、任那、新羅に繋がっていきます。

卑弥呼の時代の三韓は、小国が乱立する状況で中央の支配は及んでいなかったのですが、中国サイドからは倭人の領域とみなされ、この地の海賊たちもひっくるめて倭寇と呼んでおりました。新羅の古い歴史は、信頼性に乏しいのですが、第四代の新羅国王はタバナ(丹波)出身のタルヘ(武?)とされており、古くは古代出雲王国とのつながりもあったものと考えられます。)

奴国王が倭国王になるいきさつにつきましては、記紀の国譲り神話に対応しております。記紀の国譲り神話は、複雑ないきさつではあるのですが、つまるところでは、出雲を支配する大国主が領土の保全と神殿建造を条件に倭国の支配権を天孫族に譲ったとされております。この天孫族が奴国であったといたしますと、国譲り神話は「倭奴國王」が「倭國王」となりました経緯を説明していることになります。

当時の中国は冊封体制をとっており、朝貢によりこの秩序に組み込まれることが国家の安定と円滑な交易にとって重要でした。冊封体制の倭国側窓口が倭国王であり、倭国王と中国側に認められることで公式の交易を独占することが出来ます。奴国王は1世紀の後半にこの地位を手に入れ、これを後漢に認めさせるために107年の朝貢を行ったということではないでしょうか。

倭国大乱

しかしながら奴国のこの地位も倭国大乱によって失われてしまいます。即ち、倭国内に大規模な戦乱が発生した結果、後漢書に「桓靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」と書かれておりますように、後漢側からは倭国王は存在しないとみなされてしまいます。そして卑弥呼共立により再び倭国を代表する政府が誕生するのですが、奴国は鄙守がおかれる外様大名的な国となります。つまりは、倭国大乱においては奴国は敗戦国側となり、和睦により卑弥呼政府に属する一国家となります。

倭国大乱の時期を後漢書は「桓靈間」としており、西暦146年から189年の間にこの戦があったものとしております。三国志の記述では「其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年」となっており、男王が7~80年在位した後に倭国大乱が始まったとしております。西暦107年に倭國王帥升らが朝貢しておりますので、帥升がこれ以前から倭国王であったといたといたしますと住七八十年は「桓靈間」にぴったりなのですが、この直後に卑弥呼共立があったといたしますと247年以降と考えられます卑弥呼死去までの間が開きすぎます。桓帝・靈帝の治世は、世が乱れた時期の代名詞的存在であり、後漢書の「桓靈間」は修辞的な文言ではないかと思われます。

難升米と都市牛利

さて、卑弥呼共立後の景初二年(三年の誤記と考えられており、そうであれば西暦239年)六月に「大夫難升米」らが朝貢しております。私はこれが卑弥呼共立からさほど年を経ていない時期に行われたと考えております。とにもかくにも倭国が統一された以上は、中国側にあいさつしないわけにも参りませんから。このとき使節団のもう一人の人物として「都市牛利」の名が三国志には記されております。

難升米と都市牛利は一体どのような人物だったのでしょうか。実は景初二年は公孫氏討伐戦の年であり、公孫氏はこの戦で滅んでおります。この大混乱の中、帯方太守劉夏の助力を得て魏の都まで無事にたどり着き天子との面会をそつなくこなしておりますことから、この両名は当時のわが国における外交のプロであったものと思われます。

わが国における外交のプロと思しき人物に、垂仁紀に記述された田道間守(タジマモリ)があります。記紀によりますと、彼は、垂仁天皇の命を受けて非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世の国に渡り、見事これを持ち帰ったとされております。ここで非時香菓は橘、常世の国は海のかなたにあるとされた理想郷を意味するのですが、朝鮮半島なり中国なりと考えるのが現実的でしょう。

都市牛利は実はタジマモリであったのではないでしょうか。「牟」を「牛」と誤記する可能性もありますことから、「都市牛利(タシグリ)」は「都市牟利(タシムリ)」であることもないではありません。これならタジマモリであったところで何ら不思議はないのですね。

都市牛利がタジマモリであるといたしますと、難升米もこれに相当する名前であったのではなかろうかとの考えが浮かびます。丹波は、古くは出雲王国の東側の海運を司っており、半島交易にも携わっていたとすれば、外交官的能力に優れる人物が存在することもありえることです。そうであれば、出雲王国の西側の海運を司っていたと考えられる灘の国においても、同様な人物がいたことは十分にありえます。

