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第1章 千手


第1章 千手
第2章 出会い
第3章 人工知性体
第4章 レイヤの誕生
第5章 レイヤの復活
第6章 レイヤの追跡
第7章 レイヤの篭城
第8章 レイヤの時代


二〇二八年三月六日――

午前8時30分、先ほどまでの人込が嘘のように消え去った郊外の私鉄駅に下り電車が到着する。ドアが開くや否や、階段に一番近いドアから飛び出して、階段を2段飛ばしで駆け上がるのは、この駅を最寄り駅とする山並市立大学院大学アイリストの助手を務める秋野洋子である。

風はまだ肌寒いけど、穏やかな春の日差しの射す駅前広場。その真ん中を、秋野は最短距離で駆け抜ける。目指すはバス停、そこに停車するバスには、わずかばかりの乗客のほとんどが乗車を終え、最後の一人がステップに足を掛けたところだ。

「こら待て!」バスが何の悪さをしたわけでもないが、秋野は思わず叫ぶ。

バス停近くの灰皿の横でタバコを吸っていた男が一人、そんな秋野をちらりと眺めると、タバコを灰皿に押し付け、バスの入り口に向かう。一見した所、工員風の、作業服を着た中年の親父だ。秋野は、その男のあとからバスに乗り込む。

(コイツは、私を待ち伏せしていたのだろうか?)秋野は考える。(それとも、バスの出発ぎりぎりまで、タバコを吸っていただけだろうか? 私をちらりと見たのは、私が変なことを口走ったからかも……)

しかし、秋野は最近、誰かに見張られているような気がするのだ。一つ一つの出来事は、それだけを見れば、別にどうということはない。見張っている、かも知れない相手は、そのたびに違う。しかし、そんなことが続けて起こると、何らかの組織が秋野の周囲に網を張り、行動を監視しているような気がしなくもない。

(まさかね)秋野は嫌な予想を打ち消すと、目を閉じて、バスの振動に身を委ねる。


やがてバスはアイリスト前に到着する。ワンマンバスの停車ボタンを押したのは秋野だが、先ほどの男も、どうやら降りる様子だ。

(こいつめ、何か良い手はないか)秋野は思案しながらバスの出口に向かう。
秋野の後を付けるように、男も席を立って出口に近づく。


バスを降りた秋野は、手にした財布をしまおうとバッグを開けるが、そこにあった花柄のハンドタオルを見て、一つの作戦を思いつく。

秋野はバッグの中で、財布を離した右手薬指をタオルの折り目に引っ掛けて、すばやく引き出すと、何食わぬ顔でバッグの口金を閉じる。

ハンドタオルは放物線を描いて秋野の後ろに落ちる。その音に気付いたように、秋野は後ろを振り向く。しかしその視線はタオルではなく、たった今、バスを降りた人達に向けられる。

このバス停、アイリスト正門前でバスを降りた人間は、秋野の他にはただ一人、作業服を着た中年の親父だけだ。その男、秋野は怪しいと目をつけていたのだが、今、タオルを落とした振りをして振り返ってみると、秋野のほうには目をくれず、坂道をとぼとぼと下っていく。

(違ったか……)風に飛ばされそうになるハンドタオルを、エイと足で押えると、上目遣いでもう一度男の後姿に一瞥をくれた後、ゆっくりとハンドタオルを拾い上げてそれをバッグにしまう。


「おはようございまーす」

元気に守衛に挨拶して、秋野はアイリストの正門を通る。大学院大学アイリストは秋野の勤務先で、相生研究室の助手を務めている。

守衛がものいいたげに笑いかけたのは、今の時刻が八時五十五分、いつもの秋野の出勤時間より三十分ほど早いからに違いない。

秋野はそんな守衛に笑いかけながら正門を通る。

(早く来ちゃ悪いか)秋野は、腹の中で、冗談半分に文句を言う。秋野の出勤時刻は、普通であれば就業開始のチャイムが鳴った後であり、職員の中では、最も遅く正門を通過することだって珍しくない。そんなことまで守衛がご存知なのは、アイリストが、職員学生合わせて百人にも満たない、小さな所帯であるからに他ならない。


アイリストの敷地は、裏山と遊水池に挟まれた狭い細長い土地が全てであり、正門を入ってすぐ右手に秋野の職場のあるA棟が、その先にもう一つの研究棟B棟が建っている他は、正門横に並んでいる守衛所と、小さな建物が二、三建っているだけの小さなキャンパスである。

