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邪馬台国に関するアゴラ記事

金澤正由樹氏の10/29付けアゴラ記事「古代史サイエンス:魏志倭人伝で邪馬台国の場所は分かるのか?(前編)」へのコメントです。


邪馬台国の話題は、知的ゲームということで、あまり向きにならずに議論したらよいと思います。

まず、魏志倭人伝の方位と距離は、さしあたり矛盾があるわけで、無視するしかありません。一方の戸数も、753で合わせて15万戸ということで怪しげですが、おおよそ正しいとすると、1戸5人として75万人、3世紀中葉の日本の人口が100-120万人と推定されておりますのでその60~75%となり、東国にも相当な人口を擁する遺跡が認められておりますので、邪馬台国九州説は成り立ちません。

記紀との関連では、欠史八代の事績がほとんど橿原市、御所市という葛城氏の本拠地に限られることから、ここまでは大和の国の王の歴史と考えられ、「はつくにしらすすめらみこと」と書かれた崇神天皇以降が日本の王、中国も認める倭王と思われます。そして、この記事が迹迹日百襲姫の死亡記事の後にあることから、モモソヒメこそがトヨであり、その先代卑弥呼の時代の大和王は開化天皇が妥当することになります。

で、大和は倭王卑弥呼が都した国であり、卑弥呼は大和王とはされていない。国連事務総長の勤務する国連がニューヨークにあり、そこを支配するのは米国大統領であるように、開化天皇が大和王であった。でも、戸数7万は大和盆地には多すぎる。その解は、開化天皇は尾張の建田勢であったとするもの。尾張は大和の地において葛城家と婚姻関係を深める一方、丹波から美濃に至る広い範囲を支配地として軍事力にも優れる。クヌ国との緊張関係が高まった大和が尾張の者に国を預けたのではないかな、とみている次第です。

この話、長くなりますのでコメントでは難しい。どこかでゆっくりできるとよいですね。


他の肩のコメントに返信を入れました。

内山 順二
魏志倭人伝の邪馬台国の場所の記載に関しては畿内説、九州説とも疵があってどちらとも確定できませんが、それ以外の魏志倭人伝の記述を見ると、
①北部九州では作られていたが畿内には当時全く存在しなかった絹・養蚕の記載があること、
②福岡や熊本から大量に出土し畿内からはごく僅かしか出土していない鉄鏃の記載があること、
③高楼、城柵、環濠など戦争に備えた設備の跡は九州の吉野ケ里遺跡では魏志倭人伝の記載そのままに出土したが、畿内の纏向遺跡などには見られず、戦死した遺骨や鉄製の武器も含め魏志倭人伝に記載された戦乱の跡は北部九州からは大量に出土し畿内からは殆ど出ないこと(当時の畿内は圧倒的に平和)、
④東に海を渡れば別の国があってそれも倭人の種であるという記載は九州には当てはまるが畿内大和には該当する場所がないこと、
⑤邪馬台国の南にあると記載される狗奴国は古くから熊・隈・球磨の名で呼ばれる熊本に該当し、その官の狗古智卑狗は古代からの豪族菊池氏(古くは久々知氏)の長として久々知彦にあたると考えられること(熊本県からは鉄鏃も多く出土し山鹿市の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡など狗奴国の勢力と考えられる大きな弥生遺跡もある)、
⑥邪馬台国は現在の福岡市の西の糸島市に比定される伊都国に一大率という官を派遣して諸国を監察させたと記載されているが、纏向遺跡などは吉備より以東の地域との親密な交流は見られるが北部九州との関係は極めて希薄であり官を派遣するような支配ないし同盟関係があるとは考えにくいこと、
⑦畿内で大量に出土する銅鐸の記載が全くないこと(北部九州では銅鐸は極めて少なかった)、
等々から見て、魏志倭人伝の記載は畿内ではなく専ら北部九州のことを書いていると思われます。
(魏志倭人伝に限らず、弥生時代の中国の史書に記載された「倭」「倭国」「倭人」の地域は基本的に全て北部九州+朝鮮南部を指すと考えられ、畿内を含めるようになるのは古墳時代の倭の五王以降です。)
纏向などは北部九州の遺跡より大規模なので畿内が北部九州よりも人口や生産規模で上回っていた可能性は高いですが、それは単に「東に海を渡った別の倭種の国の規模が邪馬台国より相対的に大きかった」ことを示すに過ぎず、畿内に邪馬台国があった証拠には全くならないと思います。
また長くなるので詳細は書きませんが、畿内説論者のいう三角縁神獣鏡や桃核やベニバナの話は、邪馬台国が畿内にあった根拠としては全くお話にならないほど弱いです。


瀬尾 雄三

> ③高楼、城柵、環濠など戦争に備えた設備の跡は九州の吉野ケ里遺跡では魏志倭人伝の記載そのままに出土したが、畿内の纏向遺跡などには見られず、

(大和説で)卑弥呼が都したと考えられております纏向遺跡の北西4.6kmに位置する唐古・鍵遺跡は、弥生時代の環濠集落で、立派な楼閣は今日復元されております。

大阪の港から纏向までは、大和川の水運が利用できたのですが、この楼閣は大和川を通る船からもよく見ることができたはずで、卑弥呼の御所を訪れた魏使にも見えたはずです。まあ、卑弥呼の御所が纏向にあった場合の話ですが。

その他、邪馬台国=大和説でも、半島との交通は北九州経由を前提としておりますので、九州の文物が魏志倭人伝に登場することに何の不思議もありません。


以下はブログ限定。このあたりは、以下のシリーズを見ていただくと、私の言いたいことがわかっていただけると思います。

俯瞰:邪馬台国(その1)邪馬台国の人びと

俯瞰:邪馬台国(その2)狗奴国

俯瞰:邪馬台国(その3)大和王権と二人の倭国女王

俯瞰:邪馬台国(その4)尾張氏と倭国王 

俯瞰:邪馬台国(その5)古代出雲王国 

俯瞰:邪馬台国(その6)倭人伝の倭国地理 

俯瞰:邪馬台国(その7)王権の継承 

1 thought on “邪馬台国に関するアゴラ記事

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