コンテンツへスキップ

第2章 出会い


第1章 千手
第2章 出会い
第3章 人工知性体
第4章 レイヤの誕生
第5章 レイヤの復活
第6章 レイヤの追跡
第7章 レイヤの篭城
第8章 レイヤの時代


西暦二〇二八年九月十三日の昼休み――

アイリストA棟の会議室では、相生教授がコーヒーを飲みながら週刊誌を読んでいる。

「あら、珍しいですね。先生が週刊誌なんて読まれるの」と秋野。

「理事長がここしばらく不機嫌なのを知らんかね。原因はこれだよ」

相生教授の差し出した週刊誌「週刊マガジン」の、ポストイットでマークされたページを眺めて、秋野、目を丸くする。

「総力特集。ここまでやるか」という特集記事の、大手企業のなりふり構わぬ新商売や新手の風俗産業の記事と並んで、「スパイの砦か、山並市立工科大学」という、一ページ半ほどの記事が出ている。しばし黙読した秋野、あまりの内容に、胃のあたりが熱くなる。

「なんですか、これは」

「五条理事長が置いていったんだよ。読んだら捨てとけといわれてな」

「しかしこれはひどいですね。スパイ云々は憶測だけで、記事の内容は、山並市のような貧乏自治体が工科大学を持つなんて、分不相応だという主張ですよね。人を馬鹿にするにもほどがあるわ」

「スパイが来たのも事実なら、暗号解読しとるのも事実だから、嘘を書いているわけではない。山並市が大学に充分な予算補助をしてくれれば、こういう研究もせんで良いわけだから、貧乏自治体云々も、全然関係がないわけじゃあない」

「『軍事研究のどこが悪い、と五条理事長』って、ここ読まれました? 見出しと内容が、全然違うじゃないですか。理事長の発言内容も書いてありますけど、『私共は、いろいろなところから委託研究を請負っておりますが、守秘義務がございまして、個々の内容はお話しできません。ところで参考までにお聞きしたいんですが、大学が国防省から研究を委託された場合、なにかまずいことでもあるんでしょうか? これを禁止する規定を私は存じませんし、海外ではごく一般的に行われておりますが』ですよ」

「理事長の発言内容をきちんと書いとくなんざあ、フェアなもんじゃないか。それで、理事長が言わんとしたことは、正に見出しの通りだろう」

「だけど、こんなばかばかしい記事は、放っておいたら良いんじゃないですか。ムキになって読んじゃったりして、馬鹿みたい」

「ところがそうも言っておられんのだよ。市議会で問題になっちまってな。理事長が呼び出されたんだよ。内容が内容なんで、秘密会にしたんだが、それでも、本当のところは喋れんというところで、審議が止まっちまった。それで、アイリストの来年度事業計画の認可がすんなり通らないで、来年度の学生募集が止まっちまったんだ。本来ならば、とうの昔に事業計画が認可されて、二週間も前に学生募集を始めなくちゃあいけないところだった。いまさら明日の募集締め切りも動かせないから、来年度は新入生ゼロということになりそうだ。情報工学部門はどうせ毎年一人かゼロだからまだ良いとしても、生命科学部門の六研究室が、そろって新入生ゼロというのはちょっと問題だろう」

「まあ」

その時、玄関前に黒塗りの高級車が急停止し、上気した五条理事長が足早に会議室に入ってくる。

「相生君、解決したよ。学生募集も始められる」

「それは良うございました」

「それでだ、意地でも学生を集めてくれんかね。君のところも、企業とかいろいろ付き合いがあるだろう。締め切りまでに時間がない。大至急頼む。わしはこれから、生命科学部門の教授達に発破をかけてくるから、相生先生にも、一つご尽力、よろしく頼んます」

相生教授の返答も待たず、来た時と同様、顔を赤らめて足早に出て行く五条理事長の後姿を見送った相生教授、「こうしちゃおれん、ちょっと電話をかけてくる」と言い残して、教授室に向かう。後に取り残された秋野、座り心地の良いソファーに移り、教授の置いていった週刊誌を最初からぱらぱらと読み始める。


めぼしい記事を全部読み終わった秋野、(こんなきつそうな女のどこが良いんでしょう)などと思いながらヌードグラビアを眺めていたところに、相生教授がバタバタと戻っくる。秋野はさっと週刊誌を閉じ、相生教授を見上げる。

「いやあ、だめだねえ。鳳凰堂だけだ、捕まったのは。しかし、当てはなさそうだな。柳沢君も出張中とかで。君はどこか、脈のありそうなところを知らんかね。やや、真田君じゃないか」

相生教授が捕まえたのは、かごめ自動車から出向して、今年春から研究員を勤めている真田である。真田、相生教授の依頼を安請け負いする。

「わかりました。これからちょいと開発部に行って、部長にかけ合ってきましょう。あそこ、暇そうな奴がごろごろいますからね」 真田、かごめ自動車開発部特製のかごめKXに乗り込み、タイヤを鳴らしてアイリスト正門を出て行く。

「真田さんをあんまり当てにしちゃあいけませんよ」と秋野。「いつもあんな調子なんだから」

「そうだなあ、一人でも入ってくれれば、理事長に顔が立つんだが」コーヒーマグを手に、相生教授考え込む。「まあ、あまり期待せずに待つことにしましょうや」

相生教授の心境は、新入生が来ようと来まいと、どうでも良い。


「ボーン・トゥー・ビー・ワ~~ィルド」

リバイバルヒットしたロックミュージックを背景に高速道路を疾走するのは、風間英二、卒業を来春に控えた大学四年生だ。車体の前後にはマル特ステッカーが貼られ、速度制限不適用、特級免許保持者の運転になることを示している。

最近、部分開通した高速バイパス線山並区間を走る車はまだ少なく、英二が手間ひま掛けて整備したかごめKXは、その性能を如何なく発揮する。

南中台のインターを過ぎた辺り、英二がサイドミラーに目を遣ると、自分と同じ赤いかごめKXがぐんぐんと近づいて来るのが見える。英二がおやっと思う間もなく、このKX、あっという間に英二の右側を追い越していく。英二の車も時速百八十キロを超えているが、それよりも相当に速い。しかし、マル特ステッカーは貼っていない。その後を追うように、警告灯のみを点灯させた一台のパトカーが、同じく猛スピードで英二の右を追い越す。