(ま、ここまで来れば、一安心)秋野は緊張感を緩めながら、A棟の扉を開ける。


九時三十五分、キッチンに集まってコーヒーを片手に世間話をしているのは、相生研究室の全メンバー、相生教授、石黒助教授、秋野助手の三名だ。

「視線を感じるってよくいいますよね。あれは、どういう現象なのかしら? 私、テレパシーなんか信じないんですけど、最近、視線を感じることが時々あるんですよ」秋野、新しい話題を提供する。

「そりゃ、一種の錯覚だね。仮に誰かが秋野さんを見つめていたとしても、光は、秋野さんから観察者への、一方通行のはずだからね。まあ、過剰なる自意識のなせる業だろう」

日頃から超自然現象を嫌っている相生教授は、秋野の話を面白くなさそうに否定するが、石黒助教授は別の観点から切り込んでくる。

「自分を見つめる目だとか、自分の動きに同期した他人の動きなどは、見られている側の五感でキャッチできますから、誰かが自分に注目していることは検知可能です。これは、原始的知覚能力として、原人が荒野で動物たちと対峙していた頃に獲得された能力じゃないでしょうかね。このような情報処理が無意識のうちに行われているとしたら、意識にあがるその結果は、『視線を感じる』ということになるはずですね」

「実際の感覚じゃあないけど、脳での情報処理によって作られた特殊な感覚ってこと?」

「それほど特殊でもありません。受容器のインパルスが、直接、我々の意識に上がってくるってのも、もちろんあるんですが、痛みとかね、でも、たいていの感覚は、何層ものニューラルネットを経由して上がってくるわけですから同じです。だからそいつは、ちょっと説明の付かない、抽象的な概念であることもあるわけでしてね。美とか、春の訪れとか、これは旨そうだとか、秋野さんも、いろいろ感じるでしょう」

「それにしても、何者かが秋野さんを監視しているようだ、ということですか?」相生教授、劣勢な議論に素早く見切りを付け、話題を切り替える。
「秋野さんなら、通行人が振り返ることだって、ないとはいえないですけど」石黒は気楽に言う。

「そういうのとは違うんですよ。誰かに見張られている、っていうかー」
「実はわしも、時々尾行されているような気がするんだが」と相生教授。「誰かが千手を狙っとるのでなければよいが」

「尾行ね。私も尾行されているんじゃないかと思いますよ。通信業界は、おかしな会社も多いみたいだから、気を付けた方がよいかもしれないわね」

「まさか。ウチに狙われるようなものはないはずですよ。千手の構成は、先月号の論文誌に出してしまったから秘密はないし、千手本体は、相当なお金が掛っていますけど、あれだけ大きなものはとても盗めない。悪さをしようと思っても、手の出しようがありませんね」

「破壊するっていうのもあるぞ。我々のライバルやJBBSと張り合っている会社が、そういうことをせんとも限らん」

「窮鼠猫を噛むということだってありますからね。用心に越したことはない」
「そういえば、一番やくざなのがJBBSだという説もありましたねえ。築城の秘密を知った大工みたいなことにならなければ良いですけど」

「千手を作れば終わり、というわけではないからなあ、我々も、もう少しの間は生かしておいてもらえるさ」

「恐ろしいことをいわないでよ。いくらJBBSでも、私たちの口を塞いだりはしないと思いますわ」

「おはようございます」JBBSの曽根研究員が、突然キッチンに顔を出す。「ウチがどうかしましたか?」

「いやなに、曽根さんは、千手を狙うようなところに心当りはありますかな? 当研究室の職員が、何者かに尾行されている兆候があるんだが」

「そりゃあ、ウチ以外の通信会社には、千手は痛手でしょうね。先生方が論文を書いてしまいましたから、我々が何をやっているか、業界で知らないところはありません。発表は自由って契約ですから、もちろん構わないんですけど、ちょっと時期尚早だったかもしれませんね。あんなのが出てしまったら、千手を爆破したいと考える連中がぞろぞろと現れますよ」

「穏やかじゃないねえ」相生教授、急に心配になる。「守衛には注意するよう、いっといた方が良いかな……」

「もっとも、各社、表向きは合法にやってますから、あまり乱暴なことはしないでしょう」

「ガードマンが巡回しているし、各種セキュリティセンサーが設置されていますから、そう簡単に爆破なんてできんでしょう」石黒も、曽根に同調する。「先生方の弱みを握って、恐喝する、なんてのはありそうですけどね」

