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森田邦久著「アインシュタイン VS. 量子力学」を読む

本日は久々に科学哲学ないしは物理学に関わる書物を読むことといたしましょう。本日ご紹介いたします書物は森田邦久著「アインシュタイン VS. 量子力学」、理学博士と文学博士の双方の学位を持つ森田氏になります、アインシュタインの側に立って量子力学を巡る歴史と論争を扱います好書です。

少々長い文章になってしまいましたことと、異なるいくつかの話題を扱いますことから、いつものスタイルからちょっと変えて、いくつかの章立てでお話を進めることといたします。

第1章 概要

今日では、量子力学の成功の故に、これに反論を多々試みましたアインシュタインの考え方は間違っていたとする考え方が一般的なのですが、同書は、この考え方に疑問を投げかけます。

ただ、この疑問が正当かといえば、どうもそうであるようにも思われない。でも、今日の科学哲学で一般的な、「人は人と無関係に存在するモノ自体を知りえる」とする「素朴な自然主義」の立場に立つならば、アインシュタインの主張はもっともであるとせざるを得ないようにも思われます。

で、私の立場はもう一つの立場でして、人はモノ自体を知りえないとする、カントの考え方に従うものです。私の見たところでは、ハイゼンベルクもこの立場をとっております。同書には、ハイゼンベルクはアインシュタインとの論争において一歩身を引いていたと受け取られる記述があるのですが、カント哲学を受け入れる以上、最初からアインシュタインの主張には無理がある、ないしは意味がない、と見做すしかありません。

ただしハイゼンベルクの立場の難しいところは、カント哲学が一般には受け入れられていないこと。素朴な自然主義が、多くの科学者の間に蔓延していること。これを否定してカント哲学を多くの科学者に受け入れさせることは、物理学者の手に余ることだと思うのですね。

とはいえ、量子力学と素朴な自然主義は、深く考えれば両立しない。その深く考えるという行為を放棄しているのが、今日の量子力学の立場で、「役に立つならそれでよし、深く考えるなどという無駄なことはしない」とする「道具主義」を多くの科学者が受け入れております。

(2019.3.5追記:ひょっとしてこの「道具主義」、ハイデガーによるのではないでしょうね。ハイデガーは、確かに、外界の事物を人は道具として認識するのだ、という趣旨を語っているのですが、彼は、形而上学に真摯に向かい合った人です。

まあ、それを最後まで通したら大したものなのですが、ナチスの庇護を受けて変わってしまった。これは許すことができない、彼の大失策でしょう。

でも、ハイデガーの哲学を再現すれば、それは、カントの哲学とフッサール現象学の到達した地点を融合した新たな一歩を目指すものでした。まあ、目指しただけで、最後まで実現しなかったのが大問題なのですが、、、)

深く考えない、というのは、一つの見識ではありますが、これはある意味では学問の放棄であり、そういう意味では深く考えようと致しましたアインシュタインは学問に忠実な人であった、誠実な学者であったともいえるでしょう。そして、その誠実さをこの書物は大いに持ち上げているというのが、同書を読みましての私の感想です。

と、まあ、こう紹介いたしましても、多くの読者にはちんぷんかんぷんでしょうから、以下同書をつまみ食い的に引用しつつ、私のコメントをつけることといたしましょう。

第2章 カント哲学を受け入れるなら(ハイゼンベルクの立場)

まず、ハイゼンベルクの基本的立場は、「人はモノ自体を知りえない」とするカントの主張に対応しております。つまり、知りえるものだけを理論の対象にする、ということなのですね。(「部分と全体」を読むをご参照ください。)

カントの主張を受け入れるなら、われわれが議論しているのは、われわれの精神内部に構築された外界のモデルであって外界そのものではない、ということが前提となります。観測とは、外界の情報をわれわれの精神内部に取り込む行為に他ならず、取り込まれた情報に対して論理を構築するのであれば、観測可能な量のみを扱うことは前提となります。

一方、アインシュタインや「素朴な自然主義」の立場は、外界のモノ自体を人は知りえるとの立場であり、外界に存在しているモノ自体を理論は扱っていると主張いたします。

これに関するアインシュタインの考え方は、同書147ページのマッハ批判の部分に如実に表れております。

感覚的印象による概念と物への結論は、われわれの思考の基本的前提に属しているのだということ、つまり、もしわれわれが感覚的印象についてだけ語ろうとするときには、われわれの言葉と思考とを断念しなければならないということを考えねばなりません。言い換えれば、世界が実在するということ、われわれの感覚的印象がいくらか客観的なものに基礎をおいているという事実が、マッハでは少し軽視されすぎているのです。私はそういっても、素朴な実在論のために弁護したいわけではありません。