「あの連中、何考えてんだ?」思わずつぶやく英二。

「えーい、遊んでやれ」

英二、瞬時に決断すると、アクセルを目いっぱいに踏み込み、二台の後を追う。スピードメータの針は、時速二百五十キロを超え、更に上昇する。

「こいつら……」


照明を落としたホールにざわめきが広がる。ステージ上の大型ディスプレーにチェスボードが表示されている。会場アナウンスが流れる。

「チェックメイト。エントリーナンバー十七番、坊谷三郎さんのピタゴラスが決勝進出に決定致しました」

空席の目立つ観客席の一隅に、暗い会場に不似合いな、黒眼鏡をかけた男が一人座っている。隣の男が声をかける。

「いよいよ次ですね。霧崎さん」

声をかけたのは、大手ゲーム機メーカ鳳凰堂の社員、柳沢。現在、大学院大学アイリストに研究員として出向中だが、研究員仲間の霧崎がコンピュータチェス大会に出場するという話を聞き、これも何かの勉強と、霧崎とともにこの会場に来ている。

柳沢にうなずく霧崎。固く結ばれた口の端には、勝利を確信した笑みが浮かんでいる。

突然、柳沢の携帯電話が振動する。柳沢、霧崎に軽く会釈すると、携帯片手に足早に会場後方に向かう。

「えっ、明日の五時? ぴったりのがいるんですが、向うが何て言うか。一応、トライしてみますけど、あまり期待しないで下さい」

柳沢がちらりと見たのは、手にした大会パンフレットの出場者プロフィール、開かれたページには、たった今決勝進出を決めた坊谷の名前に、蛍光マーカーの黄色い線が引かれている。


パトカーを従えて英二の前を疾走するKXは真田が運転している。真田、右車線の車を左側から追い越すと、そのまま左車線を突っ走る。英二は、パトカーに続いて右車線の車を追い越すと、今度は右に車線変更し、パトカーを追い越し、真田のKXの右少し後方を並走する。英二に邪魔されて真田を追い越すことができないパトカー、拡声機で英二に減速を命令するが、英二は聞く耳を持たない。

英二の意図に気付いた真田、英二を振り返り、手を上げて挨拶する。大きなサングラスのため、表情は読めないが、口元が笑っているのが見える。

道は下り坂になり、その遥か先で、登り坂になっている。その登りに転じるかなり手前で、大型トラックが右側に車線を変更して黒煙を吐き出したのは、その少し先の左車線をあえぎながら走る、旧式のコンクリートミキサー車を抜こうとしている様子だ。右車線をふさいだ大型トラックに、英二はどんどん近づく。

そのとき、真田の右手が動く。自車の前に出るよう合図しているようだ。英二が加速すると、真田は急減速する。これに驚いた後のパトカー、慌ててブレーキをかけ、真田の車との間隔が大きく開く。英二、真田の前に広がった隙間に入りこむが、その前には、坂道に差しかかかりスピードが落ちたコンクリートミキサー車が走り、これに追越をかけている大型トラックもミキサー車の右後方に徐々に近づいてくる。英二と真田、大型トラックがミキサー車の後部に差しかかかる直前、両車の間をすり抜けるように追い越してゆく。態勢を立て直したパトカーも後を追うが、なかなかミキサー車を追い越しきれない大型トラックと、黒煙を吹き上げながらも意外にふんばるミキサー車に行く手を阻まれる。大型トラックとミキサー車の黒煙を浴びて、「くそっ」と吐き捨てるようにつぶやくパトカーの警官。


照明を落とした室内で、唇を曲げて「くそっ」と吐き捨てるようにつぶやく霧崎。会場アナウンスが流れる。

「チェックメイト。優勝はエントリーナンバー十七番、坊谷三郎さんの、ピタゴラスに決定致しました」

スポットライトにうながされ、立ち上がって観衆に挨拶する坊谷。拍手が響く。
  照明が明るくなり、競技の終了を伝える会場アナウンスが流れる。会場をぞろぞろと出る人たちを掻き分けて、坊谷に近づく柳沢。


英二に並走しながら、付いて来るよう合図する真田。

「なんだ、あいつは」

英二、いぶかりながらも真田の車の後を追う。真田の車は、高速から一般道に降り、林の中の道をくねくねと進むと、大きな施設の門に入り、守衛所の前で停止する。真田が、窓から上半身を突き出し、英二の車を指差して守衛に何か叫んでいるのは、英二も一緒に入る、と言っているようだ。

愛想良く敬礼する守衛を横目に、守衛所前を通過し、施設の敷地内をゆっくり進む二台の車。建物の周囲は分解されたシャシーやタイヤなど、自動車の部品がいたるところにおいてある。道の反対側、つまり公道に面した側は、小奇麗な植え込みの前に駐車スペースがとられ、ゆったりと数台の車が止めてある。

真田の車は、シャッターが大きく開いた工場風の建物に入り、そこで停止する。真田の後に英二も車を止める。

車を降り、英二の車に近づく真田。英二も車を降りて、脇に立つ。

「やあ、助かったぜ」

「あんた何者だ」

真田は英二の問いには答えず質問を返す。

「この改造、どこでやった」

「自分でやった」

「自分で?」

真田が目を吊り上げる一方で、英二の視線は真田の背後、周囲の情景に引き付けられる。屋内の暗さに目が慣れて、内部の様子が見えてくると、そこは広々とした自動車の改造工場で、反対側の、大きく開いたシャッターの向うにはテストコースまであるようだ。

目を吊り上げる英二、

「ここはなんだい?」

「かごめの開発室」

「本家本元かよ。また何で?」

真田、それには応えず、英二の車のボンネットに手を置く。

「俺達に中をみせてくれないか?」

「いいとも」

「それじゃ、そこのジャッキの上に置いてくれ」

運転席に戻り、ジャッキの上に慎重に車を進める英二。手を上げて同僚を呼ぶ真田。ジャッキを上げ、何人かの作業員が英二の車の裏側を観察する。集まってボード片手に議論する人たち。今度はジャッキを下げて、ボンネットを開けて中をみながらエンジンを始動する。ジャッキのタイヤに当る部分はローラになっていて、そのまま走行テストもできるようだ。

