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アリストテレスをdisる:ワインバーグ「科学の発見」を読む

本日は、ノーベル物理学賞を受賞した今を盛りの物理学者でありますスティーヴン・ワインバーグ著「科学の発見」を読むことといたしましょう。

ベストセラー

同書は、本年5月10日に出ました新しい書物ですが、アマゾンではベストセラー第1位となっております。結構分厚いハードカバーなのですが、お値段税別1,950円は、お買い得。といいますか、かなり売れると見込んでの値付けであるとお見受けしました。

西欧の人々が考える科学史は、たいていはヨーロッパ中心となるのですが、同書の優れた点は、ギリシャからアラブ社会を経てヨーロッパへと至る形に、今日の自然科学の発展を捉えております。西欧中心の考え方では、ギリシャからローマ、そして西欧という流れで捉えがちなのですが、その間にアラブを挟んでおりますことが、まことにフェアなものの考え方といえるでしょう。

アリストテレスは愚か者

でも、目が点になりますのが第三章の表題であります「アリストテレスは愚か者か?」です。たしかに、自然法則に「目的」などということを導入致しましたのは、あまり賢い考え方であるともいえないのですが、アリストテレスは「物理学者」というよりは自然学者という方が正しく(それどころか、哲学から社会学まで、ほとんどの学問領域をカバーしているのですが)、天体に関わる議論から生物に関わる議論までをカバーしております。生物学者として自然を議論すると、生物の各器官には固有の働きがあることから、自然は目的に適う形に振る舞うという原則を導入したくなるのも無理からぬことであり、物理現象にもこれを演繹するのも致し方ないことであったように思われます。

アリストテレスの考え方が西欧の自然科学に害悪を及ぼしたことは事実ではあります。ギリシャの思想は、長らく西欧社会で無視されていたのですが、神学大系を表しましたトマス・アクイナスがアリストテレスの学説を受け入れますと、これがヴァチカン公認の「標準理論」となります。その中に天動説が含まれており、これがガリレオの迫害につながる、黒い歴史が西欧にはあるのですね。

でも、地動説迫害は、アリストテレスに責任があるというよりは、100%当時の西欧社会、特にヴァチカンの責任であるといえるでしょう。ここで、アリストテレスの学説の問題点をあげつらってどうなるものでもありません。何分、アリストテレスは紀元前4世紀の人。2千年も昔の物理学者の学説に問題点があることぐらいあたり前の話であり、これほどの昔に日食や月食のメカニズム(太陽と月と地球の関係によって生じるということ)を知っていたことがむしろ驚きであるように私には思われます。

科学は発見されたのか

さて、同書は、最初の表題「はじめに 本書は不遜な歴史書だ」からして挑発的です。

この章で、ワインバーグはまず「発明」ではなく「発見」を表題とした理由について説明いたします。同書の原題は"TO EXPLAIN THE WORLD / The Discovery of Modern Science"となっており、日本語版はこの副題を書名としているのですね。さまざまな理論を人が作り出したなら、これは「発明」と呼ぶにふさわしい。でも、自然界にもともと存在する法則を人が見出したのであれば、それは発見である、というわけです。

また、原書主題の「EXPLAIN(説明する)」も問題のある用語であると認めます。これは、メルローポンチなどが主張するように、人にできることは説明することではなく記述することである、といった哲学的な考え方を反映してのものでしょう。

このあたりのワインバーグの基本思想は、カントが否定した「人はモノ自体を知りえる」との考え方に立脚しているように思われます。人の眼前にはモノの世界、外的世界、あるいはフッサール以前の古い意味での「客観(オブジェクト)」が厳として存在し、かつ人はそれを知りえる、との考え方によるのでしょう。これは「自然主義」と呼ばれる考え方であり、今日の科学哲学者の多くもこの立場に立っております。

しかしながら、人が知りえるのは、感覚器官のこちら側、すなわち認識された世界であり、感覚器官の向こう側がどうなっているかは推測するしかありません。その推測は、言語なり数式で表された概念によって行われ、これらは人間精神の創造物であってモノ自体にこれらの概念が備わっているわけではないのですね。

数学と物理学

ワインバーグは、数学と物理学を分けて扱っております。数学は、概念的知識であり、物理学は物自体の世界を扱っている、というわけですね。たしかに、物理学はモノの挙動に対応しており、数学はより抽象的な概念です。でも、物理学にしたところで、その法則自体は、個々のモノを離れた抽象的なモノの性質を叙述しているのであり、そういう意味では、程度の差こそあれ、数学と基本的に異なる立場にあるわけではありません。ギリシャ時代には真実よりも「美しさ」を追い求めたという批判は、たしかにその通りではあるのですが、今日の法則にも「美しさ」は求められております。簡素な法則で複雑な現象を記述することが物理学の意義であるともいえるのですね。

もちろん、今日の物理学は、ギリシャ時代に比べれば非常に進歩していますし、自然現象を精度良く記述することが可能となっております。でもこの間の二千年以上の時間の経過を考えれば、この様な進歩もあって当然であるという気も致します。

ヒルベルト空間中のRay

ワインバーグは「場の量子論(1) (2) (3) (4) (5) (6)」という大著を記されております。この中で、粒子(つまるところ、この世界に存在するすべて)は「ヒルベルト空間中のRay(線)」である、というのですね。ここで、ヒルベルト空間はスカラー積が定義された複素ベクトル空間であり、Ray(線)はX-Ray(X線)などというときの「Ray(線)」を意味します。電子などは線ではなくて点ではないか、と思われるかもしれませんが、空間的な点といえども時間方向には延びておりますので、四元時空の中ではあらゆるものが線として存在いたします。で、ヒルベルト空間が備えておりますスカラー積により、さまざまな物理現象が説明される(演算子を作用させることにより測定値が得られるなど)ということとなっております。

これを言い換えますと「万物はヒルベルト空間中のRayである」ということがいえるのですが、これはターレスの「万物は水である」というのとさして変わらない物言いであるような印象も受けます。もちろん、万物が水であると言って何が説明できるわけでもない一方、ヒルベルト空間に定義されました状態ベクトルを用いますと、さまざまな物理現象(たとえば素粒子の反応など)を説明することができる、これは大いなる進歩であるといえます。ここで、「説明」といいましても仮説から演繹されるという意味での説明であり、仮説を含めれば自然界の叙述にすぎません。これは、絶対的な真実から演繹されるという意味での「説明」とは異なります。

また、「ヒルベルト空間中のRay」がモノ自体であるといわれましても私にはピンとこない。これはほとんど数学であり、測定結果と良く対応している数式表現ではありますが、あくまで人間精神の内の存在であり、こんなものが自然界に存在するのだと言われましても、これを素直に認めることは甚だ困難です。

そういう思いをもとに同書を読みますと、たしかにギリシャ時代に比べてモノを見る見方は大いに進歩してはいるのですが、基本的な姿勢は、さほど変わってもいないように、私には思われた次第です。