このアインシュタインの言葉は、われわれは事物が客観的に(つまりわれわれの現前にそれ自体として)実在すると感じており、これは認めなくてはいけないということなのですが、最後の「素朴な実在論のために弁護したいわけではありません」という言葉との間に齟齬があるようにも思われます。

ひょっとすると、アインシュタインも「実在」という用語を、素朴な実在論とは異なる意味で扱っているのかもしれません。つまり、私が考えているのと同じような意味でこの言葉を使っているのかもしれない、ということですね。

カントの主張と、素朴な自然主義なり素朴な実在論なりを両立させる一つの手段は、「実在」という概念に多少の修正を加えることです。

カントは、われわれはモノ自体を知りえないとするのですが、われわれはモノ自体を知っていると感じている。厳密にいえば、われわれが知っていると考えているモノ自体とは、われわれの精神内部に再構成されたモノ自体の世界のモデルなり不完全な複製物であって、その世界には樹木なりリンゴなりといった、概念を伴うモノが確かに実在すると感じている。だけどカントに言わせれば、それはモノ自体ではない。モノ自体とは、あくまでもわれわれの外の世界に存在しなくてはいけないのですね。

しかしながら、ヒトは自らの精神の内部に作り出したモノ自体の世界を、外界とみなして行動しており、それでさしあたり何の問題もなく生きている。そして、個々人の精神内部に作られたモノ自体の世界は、他者とのコミュニケーションにおいても齟齬をきたさない、つまりは他者の精神内部に作られたモノ自体の世界と互いに矛盾しない形で構成されている、少なくともたいていの場合はそうなっているのですね。

精神内部に形成され、他者とも共有されているモノ自体の世界は、たしかに、あくまで精神内部の存在であって外界に存在するモノ自体の世界とは別物であり、外界に実在するモノ自体は、われわれの感覚器官に作用してそこにモノのイメージを見出す原因であるにすぎないのですが、精神内部に構成された世界に配置されたモノの姿を人は外界のモノの姿として認識しております。

つまりは、リンゴという概念を人が見出す原因が外界に存在する。これをわれわれはリンゴがそこにある、と語っております。これを正確にいうなら、私がリンゴという概念を見出す原因が外界にある、というべきでしょう。また、別の言い方をするなら、私の精神内部に構築された外界のモデルにリンゴが存在しているというべきところでしょう。しかし、一般的には、これを簡単に「リンゴがある」と語っているのですね。

この言い方は、哲学者に言わせれば不正確な物言いかもしれませんが、現実的には何の問題を生じないし、コミュニケーションはより効率的になります。正しい言い方を分かった上で、これを簡略化して「リンゴがある」と語っているなら、何の問題もありません。

ただしこの見方を受け入れる場合は、あくまでわれわれが論じているのは、ヒトの精神世界の内部に構成された外界のモデルであって、ここで語られているものは全て仮説であるということ、そして、われわれが知りえない事柄については、われわれは語り得ない、ということに注意しなくてはいけません。

原子が実在するというのも、実は一つの仮説であり、他の仮説だって成り立つ可能性を考えておかなくてはいけません。たとえば、実在するモノは高次元空間であり、その振動の共鳴状態が様々な粒子としてわれわれに観測されているのかもしれません。そうであるならば、ある時は粒子として観測され、ある時は波動として観測されても何の不思議もないのですね。もちろんこの共鳴状態のあるものを「原子」と呼ぶと定義することもできるのですが。

同書には、ハイゼンベルクがあまり登場いたしません。おそらくは、ハイゼンベルクはカント哲学を受け入れ、物理学が議論している世界は、われわれの精神内部に構成された世界である、と考えていたのでしょう。そうであるならば、実在に厳しい条件を付けることは意味のあることではないと彼が考えていたとしても不思議はありません。

第3章 因果律は経験によって獲得されるのか

さて、同書」243ページからは、「アインシュタイン VS. ヒューム」と題しまして、アインシュタインとヒュームの因果律を巡る考え方の違いについて議論しております。

ヒュームは、因果律を経験的材料から導き出すことはできないとし、カントも因果律を人間が先天的に供えた能力であるとしているのですが、アインシュタインは因果律を「自由に設定されたもの」といたします。

これについても、私はカントに軍配をあげたいと思います。ある種の因果律は経験的に把握することもあるでしょう。火を見れば、そこから煙のあがることがわかる。これを繰り返し経験していれば、煙をみたときその下に火があると推測することができるでしょう。これは、経験による因果律の獲得といえます。

しかしながら、そもそも感覚器官は因果律を前提として成り立っております。樹木をみて眼前に樹木が存在すると知るのは、樹木が存在するが故に樹木がみえるという因果律を前提としております。全ての知覚が因果律を前提として機能しているならば、これは後天的に獲得されたものであるというよりは、生まれたときから、感覚器官とともに、ヒトに備わっている機能であると考えるのが妥当でしょう。