感心してこれをみつめる英二に向かって真田、

「これ、ほんとにおまえがやったのか?」

「ああそうさ、俺んち、ガレージがあってね」

同じ作業服姿の初老の男、ここの責任者、西川開発部長と名乗って、英二を誘う。

「君々、あっちで冷たいもんでもどうかね。連中は君の説明なぞ、必要とせんだろ」

「悪いっすね」西川部長に従う英二。

「あの真田君も特免持っているんだが、ステッカーを貼り忘れたそうだ。不祥事になるとこだったが、助かったよ」

その真田、英二の車も気になるようだが、英二たちの後を追う。

「あのパトカーも改造してますね。ウチの改造車といい勝負です。チューニングだけでは、あれほどの加速性能は出せないはずです」

「警察官が趣味でパトカーを改造するなんて、許されるのかな?」

「サンタの手になるものだと、ちょっと厄介ですね」

「仮にマニアがやったものだとしても、SSXには、それだけの潜在能力があるということだ。油断も隙もない」


競技会場のロビー、会場から出た大勢の人たちが歩いている傍らで、坊谷を捕まえた柳沢。

「あのー、ちょっとすいません。坊谷さんですね。相生先生を御存知ですか?」

話が聞こえたか、二人を振り返る通行人。

「ええ、もちろん。私のプログラムは、先生の自己増殖型並列思考アルゴリズムをベースにしてますから。ところであなたは?」

ごそごそと名刺を取り出す柳沢。

「私は鳳凰堂から派遣されて、相生研究室で研究員をしております柳沢と申します。坊谷さんは来春御卒業の予定とうかがいましたが、その後はぜひとも、相生研究室で、わが社のために人工知能の研究に取り組んで頂きたい」


英二の案内された部屋は、作業員の休憩所。工具や部品を収めた棚に囲まれて作業台がいくつか並んでいる。その一画の、くたびれかけた大きなテーブルの中央に、ジュースや麦茶のペットボトルが置いてあり、重ねた紙コップが立ててある。

英二にジュースを勧めた西川開発部長、

「君は今、何をしているんですか?」

「来春、大学出る予定で、今、卒論書いているところです」

「卒業後の御予定は?」

「就職決まんなくて」

「どういうところを狙っているんですか?」

「お宅も受けましたよ。もちろんサンタ・モータースも。なんせ、自動車作っているとこ、二つしかないですからね」

「ウチで採れればいいんですけどね。枠がなくてねぇ。うーん、もったいないね」

考え込む西川開発部長に真田が提案する。

「部長、二年後ではどうでしょうか?」

「そりゃ構わんが、それまでどうしてろと?」

「例のアイリストですが、軍事研究をこっそり請負っていたのがばれてしまいまして、市議会ですったもんだがありまして、来年度事業計画が今日やっと承認されたんです。そのあおりで学生募集も止まってまして、明日募集広告を打つってことですけど、締め切りは明日の午後五時必着、ものすごく入りやすいと思いますよ。相生教授が、だれも来ないんじゃないかと心配して、だれか入りそうなのはいないかと、私にも聞いてたくらいですから。かごめ奨学金も、予算、取ってありましたよね」

「そうか。風間君、といったね、アイリストってのは、この先の南中台にある大学院大学で、ウチから真田君を派遣しているんですが、君もどうですか。君が入ってくれれば、授業料などは、奨学金として、かごめが出します。卒業後、かごめに入社して頂ければ、奨学金返済も免除になります」

「本当ですか。それはものすごく嬉しいお話で」

「真田君、時間がないってことだね。きみ、彼の面倒をみて、ぜひ入れるようにしてくれたまえ。大学の証明書とかいろいろ準備が必要だろう」


「今日は休みかね」アイリスト理事長、五条勇作が、娘の綾子に尋ねる。

「ええ、水曜日は午前で終り。お父様も今日はお早いんですね」

「例の市議会のごたごた、今日はあっさり片付いたよ。昨日の根回しが効いたな」お猪口を口に運ぶ仕草をする勇作。「それで、ものは相談なんだが、綾子はアイリストに挑戦する気はないかね」

「私が狙っているのはORだから、相生先生のところならいいかもしれないけど、裏口とか言われるの嫌だから、アイリストはちょっと……」

「今回は、裏口の必要はなしだ。なにせ、募集が明日一日だけだからな。応募が定員を大幅に割るんじゃないかと心配してるんだ。さしあたり欲しいのは応募者の頭数だから、応募が多ければ降りてもいいよ。実際問題、おまえは無理に大学院に行く必要はないんだから。しばらくうちにいて、花嫁修行をしてくれるのが一番だよ」

「そういうことなら、やってもいいわ。でも、花嫁修行なんか、する気はないからね。日本の大学院は全部滑っちゃったけど、海外はこれからだから、まだまだチャンスはあるわ」

「留学は賛成できんな。卒業旅行なら行かしてやるが。どうしても大学院に行きたいんだったら、国内だって手はいろいろあるさ。だがまずは,アイリスト,頑張っておくれ」


翌春、西暦二〇二九年四月九日午前十時――

間隔をとって植えられた満開の桜の木の下を歩く英二、ごみ屋の前にさしかかる。

(こんな所にゴミの山なんてあったっけ、何か汚いところだなあ)

うんうんと坂道を急ぎ足で上り、アイリスト正門にたどりつく。

「へー、結構車があるじゃん」

英二思わず声に出してつぶやけば、人なつこい守衛これに応えて、

「新人さんかね。ここは山の上だから、学生さんも、車で通う方が大勢おられますよ」

「らっきー」英二、正門の右側を見渡せば、遠くに高速バイパス線があり、ちょうどインターチェンジがあるのが見える。インターチェンジに続く道は、正門右側の大きな空池の向う側を回り、アイリスト正門まで続いている。アイリストの立地は、電車で来るには非常に不便な場所であるが、車での便は良さそうだ。


英二、入学式会場の立て札が置かれたアイリストB棟に入り、受付の短い列に並ぶ。入口を入ったところには「Life, an Information System」という標語が「Institute of Life & Information System Technology」という、大学の英語名称と組み合わせて大きく掲げられている。これを所在なげに見上げ、ふと呟く。

「情報システムとしての生命、か」

「あら、新入生の方かしら、アイリストって読むんですよ」

英二、驚いて声の主を見遣れば、すらりとした女性、秋野洋子が涼しげに微笑んでいる。


受付を終えた英二、すし詰めのエレベータで最上階九階に上る。英二がボーッとしているうちに入学式も終り、大勢の参加者に囲まれるように階段を降りて、大きな講義室に設えられた立食パーティーに移動する。パーティーでは、英二、話す相手もなく、窓際に寄って外を見る。

アイリストB棟は、タワーなどと称している割には、九階建てと、大した高さではないが、八階の講義室から見渡す景色はすばらしい。眼下に広がるのは、アイリストの敷地と緑の多い山に挟まれた遊水池、左手にバイパス、右の方、遊水池の堤防の向うには、分別されたごみの山が小さく見える。