「わしは、握られて困るような弱みは、何もないよ」相生教授、困惑気味に石黒の発言を否定する。「秋野さんは大丈夫だろうね」

「馬鹿なことをいわないで下さい」秋野も大丈夫そうだ。「それより、試運転を始めた方が宜しいんじゃないですか」

「そうですね、まもなく十時ですから。でもその前に、簡単に打ち合わせをさせて頂いて宜しいでしょうか」

「もちろん結構ですよ。会議室に移動しましょうかね」

四人は、それぞれがコーヒーマグを片手に、A棟玄関を入ってすぐ右手の大きな部屋に移動する。

この部屋の会議室部分は、入口に近い三分の一ほどの、大きな白い会議テーブルとホワイトボードが置かれた部分である。その奥は、書棚とスチールラックで仕切られて、図書室と計算機室として利用されている。四人は、それぞれ思い思いの席に付く。席に付くや否や、曽根研究員は、ホワイトボードに線を書き、説明を始める。

「JBBSの基幹バックボーンは東名高速沿いに敷設されているんですが、ピットが満杯になっておりまして、新規のケーブル増設には、バイパス線のピットを利用することに致しました。アイリストの北側を通っている高速道路ですね。この他に、日本を横断する幹線も、アイリスト裏山の高圧線の下に埋設されております。この双方の幹線に近いということで、アイリストさんにデータ交換局を設置させていただくことになったわけです。ここまでは、以前にご説明しましたよね」

「秋野さんの圧縮ソフトを利用して、ケーブル容量を節約したい、ってとこまで聞いておるよ」

「説明が重複して申し訳ありません。で、バイパスには、本線のほぼ二倍のケーブルが、既に敷設を完了しております。双方の幹線は、バイパス横の端子小屋に引き込みまして、そこから千手機械室までの配線工事も完了しております」

「それも聞いておる。この間、ピットの工事に来た連中に説明を受けたよ」

「すいません、段取りが悪くて。で、バイパス線は有明の本局と名古屋局の間を結んでおりまして、さしあたりの千手の交信先は、この二局ということになります」

「これは初耳だね」

「いいえ、そのお話も伺っていますわ。有明本局と名古屋局には、デコーダをお送りしましたし」

「そういえばそんなことを言っとったね」

「たびたび申し訳ありません。で、その二局にお願いして、本線からバイパス線に、データ経路を切り替えて貰うよう、手配致しました」

「いきなり全部切りかえるのかね。何かあったときには、大混乱になると思うが」

「データ交換局は、通信状況を常時監視しておりまして、トラブルが検出されたら、瞬時にルートを切り替えるようになっておりますので、多少のことがあっても、自動的に対処できます」

「三月ほど前に、なんか、大騒ぎしてたじゃないか」

「去年の大晦日ですね。あれは、ウチではないんですけど。トラフィックが重い時にトラブルが重なると、連鎖反応的にトラブルが拡大する場合があります。自動切換えが裏目に出るんですね。滅多にないことですけど」

「それで、千手はどうするかね?」

「まあ、大丈夫だとは思うんですけど、万が一、何かあったら大変ですから、最初は負荷を下げてテストすべきでしょうね。明日の朝までは、トラフィックの十パーセントを千手に回す、ってことでどうでしょうか?」

「その方が安全だな。後は、様子をみて、徐々に負荷を上げれば良いだろう」

「千手の負荷は、ログに残るようにしておきましたから、これをみて、どうするか決めたら良いんじゃないかしら」

「そのデータ、貴重ですね。報告書に入れといてください。本局と名古屋局にも、トラフィックのデータを送ってもらうようにしますんで。実験の方針は、そんなところで宜しいでしょうか?」

「千手の段取りはどうなっておるかね?」

「プログラムは全部準備してあります。コンソールのキーを叩くだけで、一発で動くはずですよ」

「それでは、以前からの計画通り、実験は本日十時スタート、五十時間の連続運転を目標にしたいと思います。当初は有明・名古屋間のトラフィックの十パーセントを千手で処理し、実験開始二十四時間後の明日午前、千手の負荷状況を勘案して、処理量の増加を試みる、とこんなところで宜しいでしょうか?」

「妥当な線でしょうな」と、これは石黒。

「えーっと」秋野、疑問を一つ口にする。「アイリストで圧縮しても、本局からここまでは、非圧縮で来るわけですから、ケーブルの節約にはならないような気がしますけど、単なる実験という位置付けなんでしょうか?」

「いえいえ、片道だけですから効果は半分ですけど、ちゃんと役に立ちますよ」曽根が解説する。「上りは、アイリストから本局まで、下りはアイリストから名古屋まで、圧縮データが運ばれますので、往復分の半分は圧縮されるわけです。通信量で二十五パーセントほどの節約になります。これだけでも、ケーブルコストを考えたら、相当な経費削減になります」

「ああ、たしかに」

コーヒーを飲みながら、更に二三の会話が交わされた後、全員、コンソールルームに移動する。コンソールルームは階段の右側、キッチンの前の廊下を少し進んだところの、頑丈なドアの向うにある。ドアに掲げられた「機械室/関係者以外立入禁止」と書かれたプレートをみて、曽根研究員は満足げに微笑む。