その人物は「田庭の島守(タニハノシマモリ、略してタシマモリ)」に対応して「灘の島守(ナノシマモリ、略してナシマモリ)」と呼ばれていたことは十分にあり得、これを中国人が「難升米(ナシメ)」と聞き取ったのではないか、と私は考えているのですね。また、「大夫難升米」としておりますことから、奴国王自らが使節として朝貢したと私は考えております。(田庭は丹波の古い呼び名です。また古くは丹波・丹後・但馬のいわゆる三丹を合わせて丹波としておりました。)

伊聲耆率いる二度目の朝貢団

239年の難升米らの朝貢に魏の皇帝はいたく喜び、難升米に率善中郎將の位を都市牛利に率善校尉の位を贈り、卑弥呼への数々の贈り物を付けて倭国に帰します。

正始4年(西暦243年)に卑弥呼は再び朝貢の使者を送るのですが、このときの使者は「大夫伊聲耆、掖邪狗等八人」と大人数で、彼らは率善中郎將の位を得ております。伊聲耆はイゼキなりイゼリ、掖邪狗はダキヤク、ヤヤク、エキヤクなどと発音し、現代中国語ではイェシェコウと読みます。

伊聲耆は太夫とされておりますので,吉備などの王がこれに妥当するのですが、吉備津彦の本名であります彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト)に音が通じます。なにぶん、ヒコイサセリビコノミコトからヒコとミコトを除けば「イサセリ」ですから、「イゼリ」とほとんどの音が一致いたします。吉備津彦は四道将軍の一人であり、武渟川別命と共に出雲を成敗した旨が記紀に記されているほか、温羅伝説では温羅と戦う吉備側の指導者ですから、朝貢使節団を率いる人物として不足はありません。なお、掖邪狗につきましては、この記事の最後の部分で考察いたします。

この時期に何ゆえに8人もの朝貢使節団を送ったかは、一つの謎であるのですが、彼らが得た官位がその理由であるのかもしれません。即ち、卑弥呼政権が冊封体制を重視したといたしますと、魏から得た官位が政権内で重視されていた可能性があります。卑弥呼を共立したのは、吉備と尾張、そして大和の豪族であります葛城氏が中心的存在なのですが、外様であります奴国の王が高い官位を得てしまっては示しがつかないことになります。そこで、その他の卑弥呼政権の中枢にあります人物が大挙して魏に渡ったのではないか、というのが私の仮説です。ただし彼らが得たのは難升米と同じ率善中郎將の位でした。これは彼らにしてみればはなはだ不本意な結果だったのではないでしょうか。

狗奴國と温羅伝説

正始8年(西暦247年)には、倭国の使いであります載斯(サシ)・烏越(アエツ)の訴えを受けて、塞曹掾史張政らが倭国に派遣され、難升米に黄幢を授け告諭しております。このときは朝貢とは異なり、倭の使いは帯方郡の太守に面会しております。また、難升米が張政を迎えたのは、おそらくは伊都国であったのではないかと私は考えております。載斯(サシ)・烏越(アエツ)の正体は不明ですが、おそらくはさほどの高官でもなかったのでしょう。

このとき訴えましたのが、倭女王卑弥呼と狗奴國の男王「卑彌弓呼(ヒミクコ)」とが戦争状態にあるということでして、問題は何故にこれを帯方郡の太守などに訴え出たのかが謎です。狗奴国との戦に魏の戦力を期待するならともかく、倭国内の争いに魏の黄幢が役に立つ理由は何だったのでしょうか。

私はその理由として、卑弥呼政府と狗奴國との戦は単なる倭国内部の戦ではなかったのではないか、と考えております。卑弥呼を共立した有力国の一つに吉備があり、吉備に伝わります温羅伝説が狗奴国との戦いを伝えるものではなかろうか、と考えているわけです。温羅伝説の一方の立役者は吉備津彦ですから、時期的にも合致いたします。

温羅は、鬼とも称されますように、普通の倭人とは異なる存在でした。当時の半島情勢は苛烈な戦争を繰り広げておりました。その一方の勢力が、たとえば難民化した敗残兵として出雲にやってきて、これが中国山地を渡って吉備に攻め込んだのではなかろうか、と考えているわけです。

温羅の正体が半島の敗残兵であり、安住の値を求めて吉備に攻め入ったといたしますと、大和もうかうかとはしておれません。なにぶん、吉備には耕地は少なく、温羅が安住の地を求めるなら播磨から山城、大和の地へと進出する可能性も多分にありました。吉備に攻め込むためには、それ以前に津山付近を支配下に置いたはずですが、ここから姫路までは70kmほど。後の出雲街道に相当する交通路が古代からあったところで何の不思議もありません。卑弥呼政府がこの動きを重大視することも理にかなったことでしょう。