(ゴミの山も、こうして見れば、結構きれいじゃん)

英二がつまらないことを考えていると、若い女性が近付き、英二の名札を覗き込んで話しかける。

「相生研の新入生の方ね。私も同じ研究室の新入生、五条綾子です」

「僕、風間英二です。こちらこそ、よろしくお願いします」英二思わず嬉しくなり、笑顔で応える。

英二と綾子が料理を突きながら話し込んでいると、一人の少年が近づいてくるのが目に入る。名札をみると新入生で、研究室は相生研と書かれている。

「同じ研究室ですね。僕、坊谷三郎。よろしくお願いします」

「風間英二です」

「五条綾子です、こちらこそよろしくお願い致しますわ。それにしても、坊谷さんはおいくつですか?」

「十四です」

「そりゃまたどうして?」と英二。

「小学校を一つ飛び級して四年で卒業、五歳入学だから九歳で中学、中学大学は私立の一貫校で、普通八年のとこを六年で終わる、六年カリキュラムだったのを、更に一年飛び級して、五年で終わり、十四、ってわけです」

「あら、私も六年カリキュラムだったんですよ。でも飛び級はしてませんので、十六」

「へー、みんな若いんだな。俺は小学、中学をきちんと五年づつやって、大学は御丁寧にも、一年余計の四年間。自動車部に、はまっちゃってね。で、結局、十九歳ってわけ」

「まあ、十九だと、秋野先生と同じですわね」

「え、そんな若い先生がいんの?」

「助手の方なんですけどね。六年カリキュラム出てここに来て、マスターを一年で修了して、そのまま助手になられて、今年で二年目だそうですよ。修士課程の一年だけで、ドクターまで取っちゃった、優秀な方ですよ」と、坊谷が解説する。

(何でこいつらこんなに詳しいんだ?)いぶかる英二。

「あ、皆さんあそこにおられますね」

坊谷、英二の疑問にお構いなく、二人をうながして会場の一隅に進む。そこには相生研究室の人々の輪ができている。「いよぅ」手を上げて合図する真田に上目づかいでお辞儀をする英二。相生教授を見付けて挨拶する坊谷と綾子。英二も慌てて相生教授にお辞儀をするが、教授、英二にちらりと一瞥をくれたところで、綾子の正体を思い出す。

「がんばってくれたまえ。あ、君が五条さんの娘さんか」

「はい、父はあそこにおりますわ」

綾子が指し示す先には綾子の父、五条勇作が教授たちに囲まれている。綾子の視線に気づいた勇作、「ん、ちょっと二~三分失礼するよ」と周囲に断り、つかつかと相生教授に向かう。うっと慌てる相生教授に、五条勇作、深々と一礼する。

「このたびは、御迷惑をおかけして申し訳ありません。娘の御指導、どうかよろしくお願いします」

「あ、いや、これが私の仕事ですから、迷惑なんてとんでもない。、私どもも、どんな成果が出るかと、あ、いやー、そのー、期待しておりまして……」

しどろもどろにごにょごにょ言う相生教授に構わず、五条勇作、娘に話しかける。

「後でA棟まで迎えに行くから、早く終わったら入り口のあたりにいておくれ」

教授に目礼をし、再び元の人の輪に戻ってゆく五条勇作を目で追いながら、英二、ぽつりと呟く。

「しかし、昼間っからビール飲んじゃっていいんかよ」

「今日は入学式ですから、勤務は午前だけです。もうお昼休みですから、お酒も大丈夫ですよ。もっとも、ほとんどの先生方は、午後もお仕事されるはずですけどね。うちの研究室も、ちょっとだけですけど、ガイダンスをやりますから、帰ったりしないでくださいね」

英二の呟きに丁寧に答えた秋野助手、手酌でぐびぐびとビールを飲む。英二、秋野助手が自分と同い年と聞いたことを思い出し、手元のジュースのグラスをみつめ、(ビールに切り換えようか、今日のところは遠慮すべきか)と考える。

「ふう」ハンケチを取り出して汗を拭く相生教授。


薄暗い喫茶店のボックス席で赤堀と石黒が密談をしている。

「石黒君、今日は入学式だろ。君は行かなくていいのか?」

「構いません」

「相生研の助教授はまだ兼任しとるんだろう」

「籍はありますが、アイリストは霧崎に任せていますんで」

「霧崎君か。彼もなかなか良くやっておるな」

「まあ、暗号解読は順調に進んでいるんですが、相生教授の自己増殖型並列思考プログラムは、なかなかの難物で、これを習得するというミッションは予定未達です」

「君もなかなか厳しいな。霧崎君ばかりに任せないで、君も手伝ってやったらどうかね」

「もちろん、みてますとも。ハードもソフトも完全にわかっているんですが、シナプス接続の初期値をどのように決めたかがわからないんです。まあ、コピーすれば良いんですけど、ゼロから作る方法がわからないと、完全に理解したとはいえませんから。霧崎が相生教授にいろいろ聞いているんですが、はぐらかされてしまって、なかなか聞き出せません。まあ、霧崎も解読作業で忙しいですから、あまり多くを要求するのは酷だとわかっているんですが」

「この任務はよろしく頼むよ。アジア情勢は風雲急を告げとるから、暗号解読の重要性は極めて高い。君達の働きは部局内でも高く評価されとるよ。今日、中国の普遍国家宣言が公式発表になるはずで、今後の動きにも目が離せない。まったく、連中は何をやらかすか、見当も付かん」

「西域の民族問題は、お手上げの状態ですな。北京に近いところまで、アラブ圏に編入されるんじゃないでしょうかね。北方ではロシアが動いていますし、南のハイテクゾーンはベトナム経済圏に痛め付けられていますから、連中もかなり追い詰められていますね」

「そいつはご愁傷様、としか言いようがないな。しかし、連中、東進政策で固まっているぞ。その中でも朝鮮半島と日本の併合が戦略の要だ。コリアは統一の後遺症から立ち直れないし、日本経済の閉塞状況も一向に解決の目処がつかない。連中にしてみれば、今は絶好の機会だ。同時に動くのではないかと、我々はみておるが」

「現在のところ、中国軍の主力は東北地方に展開しておりまして、ロシアの南下を防ぐことに注力していますから、わが国に軍事的圧力が加えられる可能性は低いでしょう。中国の東進政策は政治的攻勢に力を入れておりまして、コリアと日本へは、大分以前から、普遍国家宣言を先取りした経済的諸権利の保証を手土産に、主要企業に接近していますね。いまや、我国の経済界は完全に中国を向いており、大企業から中小企業まで、中国詣でが流行になっていますから、中国も当面、この政策を続けるのではないでしょうか」