灰褐色の厚手の絨毯をダウンライトが朧げに照らすゆったりとした部屋は、計算機のコンソールルームというよりは、劇場か美術館の雰囲気だ。中央部には、コンソール卓が一つ、他から離れてぽつんと置かれている。

秋野は、さっさとコンソールチェアに腰掛け、キーボードに手を伸ばす。秋野は、相生研究室の助手を務めてまだ一年足らずだが、最近では、この研究室の計算機の操作一切を任されている。

秋野の後では、この研究室の相生教授と石黒助教授、そして、クライアントであるJBBSの曽根研究員が、秋野の椅子を取り囲み、ディスプレー画面をみつめている。

「システムに問題はないかね」相生教授が聞く。

「全て正常。いつでも起動できます」秋野が応える。

相生教授は、壁の掛け時計に目をやる。文字盤の上を長針が動き、十時三分前を指す。

「そろそろ十時だ。起動したらどうかね」

「どうせなら、十時きっちりにスタートしましょう」曽根は、相生教授の提案に異を唱えるが、少し失礼な言い方であったかと思い、付け加える。「その方が、稼動時間がわかり易いですから」

「あと一分三十秒です」コンソール卓の前に座った秋野助手、曽根研究員の提案をあっさりと受け入れて時を伝える。クライアントの提案は絶対だ。

「五十時間というと、二日後の正午、ということになりますな」石黒は気楽な口調で、他人事のように確認する。

コンソールルームには、多少緊張した雰囲気が漂う。相生教授は時を刻む掛け時計の秒針をみつめ、曽根研究員は腕時計をみつめる。秋野助手は、コンソールディスプレーの端に表示された時刻のデジタル表示をみつめている。

「あと三十秒」秋野、そう言うと、思い出したように付け加える。「スタートのキーは、私が押しても宜しいですか? 曽根さんか、相生先生が押されますか?」

「わしは良いよ」

「そんな大げさなものじゃありませんから、秋野先生、お願いします」

「わかりました。あと十五秒です……十秒前……五秒前、三、二、一、ゴー」

秋野が、予めコマンドを打ち込んでおいたコンソールのリターンキーを押すと、ひゅーんという音と共にいくつものディスクドライブが回転を始め、千手へのプログラムのロードが開始される。

秋野はコンソール卓に張り付いてディスプレーを覗き込む。その他の人は、コンソール卓を離れ、コンソールルームの奥の壁面全てを占める大きなガラス窓に顔を近づける。

ガラスの向うは、地上二階、地下三階をぶち抜いた巨大な機械室だ。そこに整然と並ぶラックに納められた合計三百二十万枚のプロセッサボードは、秋野の指令に従って、下の層から上へ、左から右へと次々と起動し、無数のLEDの赤い光が、それぞれの階を端から端まで掃くように点灯していく。ガラス窓に顔を押し付けた教授たち、この光景をうっとりと見蕩れる。

「ただいま、全てのボードが起動しました。時刻は十時一分四十秒です」コンソールディスプレーをみつめて、秋野、そう報告すると、傍らの紙に書き付ける。

「データ流しても宜しいでしょうか」曽根研究員は、相生教授に聞く。

「秋野さん、良いですね?」相生教授は、秋野に確認する。

「システムは全て正常です。いつでもどうぞ」と秋野助手は答える。

「ここは、携帯使っても大丈夫ですよね」曽根研究員、秋野に確認すると、携帯電話で本局を呼び出す。「こちらアイリストの曽根です。千手のテスト準備が整いましたので、回線の切り替えをお願いします――はい、手順は予定通り、変更なしです」

曽根研究員、顔を携帯電話から離して秋野に伝える。

「間もなくデータが来ます」

「あ、ロード、上がりました。けど、まだ一パーセント。おかしいですね。あまり上がりませんね」相生教授と石黒助教授の顔に一瞬不安の影が射す。

「本局、応答願います。今、何パーセント? わかりました。どうも」

短い電話が済むと、曽根研究員がみんなを安心させるように言う。

「既に十パーセントこちらに回したとのことです。名古屋局でも正常動作を確認した、とのことです。デコーダも正常に動いていますね」

「すばらしい」と石黒。

「まだ、上りが残っています。今切り替えたのは、下りだけですから」

「いつでも切り替えどうぞ」と秋野。

曽根は再び携帯電話のキーを押し、今度は名古屋局を呼び出す。

「名古屋局。こちらアイリスト、曽根です。切り替え宜しく願います――はい、十パーセント了解。ACK確認ですか。ありがとうございます」曽根は、名古屋局との短い会話を終えると、相生教授たちに伝える。「上りも十パーセント、こちらに回しました」