これが魏の側の勢力であるなら、魏の黄幢をみれば恭順するでしょうし、魏に敵対する勢力であれば恐れをなして逃げ出すかもしれません。つまりは、魏に敗れた人たちであるわけですから。また、敵対する相手が半島勢力であったといたしますと、これと戦うに際して塞曹掾史張政らの情報は有益なものであったでしょう。(温羅伝説を巡るいきさつにつきましては「狗奴国の人々」にも記述しています。)

邪馬台国で起こったこと

さて、三国志倭人条は正始8年(西暦247年)までの年号を記しているのですが、その後は年号の記述がありません。三国志倭人条の年号の記述は、中国側とのやり取りがあった場合に限られ、倭国の国内事情を記述した部分には年号の記述はありません。中国側とのやり取りにつきましては、最後の部分でイチの朝貢記事が記されているのですが、これにも年号の記述がありません。

実は、次の晋の時代の晋書四夷伝に「泰始初 遣使重譯入貢」なる記述があり、これは泰始2年(西暦266年)のことと考えられているのですが、これが三国志倭人条の最後の記述に対応しているといたしますと、この部分に年号の記述がないことの説明が付きます。晋の時代の年号など魏書には記述するわけにはいかない、と陳寿が考えることも無理はありませんので。

そうなりますと、年表風に倭国の出来事を順を追って記しますと、次のようになりそうです。

おそらくは239年の直前:卑弥呼の共立がなされて倭国大乱に終止符が打たれます。

239年:6月に難升米らが朝貢し、同年12月に詔書が出され、難升米らに官位が授けられます。

240年:帯方郡太守の弓遵が建忠校尉梯儁らを倭国に遣わし、倭王に面会しております。

243年:大夫伊聲耆、掖邪狗ら8名が朝貢します。この頃は比較的平穏であったと思われます。

247年:倭国の載斯・烏越が帯方郡太守に狗奴国との戦について訴え出ます。これを受けて塞曹掾史張政らを遣わし、難升米に黄幢を授け告諭いたします。

この後、年号の記述がないのですが、次のようなさまざまな事態が発生いたします。

aaa年:卑弥呼が死亡し「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」なる巨大な墳墓を建造いたします。

bbb年:男王が後を継ぐのですが、国中はこれを不服とし、千余人が死亡する内乱が勃発します。

ccc年:齢13歳のイチを王に立て、再び平安となります。張政はイチに「以檄告喩」いたします。

266年:イチが朝貢し、これに同行して張政は帰国いたします。

卑弥呼の死の時期とイチの朝貢

多くの人は、247年と卑弥呼の死を非常に近い時期に起こったとしているのですが、果たしてそうであったかどうかは非常に疑わしいと考えております。この理由は次のとおりです。

三国志倭人条の最後に記述されておりますイチの朝貢を266年といたしますと、これがイチの倭国王就任のあいさつを兼ねて行われた可能性が高く、イチの女王就任はこれに近い年(264年ごろか?)となります。張政がイチに告諭した年は不明ですが、イチの王位就任の直後であれば、張政の帰国まではさほどの間もないはずで、cccは266年の直前ということになります。更にcccはbbbの直後でなければならず、aaaからもさほどの年を隔ていないと思われることから、卑弥呼の死は260年代初頭と推定されます。

この推理は、イチの朝貢の年が記述されていないことが根拠であり、その理由が魏の時代の出来事ではないためであると考えてのものです。この推理を補強する材料としては、狗奴国との戦乱のさなかに巨大な墳墓を築いたり、千余人が死亡する内乱などやってはいられないはず、という事情もあります。

さて、このイチの朝貢は、「大夫率善中郎將掖邪狗」が20人の大部隊を引き連れての朝貢となります。243年の朝貢も8人と大人数を率いてのものだったのですが、今回はそれをはるかに上回る20人です。朝貢に参加することの意味(魏の位の価値?)が多くの人たちにわかってきた、ということでしょうか。

これを率います正使の「掖邪狗」は243年の朝貢の際の副使であり、その朝貢の際に率善中郎將の位を得ているのですね。前回の正使「伊聲耆」が吉備津彦であったといたしますと、「掖邪狗」はその後継者(若日子建吉備津日子命:ワカヒコタケキビツヒコノミコトか?)にあたるのかもしれません「掖邪狗」の最初の文字がワ音に対応する文字(挖など)の誤記であったりいたしますと、「ワガク」の音もありえ「ワカヒコ」に通じることになります。この場合、太夫を国王の意味であるといたしますと、この二度の朝貢の間に若日子建吉備津日子は吉備津彦から吉備の王位を譲られていることになります。

いずれにいたしましても、大陸との外交関係に付きまして、きちんとノウハウが引き継がれているさまがそこには読み取れる、興味深い記述であるといえるでしょう。

続きは「邪馬台国への東征」です。