「経済界はもちろん、与党も野党も、そっちを向いている。おまけにマスコミもだ。国論がこんなにまとまるのは、かつてないことだ。東アジアの友好だ、日本経済の閉塞状況を打破する絶好の機会だと、政治、経済、言論の三大権力が、完全に中国の手玉にとられとる。取り返しのつかないことになる恐れが多分にある」

「しかし、国内には反対も多いですから、そう簡単に、日本が中国の一自治区になるとは思えませんが」

「そりゃ多いだろう。そんなことをやった日には、農村は疲弊し、巷に失業者が溢れる。こんなことは、赤子にもわかることだ。学者連中は、独自に普遍国家宣言したらどうかなどと言っとるが、その結果も似たようなものじゃないか。いずれにせよ、中国の作戦が見事的中している状況は無視できん……主君を諌めるのも武人の務めだと、石黒君は、そうは思わんかね。一旦事を起こせば、国民の多くはついて来てくれると思うが」

「同意できませんなあ。法は国家の礎ですから、法を無視して軍が独走してはいけません。日本国民はそれほど馬鹿じゃありませんから、日本が、自主的に中国の一自治区になる可能性は、まずないでしょう。むしろ私が心配しているのは、中国が欺瞞作戦に失敗して、武力に訴える方向に戦術転換する可能性です。在日米軍の縮小に対して、国軍の増強は遅れておりますので、東アジアのミリタリーバランスは中国軍優位の状況が続いています。西域問題で失墜した政府の権威を取り戻そうと、中国が、コリアと日本に対し同時二面作戦を展開する可能性は多分にあります。国軍が下手に動けば、連中に格好の口実を与えることにもなりかねません。現在、国軍がなすべきことは、自力で対中戦を遂行するための備えではありませんか」

「うん。その点では異論ない。そこで、今日は君に来てもらったんだよ。君の提案を戦略部会に持ってったら、皆興奮しとったよ。数で圧倒する敵にロボットで対抗するという君のアイデアは、中国に対して軍事的優位に立てる、唯一の実行可能解だそうだ。対中戦の備えが緊急の課題というのは我々の共通認識だから、部局を挙げて取り組もうという話になった。そこで、ディテールについて、もう少し検討したいんだが、ちょっといいかね」

「もちろんですとも」

「まず第一に、ロボット兵は、どこに開発させるんだね。君はこのあいだ、アイリストでも可能だと言っていたが、あんな小さな所でも開発できるのかね。あまり時間は掛けられないのだが」

「メカニズムは、それほど難しくありません。既に昨年、アイリストで下半身を試作して、動作も確認しております。これに武装した上半身を乗せれば歩兵ロボットになるんですが、武器の開発を大学でするわけにも参りませんから、下半身だけで止めています。前回の試作では、ロボットの形状が少々大きくなり過ぎましたが、最近の技術を使えばもっと小型にできるはずです。予算的にも、輸送の面でも、できる限りの小型化を図るべきと考えています。このロボット、前回は霧崎が設計したんですが、最近、彼は暗号解読で手いっぱいですから、かごめ自動車を動かしてやらせたらどうでしょうかね。あそこはロボットの技術もあるし、メカの量産もできますから。かごめからアイリストに来ている研究員で、一人、暇そうな奴がいるんですが、相生教授の話では、この男、ソフトもやれるようで、この仕事にはうってつけです。武器は、軍の方で別途開発する必要がありますが、これは、ロボットのデザインが決まってからで良いでしょう。まあ、開発といっても、人間が扱う銃器を多少改造する程度で済むはずで、それほど時間も掛らないと思います。ロボットのハンドとのジョイント、電磁式トリガーとCCDスコープのインターフェースといったところでしょうかね。六ヶ月も頂ければ、ロボットも、それ用の武器も、量産に持ち込めるでしょう」

「制御はAIといってたが……」

「はい、司令部からの号令一下、ロボット自身で状況を判断し、適切な行動をとるようにします。これもアイリストで開発可能と踏んでいます。センサー類を含む頭の部分は電子回路の技術が必要ですが、これは、鳳凰堂にやらせれば良いでしょう。鳳凰堂から相生研に来ている男が,ヒューマンシミュレータという、人間の行動を計算機で真似るソフトを開発したんですが、最近は、こいつも暇そうにしてましてね。ヒューマンシミュレータは、エキスパートシステムと、人間の運動能力のシミュレータを合体させて、肉体を持ったエキスパートをシミュレートするものですが、この精神面を補強してロボットに接続してやれば,兵士の頭脳に使えるはずです」

「ほお、ヒューマンシミュレータを開発した男がいるのか。鳳凰堂のヒューマンシミュレータは、軍でも戦闘シミュレーションに使っているが、兵隊の動きもなかなか良い。ふーむ、あれでロボットを制御するのか。悪くないな」

「ヒューマンシミュレータは、あくまで、計算機の中で動いておりますから、エキスパートシステムだけで制御できるんですが、現実の世界の中でロボットを制御するとなると、もう少し人間に近い認識能力と思考能力が必要です。しかし、これにも適任者がおりまして、アイリストの今年の新入生に坊谷という男がおるんですが、相生教授の話では、何年に一度の天才だそうで、この男に思考ロジック部分の開発をやらせるように持っていこうかと考えています。相生教授は、人工知能の研究では国際的にもトップクラスですし、助手の秋野女史も、修士過程一年で博士号まで取った秀才ですから、この連中の協力を得れば、かなりのものができるはずです。こちらは、早めに開発に着手したいと思います」

「秋野って、あの、きゃんきゃん言ってた女か。そんな才女だったのか」

「つまらないことにこだわる悪い癖があるんですが、頭の方は超一流です」

「さて、技術面はいけると。そうなると第二の問題は、数百万台という大量のロボットを、いかにして秘密裏に製造するかだが」

「偽装すれば、おおっぴらに作ることもできます。警察、消防なども、ロボットの偽装配備先には適当ですけど、数がそれほどありませんし、有事の際の徴発もできませんから、ここは、老人介護を隠れ蓑にするのがいいんじゃないでしょうかね。政府の所有するロボットを国民に貸与して、平時には老人介護をさせときますが、一朝有事の際は徴発する。ロボットの知識はコピーできますから、少数のロボット兵を徹底的に鍛え上げておいて、この知識を徴発したロボットにコピーすれば、あっという間に強力なロボット軍団が誕生します」