「えーっと、ロードはまだ一パーセント程です。予想よりも大分低いですね」

「ちゃんと伝わっておるのかね」

「上下線とも異常なしです」携帯電話で逐一状況を確認している曽根が応える。
「ちとオーバースペックだったかな」と相生教授。

「こんなもんかも知れませんよ」石黒は暢気に言う。「負荷が軽い間は、資源の割り当てが効率的にいきますから」

「さて、あとは五十時間、ひたすら見ているだけですか。今日の昼間のところは、秋野さんと石黒君で宜しいかな。夜の部は私が引き受けますから」

「ええ、結構ですよ」と秋野。相生教授に続いて石黒も部屋に引き上げ、結局、秋野が一人で千手の監視をすることになる。

秋野助手をコンソールルームに残して二階の自室に引き上げた相生教授、石黒を部屋に呼び込み、相談をする。

「先ほどの尾行の件だが、何か手を打った方が良いのではないかね」

「この程度のことでは、警察に相談しても、相手にしてもらえんでしょう」

「何か起こってからでは手遅れだからなあ。わしはこの年だからどうでも良いが、秋野さんは、嫁入り前の娘さんだからなあ」

石黒、笑いを堪えていう。

「彼女は、見掛けによらずタフですよ。素手で勝負したら、私だって負けるかもしれませんよ。なにしろ彼女、ボクシングで鍛えてますからね。木刀を持たせていただければ、負けやしませんけど」

「君等は一体何をやっているのかね。しかし、ボクシングができたぐらいで、どうなるもんでもないと思うが」

「そうですね。まずは、尾行している連中の正体を突き止めるべきでしょうなあ。今晩、先生は徹夜されますから、秋野さんの帰りを私が調べてみます。尾行している連中を見つけたら、逆に尾行して、正体を突き止めましょう」

「大丈夫かね」

「犯罪なんて、そうそう起こらないもんです。気のせいじゃないかと思いますけどね。あるいは、秋野さんに見合いの話が進んでいて、先方の親御さんが調査をしているとか」

「まさか、そんな話、聞いておらんぞ。ま、あっても不思議はないが。それじゃあ、申し訳ないが、石黒君、よろしくお願いします」

相生教授と別れて助教授室に入った石黒、ドアを閉めると、何も書いてないコピー用紙を一枚デスクに置き、ボールペンを指に挟むと、くるくると回す。これは石黒が考え事をしている時のいつものスタイルだ。

石黒は、少しの間、ボールペンを回したり、コピー用紙に何か書き付けるが、やがて受話器を取り上げ、番号ボタンを押し始める。が、すぐに受話器を戻し、立ち上る。

コンソールルームでは、秋野がディスプレーに表示される数字と格闘している。

「どんな調子ですか?」秋野の後に立った石黒が聞く。

「異常はありません。だけど、この数字、読みにくいですねえ。変動が激しいし。後でログをまとめるのが大変そう」

「リアルタイムでレポートするようなプログラムは作れませんか?」

「ああ、そういうの、いいですねえ。明日の朝までに作っておきます。処理量と計算機の負荷の変化はグラフにしましょう」

「ところで、朝話していた、視線を感じたってお話ですけど、いつどこで感じたんですか?」

「先週の後半からあちこちで。電車の中とか、改札口を出るときとか、歩道橋を渡るときとか。誰かに見つめられているような気がして、そっちを見ると、誰も見つめたりしていないってことが、しょっちゅうあるんです」

「それは、今日まで続いているんですか?」

「今朝の怪しい奴は、私の気のせい、だと思います。昨日は変でしたね。大体、帰り道で感じることが多いのですね」

「なるほど、気のせいではなさそうなケースもある、と……ちょっと考えてみましょう」

石黒、自室に戻ると、受話器を取って番号ボタンを押す。

「赤堀中将をお願いします」少し待つと、相手が出たようだ。「石黒です。はい、千手は順調に動き出しました。お電話致しましたのは、ウチの職員、相生教授と秋野助手が、先週後半から何者かに監視されているようだと言っているんですが――あ、そちらで――信用を。はい、既に止められたと――それはおかしいですねえ。もう一つ、別の組織も、秋野さんを監視しているということですか――はい、私も今日の帰りは秋野さんを付けてみようかと――はい、はいわかりました。よろしくお願いします」

赤堀中将の配下の者、すなわち国軍が秋野助手を監視していたことは確かなようだ。しかし、それは既に終了しており、昨日も誰かに監視されていたことが事実なら、他の者が監視しているに違いないという。しかし、赤堀は、この件は独自に調べたいと言い、石黒が関与することには難色を示した。