第4章 観測問題

第11章(p248)以降で、同書は観測問題について論じております。この問題に関しては、以前の記事でも論じたので、あまり詳しくは議論いたしませんが、主要な論点については書いておくようにいたしましょう。

第一に、多世界解釈という解について紹介がなされます。多世界解釈にもいろいろあるのですが、もっとも単純な解釈は、観測者の数だけ世界は存在するというもので、これなら、カント的、あるいはハイゼンベルク的解釈とも一致いたします。つまり、物理学は人の精神世界に構成された外界のモデルについて議論するのだから、観測者それぞれが異なる世界をもつことは当然のことなのですね。そして、観測者がコミュニケーションすることで、その結果は共有される。観測者は、他者の力を借りて観測することもできるわけで、これもまた不思議なことは何一つありません。

もう一つは、軌跡解釈と称するもので、粒子には場が伴っている、とする解釈です。これも以前の記事で論じたのですが、たしかに場は粒子のサイズよりも大きな範囲に広がっておりますので、粒子サイズよりもはるかに大きい二重スリットで干渉が生じる理由を説明することはできるでしょう。でもこの場が何かとなりますと、今のところ分からない。あまり明確な説明にはなっておりません。

アインシュタイン自身は、軌跡解釈を超えた、より広範な統一理論をつくろうと努力し、結局この努力は実っておりません。しかしながら、それが無駄な努力であるとは、私は断言できないと思っております。現在知りえる限りでは、そのような理論はないのですが、だからといって未来永劫見出せないかといえば、そんなことも断言できないということですね。

次に、時間対称的解釈というものが紹介されます。この解釈は、まだ深く追及されてはいないのですが、一つの可能性はありそうに思われます。

そもそもわれわれが生きているこの世界は、三つの空間軸に時間軸を加えた四元時空のなかであるとされております。つまり世界は時間方向にも広がりを持っているのですね。

で、われわれは時間軸のなかで現在に束縛されており、空間を見渡すような、時間を通した見方をすることができません。明日起こることは現時点では知りえないのですね。

しかしながら、真実が時間の経過に伴って変わらないと致しますと、明日の真実は現在の真実でもなければいけない。明日起こることは現時点では知りえないのですが、モノ自体の世界の中では明日起こることも定まっていると考えるしかありません。しかしながら、知りえないことは語りえないわけで、われわれが精神の内部に抱く世界モデルのなかでは、明日は未定とするしかありません。

この状況は、巻かれた映画のフィルムをイメージするのがわかり易いかもしれません。ストーリーは既に定まっている。そして、フィルム自体は動きのない世界なのですが、これを順次再生して鑑賞するなら、刻々と変化する映像の前で、ヒトは話の先行きを知らず、ただワクワクドキドキしながら、それぞれの瞬間を楽しむしかないのですね。

世界が四元時空であるならば、三次元空間中の構造物が離れた点どうしで互いに力を作用しあっているように、過去と未来も互いに力を作用しあっていたところで何の不思議もありません。そういう意味で、時間対称的解釈もあり得るのではなかろうか、というのが私の印象です。

第5章 客観的世界の実在

最後の章で、アインシュタインの信念について語っております。

アインシュタインは「知識には理想的な極限があり、これは人間の頭脳によって近づくことのできるのを信じてよいでしょう。その極限を客観的真理と呼んでもよいのです」と考えていたからである。だが、もちろん、アインシュタインの信念が正しいということは証明できない。

結局のところ「科学の目的とは何か」という問いに対する答えは、ある程度回答者の「好み」に依存するとしか言えないのかもしれない。だが、自然科学、特に基礎的な分野に関わる人たちは、なぜ科学に惹きつけられたのだろうか。それは科学がただ、現象をうまく説明できるモデルを提供してくれるからなのだろうか。そうではなく、科学が私たちの実在世界の構造を明らかにしてくれることを期待しているからではないだろうか。すると、やはり、基礎科学や哲学に惹かれる人間にとっては、アインシュタインの科学観のほうが魅力的ではあり、アインシュタインの科学観に魅力を感じるならば、やはり「量子力学が本当に実在の世界を捉えているのか」という問いは重要であり、これからも考えていかなければいけない問いなのではないだろうか

少々長い引用となってしまいましたが、これが同書の結論、ということでしょう。これに対します私の感想は、これは筆者の言われますように「好み」の問題であるように思われました。そして、「かもしれない」、「だろうか」、「やはり」などの言葉の多用は、筆者のこの結論に対する自信のなさの表れであるようにも感じられます。

確かにアインシュタインのアプローチは、わかり易いし、魅力的ではあります。しかしながら、今日の量子力学の知見は、たしかな客観世界よりも、カント的ハイゼンベルク的解釈に分があるように、私には思われた次第です。