「うーん、福祉予算で配備するわけか。徴発は有事の際だから、文句の出ようもない。アイリストやメーカーの目を欺くためにも、偽装作戦は有効だな。よしわかった。その線で取り進めてくれ。かごめには軍用車両やミサイルで太いチャンネルがあるし、シミュレータで鳳凰堂との取引も拡大しとるから、両社とも動かせる。上の方から圧力をかけておこう」

「もう一件、情報センターの話は、どうなりましたでしょうか」

「君には黙っとったが、間もなく完成だ。アイリストは元々中国の諜報機関に目を付けられていた上,週刊誌には出るわ,市議会では議論されるわで、上層部も機密漏洩をえらく心配してな、アイリストはこの種の業務には不適という判断が下りていたんだ。石黒君には申し訳ないが、国軍情報センター完成の暁には、アイリストを辞めて、こちらに完全に移ってもらいたいんだが、どうだろう」

「もちろん、構いませんとも。今だって、アイリストには、全く顔を出していません」

「そうか、それはありがたい。君のことだから、大学にも未練があるんじゃなかろうかと思ってな、なかなか言い出せなかったんだよ」

「スケジュールは?」

「現在、六本木の用地に独立施設を建設中で、建物の完成は一ヶ月後の五月中旬の予定だ。計算機は既に発注済で、建物の完成後、すぐに納入されるはずだ。石黒君には、その後を突貫でやって貰って、可能な限り早急に移管を終えてもらいたい。ハードはアイリストのコピーで、JBBSから仕様書を貰って、プロセッサの数を五割増にして発注した。解読作業は、現在、順調に進んどるから、ソフトもコピーでスタートすれば良かろう。計算機技術者を数名、君の下に付けるから、準備を始めてくれ」

「結線に少々時間がかかりますが、ソフトのコピーも含めて、まあ、一月もみておけば大丈夫でしょう。ただし、後々のこともありますので、プログラムは、単にコピーを持ってくるだけではなく、内部の処理をきちんと理解しておく必要があります」

「霧崎君には頑張ってもらうしかないな。そうそう、国軍情報センターは、その存在は公表するが、内部で行われとることは一切外部には出さない。ロボット軍団も、ここでやったらどうだろう。いずれにせよ,本件,機密の維持には充分な配慮を頼む」


アイリストでは、懇親会が終り,相生研の人達はA棟に移動する。

「Life on Information System」という標語と「Institute of Life & Information System Technology」という大学名が組み合わされた看板を見上げて英二、

「情報システム上の生命か」

「B棟では生命現象を情報システムとして解釈し、A棟では情報システム上に生命現象を再現する、裏と表の関係なんですね」

英二、驚いて横をみると、そこには秋野助手。

A棟玄関を入ってすぐ右側が相生研の会議室兼図書室兼計算機室。大きい部屋を雑誌ケースで仕切り、入口側は会議室兼図書室、雑誌ケースの向こう側には、本棚と、計算機を収めたスチール棚が並べてある。この会議室、ファンの音がうるさい。

相生教授、汗を拭きながら、集まった人たちの顔を見渡す。

「みんなそろったかね」

「あとお一方になりました」

「それじゃはじめましょうかね。自己紹介はもう済んでいるから、秋野君の方から」

「皆さんはこれから二年間の予定で論文を仕上げるわけですけど、日々の相談に乗って頂く指導員をまず御紹介します。風間さんは、かごめ自動車関連のテーマで研究されるということで、そこから出向されている真田さんに、坊谷さんは、同じく鳳凰堂の柳沢さんに指導して頂きます。綾子さんは私が直接御指導致します。午後からは講義に出られる方があるので、研究室の行事は、大体、午前中に致します。よろしいでしょうか。先生、何かありますでしょうか」

相生教授、立ちあがり、

「新入生諸君、ご入学おめでとうございます。ここは所帯も小さく、離れ小島のような施設でやっとるわけですが、その分、話も通りやすく、互いに協力し合って研究活動が遂行できる環境にあります。困ったことは教員、先輩に遠慮なく相談して、よい結果を出すようがんばってください。諸先輩方も御指導よろしくお願いします。はい、じゃあ」

鍵とプリントを配る秋野助手、

「今日は、早いですけど、これで公式行事は終りです。研究室は二十四時間、いつでも使えるようにしておきます。部屋の鍵はみんな同じですので、この鍵でどの部屋も開きます。最後に出る人は部屋の鍵をかけること、入退場時には守衛所でチェックすること、その他の注意事項も、プリントに書いてありますので、きちんと守るようにして下さい。泥棒に入られたりすると、研究に差し障りがありますからね。それでは、解散!」

部屋を出ながら英二、坊谷に、

「やあ、以後よろしく。あとお一方って、結局こなかったみたいだね」

「あれは、全員そろったって意味なんですよ」

「え?」

「在籍はされているんですけど、最近、全然お顔をおみせにならない方がおられまして」話に割り込む秋野助手。

「それじゃ僕はバイトがありますので」

帰ろうとする坊谷に、相生教授が呼びかける。

「あっ、君々、インテックスの標準プロセッサボードをもう三百枚ほど、大急ぎで見付けてくれたまえ」

「はいわかりました」

「あれ、君は一年生じゃなかったの?」

驚く英二に坊谷、

「今日から入ったんですけどぉ、入学は半年前に決まりましたんで、暇をみちゃ、ときどき研究室に顔を出して、ついでに下でバイトをしていたんですよ」

「やべー。おらなんもしてねー」

「それが普通だと思いますよ」とは、秋野助手。

話に聞き入る綾子、秋野助手の顔が多少赤くなっていることに気付き、その視線が英二を指していることをチェックして「ははーん」とつぶやく。

向うから近づく制服の男が、綾子の視野に入る。

「あ、ごめんなさい。お父様が迎えに来られましたので、今日はこれで失礼致しますわ」

「明日から研究指導がありますので、遅れないようにね」

A棟の前に横付けされた大型車のドアを恭しく開ける黒服の男。くるっと振り向いて「さよーならー」と言い、車に乗り込む綾子。


動き出した車の中で,勇作、娘に聞く。

「研究室はどうだった?」

「居心地の良さそうなところね」

「坊谷という学生には会ったかね」

「なかなか可愛い方でした」

「かわいい、か。軟弱な奴だと困るが」

「いいえ、外見に似合わず、とてもしっかりした方でしたよ」

「そうかそうか。何年に一人の天才だと相生教授は言ってたが。頭だけじゃなくて精神もできているとは、なかなか頼もしい男だな。おまえもそいう人とお付き合いをするようにしなきゃいけないぞ」