(赤堀にも何か考えがあるのだろう)石黒にはその背景はわからないが、この問題に関る計画をあっさりと中止することにする。


同日夜九時、都内の瀟洒なマンションの一室――

秋野、新聞をちらちら眺めながら猛然と夕食を掻き込む。母の差し出す味噌汁に、箸を持ったままの手を上げて謝意を表す。

「あなたは良いわね、それだけ食べて太らないんだから」

「んなことない。私だって苦労してるんだから。南中台のジムでしょっちゅう汗流してるのよ。最近ちょっとご無沙汰してるけど」

「コンピュータ、できそう?」

「一応できた。今テストしているけど、多分大丈夫なんじゃないかしら」

「大学で交換局作っちゃうなんて、時代も変わったものね。JBBSは、ウチのお得意だったのよ」秋野の母は、大手コンピュータメーカに勤め、在宅でソフトウエアを担当している。

「高速計算機は、結構昔から大学でも作っていたのよ」

「けど、自分たちが使うためでしょ。よその会社に納めちゃうってのは凄いよね」

「まあ、作ったっていったって、プロセッサボードを並べて、光ファイバーで繋いだだけだからね。ハードこさえるのに特別な技術は要らないから、誰にでもできちゃうんじゃないかしら。今の奴も、二台目からはJBBSが自分で作ると思うわ」

「私の会社、ハードの比率が大きいのよね」

「ハードはもうないんじゃない? でも、お母さんのやってるのはソフトだから、当分安泰よ」

「そのうち、日本でハードやってるところは、ゲーム機メーカだけになっちゃうんじゃないかしらねえ」

「鳳凰堂ね。よくインテックスなんかと勝負する気になったわねえ」

「プロセッサボードまでやるのは、ちょっと無茶なような気がするけど、ネットで仕様を決めたり、なんか、道楽でやっているようなところがあるわね」


その鳳凰堂、午後九時ともなれば人影も疎らな開発室だが、杉本第二開発部長は、先ほどから長い電話を掛けている。

「はあはあ、見積に間違いはないと。しかしですね、プロセッサボードは二百五十六枚入っていますけど、計算機としては一台ですからね。マルチチップマシンと同じに考えていただくわけにはいきませんか? ええ、つまりOSの価格も一台分ということで。ああ、もちろん、お値段の方も、それなりに設定していただいて構わないんですが……はあ、左様で」

電話を切った杉本部長に、部下の柳沢が心配そうに尋ねる。

「やはり駄目ですか」

「無茶苦茶な話だなあ。まける、といっているけど、百分の一には程遠い」

「負けるが勝ち、ですね」

「君、それは外しているぞ。マルチプロセッサボードのマシンは、自前でOSを何とかしないと、商売できない。君の仕事が一つ増えるなあ。大仕事だ、これは」

「相生先生のAIOSですか。フリーの奴じゃあ駄目なんですか?」

「フリーの奴はライセンスの問題があるからな。ただなのは良いんだが、ユーザに中身を覗かれると困る。相生研の基本ソフトは先々有望と考えて、研究費出してレポート貰っていたんだが、そう、のんびりした話でもなくなってきた」

「アイリストのレポートは毎月読ませて頂いてるんですけど、AIOSも思考ソフトも、芸術品みたいなもんで、相当に難解ですよ」

「何とかしてくれよ。OSが貰えれば、委託研究費なんて安いもんだ」

「まあ、向うに行ったら、いろいろと勉強させていただきますけど」

「さしあたりは、コピー頂けば良いんだが、いずれはメンテもできるようにしとかんと。こちらにも解析チームを作る必要があるだろうなあ。この連中との連携をよろしく頼むよ」


同じ頃、JBBS、日本バックボーンサービス技術部のフロア―は、蛍光灯が煌煌と灯り、多くの社員が忙しそうに働いている。大きな窓の外には、航空障害灯を点滅させて不規則に立ち並ぶ大小の高層ビルが望まれ、下を見ると、夜の闇に包まれた黒い大地に、無数の小さな光が輝いている。

「曽根君、千手はうまくいっているようだね」高峰技術部長が、デスクの脇に立った曽根研究員に言う。「ここだけの話だけど、四月からあれを全国展開することにした」

「それは、危ないんじゃないですか。あれはまだ研究段階です」

「待ったなしだ。それとも、開発は全て順調という君の報告に、なにか、抜けている点があったのかね」

「千手の開発は全て順調です」予期せぬ展開にも動揺を抑え、曽根研究員が静かに応える。「しかし、テストは今日、始めたばかりですし、全国展開となると、いろいろと問題が出て来ると思います。技術者も必要ですし」

