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「幸せな人生」は己の内にある

佐藤鴻全氏の5/8付けアゴラ記事「人生はインプットとアウトプット」へのコメントです。


主観(英:subjective)と客観(英:objective)の意味するところは、ギリシャ時代以降カントまでと、カント以降で逆転しております。カントは、それ以前と逆の意味をこれらの言葉に与えたのですね。カントは、subjective(本質)を人の主観に、objective(投射されたもの)を眼前の事物(つまりは客観)に結びつけたのですが、多くの人々は、未だギリシャ時代と同様の、眼前の事物こそ本質、実体であると考えております。(参考:木田元著「ハイデガー『存在と時間』の構築」、本ブログ「木田元著「ハイデガー『存在と時間』の構築」の指摘する誤訳」で解説しております)

カントのこの世界観の転換は、人はモノ自体を知ることができず、人が知り得るのは己の意識の内部に現れた現象(現れ:表象)に過ぎないとの基本認識によります。その現象に人は概念を与える。概念は、プラトンのイデアと呼んだものに近いのだけど、現象がイデアの不完全なコピー(プラトンの主張)なのではなく、概念が現象の不完全なコピーだ(カントの主張)、というわけです。

人びとの世界観は、カント後200年を経過してもあまり変わったとはいいがたいのですが、1960年代末の怒れる若者たちや、1980年代末の共産主義世界の崩壊、そして「大きな物語の崩壊」を伝えた20世紀末のポストモダン思想の流行など、カント的世界観の緩やかな広がりが人類の歴史の中には見て取れるように、私には思われます。

そうした流れの認識に立てば、己の満足できる人生を送ることこそ、幸せな人生である、ということになるのではないでしょうか。そしてそれは、(矛盾するように思われるかもしれないけれど)、アリストテレスのいう「アレテー(倫理、原義は卓越性)に即して生きよ」ということであるようにも思われます。

それは、一部の宗教家の主張するような、羊飼いに導かれる羊の人生ではないことは確かだ、と思うのですが。


返信がついております。

佐藤 鴻全

うーん、難しいですね。

カントは、プラトンのネタ切れ劣化版という感じがします。


瀬尾 雄三

佐藤鴻全さん

> カントは、プラトンのネタ切れ劣化版という感じがします。

カントとプラトンは、全く逆ですよ。

プラトンは、我々が見ている世界は(洞窟の壁に映った影のような)本質(イデア)の不完全なコピーであると考えておりました。洞窟の外に出れば、完全な姿を見ることができる、というわけですね。この洞窟の譬えに合わせれば、カントの主張は、洞窟の外の世界など知ることはできず、壁に映った影こそが本質であるいたします。

カントの書物(純粋理性批判など)は、簡単そうに見えるのですが、実のところ何を書いているのかよくわからない。ハイデッガーのような方が本質をつかんでいるようなのですが、ハイデッガーを読んでもわからない。結局のところ、木田元著「ハイデガー『存在と時間』の構築」あたりを読むと、おぼろげに、カントが何を言いたかったかが見えてくるような状況です。

プラトンに従えば、正しい理論がある。それは唯物論や共産主義イデオロギーや各宗教の教義であるかもしれない。少なくともこれらを唱えている人はそうだという。一方、カントに従えばそんなものはない。結局のところ、権威主義と自由主義の対立が、プラトンとカントの思想の対立というわけです。今日歴史の方向を見るには、カントの思想に立ち返らなくてはいけません。


佐藤 鴻全

うーん、うーん、益々難しいですね。
カントは、ネタ切れで逆張りしたんでしょうか。
カントに限らず西洋思想は全体としてキリスト教以降、精神年齢が退化した感があります。
キリスト教の土台の上で、時にすり寄ったり、時に拗ねたりしながら砂場遊びをしているようです。

ヘーゲルは若くして老成した感じ(容貌だけでなく)ですが、教会の目を意識して遠回しの表現が多く難解さが倍増しており、それが無ければ同時代および後世も更に論戦が弾んだと思われ、その点残念です。


瀬尾 雄三

佐藤鴻全さん

> カントは、ネタ切れで逆張りしたんでしょうか。

これは、デカルトの偉大な発見を受けてのものです。それは今日「essential ego:根源的自我、超越論的自我、先験的自我」などとも呼ばれているもので、デカルトの言葉に従って「コギト」という人もおります。

デカルトは全てを疑い、外的事物の存在はあてにならないとしたのですが、疑っている自分自身は否定できないとします。これは、今日の論理学の認めるところでもあり、自己の存在は「語用論的前提」、つまり、論理を語る以上前提とすべき事柄とされております。

デカルトは、己が明瞭に認識できるものの実在を認め、神の存在証明までしているのですが、これは異端が火あぶりに処せられた時代を反映してのものでしょう。ニュートン以後の時代に生きたカントに至っては、神の存在を知り得ない、としております。ハイネはこれを評して、「カントは神の首を切り落とす」と書きました。

カントの思想は後の現象学に引き継がれ、今日の哲学思想の主流となった、と言いたいところですが、一方にプラグマティズムが欧米思想の中心であり、こちらは外的事物を認める素朴な自然主義の立場に立っております。まあ、ヴィトゲンシュタインは、「独我論は正しい」などと言ってはいるのですが、現在が思想的混沌を孕んでいることは確かです。


佐藤 鴻全

カントがキリスト教の神の首を切り落とすのは勝手ですが、あの世まで否定してるなら困ります。
おっかさんも行き場がなくなってしまいます。

デカルトの「証明されてないものは、便宜上、取り敢えずないものと仮定して思考を進めよう」としたのを、後世不肖の弟子どもが「証明されていないものは、即ち存在しないと同義だ!」と誤読したのは、皮相で短絡的で愚かです。

これは程度の低い部類の医者はじめ理系やその取り巻きに多く見られ、「ワ〇チン障害事象は今の所、確認されていない。それは障害事象が発生しないのと同義だ」としてワ〇チン翼賛体制に邁進して、今は逃げを打つのに余念がないのは万死に値すると思います。


瀬尾 雄三

佐藤鴻全さん

> デカルトの「証明されてないものは、便宜上、取り敢えずないものと仮定して思考を進めよう」としたのを、後世不肖の弟子どもが「証明されていないものは、即ち存在しないと同義だ!」と誤読したのは、皮相で短絡的で愚かです。

この考え方は、「オッカムの剃刀」として知られているのもので、説明に必要ないものは切り捨てるべし、という考え方です。

アインシュタインは、宇宙空間に広く蔓延しているとされたエーテルの存在を否定したのですが、エーテルがいかなる測定にもかからない以上、その存在を想定する必要はない、からなのですね。(電磁波を伝える媒体に関しては、光量子仮説を唱えておりました。)

カントが、人は神を知ることができない、としたことは、オッカムの剃刀により、神の存在を否定したことと同義となる。それをハイネは「首を切り落とす」と詩的に表現したのでしょう。

この200年ばかりの間、人類は思想面で激変の時代を通過中です。そろそろ出口が見えてきてもよい頃合い、それがこの5~60年なのではないかな? 面白い時代です。

1 thoughts on “「幸せな人生」は己の内にある

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