「あら、坊谷さんとは、末永く、親密なお付き合いをして頂くつもりですわ」

「そうか、それはいい。少ししたら家に呼んであげなさい。私も会ってみたい」

頭のよい孫を期待する親父の心を察して、綾子の心の声

(でも子供だからなー)


水門に続く階段を駈け下りる坊谷に、英二、

「ちょっ、ちょっと待てよ~」

坊谷、これに応えず、どんどんと先に歩き、水門前の橋を渡り車道に向かう。

「へー、こんな道があったんだ」

「登りはちょっと階段がきついけどね」

「五条綾子って、ありゃ何者なんだ?」

「親父さんがこのあたりの実力者で、ここの理事長をやっているんですよ」

「するってーと、ひょっとして裏口? 奨学金も貰ってないみてーだし」

「奨学金貰ったって、そこに就職しない場合、返さなければいけないでしょ。家が金持ちなら、こんな面倒なもの、だれも貰わないでしょう。僕も、いいかげんなところで返してしまおうと思っているんですよ。それから、今年度の募集は、なんか、市議会でごたごたがあったとかで、募集広告が応募締め切りぎりぎりまで出なかったでしょ。僕等も、研究員の人からの情報がなかったら、ここ受けられなかったわけで、だから入試は形だけで、応募者全員通ってしまったらしいですよー。彼女は親父さんが理事長だから、当然、募集情報を事前に知り得たわけだけど、それは研究員から情報を仕入れた僕等と同じ立場なんですね」

「おっとー、競争率0.9倍だったのをすっかり忘れてたぜ。さっきの話、彼女には内緒ね」

「まあ、競争率が高かった場合、果たして理事長の影響力を使わなかったかどうかは、怪しいもんだと思うけどぉ」

「さしあたり、それはなかった、と……」

「五条理事長は、ここのほとんどを仕切ってるみたいですよ。学長もいることはいるんだけど、ただのお飾りで、学外の理事もこの辺りの有力者の名誉職みたいだって教授が言ってましたよ。いろいろな会議を、忙しそうにやってはいるんですけどね」

坊谷、道を外れ、プレハブの入り口に向かう。

「えっ、これゴミ屋だけど、バイトって?」

「うん」と、英二を制止して、プレハブの中に呼びかける。「こんちわ、先生が標準プロセッサボードをあと三百欲しいって」

「今日入ったのをばらせば出てくると思うよ」と、坊谷に応えた親父、英二に向かって尋ねる。「えーっと、君は?」

うろたえる英二に親父、

「ちょうどいいから、ちょっと手伝っていかんかね。なに、ゴミ屋に頭はいらねーよ。いい体してるじゃないか。はいはい、こっちこっち。ここに、仕入れたPCがあるから、先ず蓋を取って、こっちの隅で圧空でダストを飛ばして、ボードと電源を外す。ボードと電源は坊谷にやれば、適当に仕分けしてくれるから。これからがちょっと大変で、ここでケースをプラスチックと鉄板に分けて、この箱に入れ、いっぱいになったら外の置き場持ってって、空箱と換えてくる。簡単だろ」

「は、はあ」

「鉄板の角で手を切らないよう、気をつけな」


必死にPCを分解する英二、工具の使い方は手慣れたもので、慣性を利用して貫通ドライバーを回す手付きを満足げに見守るゴミ屋の親父。英二はこれにも気づかず、取り外しに微妙な抵抗を感じたねじの傷付き具合を観察し、良品を素早くパーツケースに回収する。向うの作業台では、ボードにケーブルを仮付けし、キーボードを操作する坊谷。これも手慣れたもの。


黄昏のリサイクル団地と、その向こうに浮かぶ大学のシルエット。

「どんな調子かね?」と、ごみ屋の親父。

「プロセッサボード、二百五十ほど良品ありました」と坊谷。

「みてくれ、この山」と、英二も威張って答える。

「まだまだ、だな。ま、今日の所はこの辺で終りにしよーや。在庫も七~八十あるから、先生の注文には十分だよ。坊や、明日、朝までに三百枚まとめて、入り口んとこに、伝票と一緒に置いとくから、納品しといてくれないか。それじゃあこれは今日の分。明日も良かったらお願いするよ。君も是非頼むよ」

「はあ」と英二。


歩きながら封筒を覗く英二、

「やあ。こんなに貰っちゃっていいのかな」

「英二さんって、工具の扱い、手馴れてるでしょ。仕事も速いし。あの親父さん、そういうところをバイト代に反映させるんですよ。それから、リサイクル業って、結構美味しいみたいですよ。廃棄PC受け取るときにお金を貰って、ばらしたパーツがまたお金になる。金物はアルミ、銅、鉄、それぞれお金になるし、プラスチックは処理代取られるけど分別してあれば安いんだよね。おまけに、状態のいいPCは、中古として,そのまま売っちゃってるみたいですよ。英二さんも、今日、四~五十はばらしたでしょ。それと僕のこさえたボードで、あの親父さん、相当儲けていると思いますよ」

「しかし、こりゃ天国だね。奨学金あるから授業料要らないし、寮費は安いし、仕送り貰っているし、金の使い道に困っちゃうね。おっ、ラーメン屋。いいバイト世話して貰ったからおごるよ」


ラーメン屋では時報と共にテレビのニュースが始まったところ。

「中国は、一年後の普遍国家宣言を目標に、国内法の改正に着手すると発表しました」

「らっしゃい、そこどうぞ」

パイプ椅子をがたがたと引いて、赤いプラスチックのクッションの上に座る英二と坊谷。

「これにより普遍国家宣言諸国の人口は、来年には、人類総人口の五十パーセントを越え、国連も改組となる見通しです」

「ラーメン二つね」

「へーい」

店は繁盛しているようだ。しわの寄った親父がラーメンの玉を解しながら湯に落とす傍らで、若い調理人が中華鍋を掻き回している。賄いの女性が一升瓶を逆さまに突き立てた燗付け器からコップ酒を二杯、受け皿にあふれるように入れ、大瓶のビールと一緒にステンレスの丸盆に並べている。