「全国展開は施設部がやるから心配するな。君は技術面をサポートして呉れれば良い」

「それにしても、もう少し様子をみた方が良いんじゃないでしょうか。予期せぬトラブルが起こらないともいえません」

「千手が通信コストを半減するというのは事実なんだろう?」

「もちろんです」

「そういうのを破壊的技術革新(ディスラプティブ・イノベーション)というんだ」諭すように高峰部長が言う。「他社に先を越されたら我々はアウト、という意味だな。本家のアイリストは我々が押さえているが、そんなことで安心するわけにはいかん。原理は全て公開されているから、誰だって、その気になれば開発できるんだ。金はかかるかもしれんが、自前で開発した方が、大学なんぞにやらせるより、余程速いってことだってある」

「……」

「君は、明日もアイリストに行くとか言っとったね」手帳を開きながら高崎部長が聞く。

「はい、明日も十時にアポを入れてます」

「明日は私も同行しよう」手帳を見て、高峰部長は即決する。「新しい技術にリスクがつきものだということは、私も理解しているさ。しかし、四月から全国展開といったって、すぐに全国で機械が動き出すわけでもない。工事は順にやるわけだし、今発注しても、一つ目のハードがそろうに二月はかかる。その間にバグ出しをして、ソフトの修正をしておけば良いじゃないか。そういった決断ができるものかどうか、相生先生の感触を確かめておきたい」

「部長が行かれるのは賛成です。機械も見ておいて頂きたいし、先方の理事長も、一度お会いしたいと言っておられましたから」

「そうだな。契約の件も、直接お話し、しておいた方が良いな。アイリストさんには、ご面会の件、連絡しといてくれ。それから、四月から千手を全国展開するという話は、まだ決まっていないし、やるとしても、先方には極秘だからな」

(連絡? こんな時間に)と、曽根は一瞬考えるが、今晩は相生教授が徹夜で千手の監視をすることになっていたことを思い出し、自分のデスクに戻って受話器を取り上げる。


翌三月七日の朝―― アイリストの千手コンソールルームでは、パソコンも壁面ディスプレーも電源が切られ、コンソール卓のディスプレーだけが、刻々と変化する数字を表示し続けている。

コンソールルームの一隅には、中央に流しが組み込まれた、しゃれたカウンターテーブルがあり、シンクに張られた水の中に、ラーメンの丼が沈んでいる。カウンターテーブルの上には、ステンレスのトレーが置かれ、そこに、氷が溶けてしまったアイスペールと、これとおそろいの水差しと、グラスとブランデーのボトルが一本置かれている。

先ほどから聞こえていた鼾の音がぴたりと止み、「うーん」という声がカウンターテーブル横のソファーから聞こえる。ソファーの上で毛布に包まっているのは、この研究室の責任者、相生教授。上体を起こして周りを見渡すと、ソファー横の応接テーブルに置かれたデジタル時計の蛍光表示が目に入る。時刻は午前八時五十二分である。

「いかん。もうこんな時間か。この目覚まし、音が小さくて役立たんなあ」

相生教授、ぶつぶつと呟きながらソファーから起き上がると、毛布をたたみ、シンクの水を抜き、食器をキッチンに運ぶと食器洗い機に放り込んでスタートボタンを押し、歯を磨き始める。相生教授、歯ブラシを口に突っ込んだまま、コンソールルームに戻り、ディスプレーを覗き込んで満足げな笑みを浮かべると、再度、キッチンまで行ってコーヒーメーカーの準備を始める。コーヒーメーカーのセットが終ると、今度はキッチンの流しで口をゆすぎ、髭を剃り、顔を洗う。顔を拭いたところで時計を眺めると、時刻は八時五十七分。

「セーフ、だな」

アイリストの始業時間は、一応、九時ということになっているのだが、相生研究室で始業時間を几帳面に守っているのは、相生教授ただ一人、研究室のメンバーが集まるのは、だいたい九時半頃だ。

相生教授、本日一杯目のコーヒーをマグに注ぐと、棟内を歩き回り、扉という扉を開け放つ。よく晴れた三月の朝の空気が、爽やかにA棟内を駆け巡る。

コーヒーマグを手にした教授がA棟玄関を出たとき、アイリストの始業時刻を告げるチャイムが鳴り響く。教授、大きく背筋を伸ばすと、あたりの景色を眺め遣る。A棟正面、遊水池のこちら側に植えられた桜は、まだ花をつけるに早い。その枝に数羽の小鳥が止まり、忙しげに動き回っている。