「上海の前島特派員がお伝え致します。前島さん……」

「中国の今回の発表は、パレスチナの歴史的和解から大イスラム連邦の成立に至る、一連の中東情勢の変化に対応するものと、当地では考えられています」

相生教授と馬場教授がラーメン屋に入ってくる。

「あ、こんばんは。角ですんませんね」

「いや、いい、いつものやつ」

「へーい。お酒二つと、お新香」

「パレスチナ和解の条件であった普遍国家宣言によって誕生した大イスラム連邦は、中国西域の分離運動を刺激、これに対抗するため、中国も普遍国家宣言せざるを得ないところに追い込まれたものとみられています。この動きが今後、統一コリア、日本、東南アジア諸国に影響を与えることは必至とみられ、各国の対応に注目が集まっ……」

英二、聞くともなく聞いていたニュース番組が突然途切れたことに気付き、テレビの方を見ると、ラーメン屋の親父、テレビのチャンネルを切りかえている。

「一回の表、阪神の攻撃は、早くもツーアウト」

開け放たれた入口の暖簾を掻き分けて入ってきたゴミ屋の親父、教授たちの隣の席の客が勘定を頼んでいるのに気付くと、しばし、入り口の近くに立ったまま、テレビ画面に見入っている。

お絞りで顔をぬぐう相生教授と馬場教授。

「また、やっかいなシーズンが始まりましたね」

「先生の所は道具立てができているから、スイッチポンで成果ぞろぞろでしょ」

「そりゃ先生の所も同じでしょ。だけど、こっちは、これから夏にかけて悩み深き連中が出てくると思うと。まあ、先生の所はいいやね。男前が揃っているから。うちの事務員たちがしょっちゅう噂していますよ。どっちがいい男かって」

「だれが?」

「あっ、もちろん,先生のことじゃなくて、あの研究員たち」

「あの馬鹿どもか。全く、女の尻ばかり追いかけおって」

相生教授の存在に気が付いて「やべっ」と顔を隠す英二と、ふっと笑う坊や。

「何がおかしいんだよ?」

と、小声で聞く英二に坊や、

「あいつらほんとに馬鹿なんだ」

「そりゃあないだろ。一応社会人だし、一流企業だし、こういうところに派遣されてくるのって、結構優秀な人材だって聞いたけど」

「その優秀な人材ってのが、つまり馬鹿ってことなんですよ」

強打者が打席に入ったようで,店内の客の何人かはテレビに注目する。

「しかし今年の阪神、一発があります」

「そうです、油断しているといけません。昨日も一昨日も、一発攻勢でひっくり返されていますからね。ここで三タテを食らうようなことがあると、せっかくの開幕ダッシュも失速……」

「あ、打ちました……大きい、大きい、これはどうか。伸びています。センターバック、センターバック、フェンスいっぱい……取りました」

「ボール玉でしょう。せっかくワンスリーまで来たんですから、もう少し大事にしなくちゃいけませんね」

「昨日、サヨナラ打ってますからね。気合は入っていました。しかし、結果は失敗。一回表の阪神、大きなセンターフライがありましたが、三者凡退に終っています」

勘定の済んでいた先客,教授たちの隣の席で、しばしテレビを見つづけていたが,この結果を見て席を立つ。ゴミ屋の親父、すかさずその席に座る。

「先生、若いもんは女の尻追っかけまわすぐらいの元気がなくちゃだめだよ」

「やあこれは親父さん、坊谷君に頼んどいたんだが、プロセッサボード早いとこよろしく」

「明日三百お届け致します」

「そりゃ早いね」

馬場教授、話題を戻す。

「しかし,今年は学生が三人も入って,相生研究室も大発展ですな」

「茶化さないで下さいよ。ちょっと前までは、いつも赤字で責められとりましてね」

「通信会社の交換機開発を請負ってからですか? 黒字基調になったのは」

「そう、日本バックボーンサービス(JBBS)の機械ですね。石黒君たちとやっていたベースがあってのことだが、決め手は秋野君だな。あの圧縮ソフトのおかげでJBBSが食いついたんです。その後は,自転車操業ながら,なんとか黒字が続いてます」

「独立採算なんかしないでも、こちらで稼いでるからいいんだって、散々言ってあげたのに。ウチの実験設備は半分先生が作ったようなものなんだから。ソフトを作ったのも先生なら、それを動かす計算機も、先生がふんだくってこられたでしょ。最初はJBBSからプロセッサボード十万枚のシステムを貰って、その次は政府筋から八十万枚のを。あれ、金目にしたら、莫大なもんですよ」

「いやいや、馬場先生のお手伝いは、過去の技術でしてな。あんなもんで認められても嬉しくはありません。AIOSなり、自己増殖型並列思考アルゴリズムなりで評価されなくちゃしょうがありませんな」

「そう贅沢は言わんと。そっちの研究だって、ちゃんと進んでるじゃありませんか。学会じゃあ、先生、評判ですよ」

「学会の評価は、仲間内で誉め合っているようなもんですからね。研究の価値は、社会の役に立ってはじめて認められるもので、どのくらい役に立っているか、端的には金でしょうな」

「金目当ての研究も、面白くはありません」と、馬場教授。「私など、ずーっとそれだもんだから、欲求不満が溜まっているんですよ」

「金は手段で、結果です。目的は違いますよ。真理探求とかね。実際これは、謎が残っている限り追い続ける学者の本能的な行為で、要は、面白いからやっとるわけですな。わしのとこの場合、目的はいいんだが、手段と結果がないから困っとりましてな」

「そうですねえ。するってーと、秋野さんの功績大というところですか。彼女には、もう少し良い目をみさせないといけませんね。こき使うばっかりじゃなくて」

「そうだなあ。彼女には感謝しとりますよ。しかし、石黒君もこのところさっぱり来んし、研究員どもも頼りにならん。今度入った学生に期待するしかないが」
  「そういえば、今度入ったかごめの奨学生、あれもなかなかなもんだと聞きましたが、どうですか」

英二、小さくなって話を聞いている。

「うーん。目つきはなかなか鋭かったが、頭のできがどの程度だかは、さすがにまだわかりませんな。今年は、実質、無試験で入学させとりますからなあ。ただの暴走族の坊や、かもしれん」

「ありゃ、なかなかのもんです」とゴミ屋の親父。

「そろそろバスの時間ですよ」と、坊谷、英二をうながす。

英二、気付かれぬよう、手だけ出して精算を頼む。

「すいません。おかんじょう」

「へい、まいどあり」

気配を感じた相生教授,後を振り向くが,そこには暖簾が揺れているだけ。


第1章 千手
第2章 出会い
第3章 人工知性体
第4章 レイヤの誕生
第5章 レイヤの復活
第6章 レイヤの追跡
第7章 レイヤの篭城
第8章 レイヤの時代