「今日は良い天気だ」

誰にともなく小さな声で呟くと、相生教授は、コーヒーマグをベンチに置いて、自己流の体操を始める。


相生教授が目覚めた頃、緑の多い丘陵地帯を縫うように、一台のバスが高速バイパス線を走っている。

穏やかに晴れ上がった空の下、そこここに植えられた花木は、まだ本格的な開花シーズンには早いものの、所々に可憐な花を咲かせている。

  空席の目立つ車内、後部座席に座り車窓を流れる景色をぼんやりと見詰めているのは、秋野助手、一見、放心したようでもあるが、実は、これから買うべき食料品の検討に余念がなく、時折、手元のメモ用紙の食料品リストに追加の書き込みをしている。

  バスはやがて南中台センターに到着する。普段なら次の停留所、アイリスト正門前で降りる秋野も、席を立って、バスを降りる乗客の列に続く。

  南中台センターのバス停周囲は、大きな専門店の建ち並ぶショッピングモールになっている。これらの店は、品数も多く、低価格を売り物にしていて、周辺の住宅地から自家用車で来る客も多い。

  まだ朝の九時を少し回ったところだが、停留所の真ん前の巨大なスーパーマーケットは既に開店しており、幅を広く取られた入口に、大勢の客が吸い込まれていく。秋野もその人達に混ざり、スーパーの中へと流れ込む。


  インスタント食品で膨らんだビニール袋を下げ、秋野はアイリスト裏門に向かう。

南中台センターからアイリストまでは、歩いても、数分の距離だ。

  高速バイパス線の橋の下を過ぎると、道は二手に分かれる。右側の道を行けば、すぐ先がアイリストの裏門だ。

  Y字路を左へ行くと、道はアイリストの敷地と遊水池を大きく迂回し、アイリスト正門前を経て、南中台下の古くからある住宅地へと向かう。ここには、相生教授と馬場教授が隣り合わせに住んでいて、アイリストの学生寮もその近くにある。秋野も、アイリストの学生時代には、一時、学生寮のお世話になり、南中台下に住んでいた。

  南中台下からアイリストに来る途中には、かなりきつい上り坂があるが、毎日の往復は良い運動である。この道にはバスも走っているのだが、高々三停留所の区間に、わざわざバスを使う必要もない。六十近い教授達も、雨でも降らない限り、歩いて通っている。

  秋野が都内の実家から電車で通うようになってからは、アイリスト正門前でバスを降りるのが普通だ。このバス停の目の前が、文字通り、アイリストの正門であり、秋野の仕事場であるA棟は、正門を入ってすぐのところにある。自宅から地下鉄の最寄駅も目と鼻の先であり、地下鉄は私鉄に乗り入れている。このため、普段の秋野は、ほとんど歩かなくて済むことになる。

  これではまずいと、秋野は時々、南中台センターでバスを降りる。今日のように食料品の買出しを頼まれたり、文房具や工具の類の調達を頼まれて、センターのショッピングモールに寄るときはもちろんだが、なにも用がない日も、天気の良い気持ちの良い日には、一停留所分歩くのが日課だ。

  秋野が歩くのには、健康維持という、わかりやすい目的以外の楽しみもある。アイリスト裏門前のY字路あたりから眺める光景は秋野のお気に入りのもので、初めてこれを見た時は、「まあ、どこかに来たみたい」と、思わず口に出したものだ。南中台一帯は、開発が進んで、住宅やアパートが立ち並ぶ殺風景な地域だが、この辺りだけは、奇跡のように、自然の景観が残り、四季折々の姿で秋野を楽しませる。

  アイリスト裏門前のY字路を左にちょっと行った所には橋が架かっていて、その下を流れる小川は、何段もの堰を超えて遊水池に注いでいる。遊水池は、大雨の時以外は常に空の状態に保たれ、流れ込む水は遊水池の中央を走る水路で、遥か先の水門まで導かれる。

  水路も、橋も、遊水池の周囲も、無愛想なコンクリートで固められているが、遊水池の底には、季節に応じて、ススキやセイタカアワダチソウあるいはヒメジオンの類の雑草が、広大な遊水池の底全体に、一斉に花を咲かせる。堤防の周囲には桜が植えられ、道路を隔てた向う側には、樹木の生い茂る山が連なっている。

  心持ち歩を緩め、お気に入りの景色を楽しんでいた秋野だが、今日は余計な物体を目にしてちょっと気分を害する。遊水池の向う側に続く道路の路肩に、見馴れない一台の乗用車が駐車している。せっかく楽しみにしていた自然の光景に、余計な人工物が紛れ込んでいるのが、秋野には面白くない。しかし、この道は公道であり、その自動車が駐車している辺りは、駐車ができるように、わざわざ路肩の横に砂利の敷かれた部分が設けられている。そこに駐車する自動車に、秋野としては文句をつける筋合いもなく、不愉快な思いを、すぐに頭から振り払う。


  秋野は気付かずに通り過ぎてしまったが、その乗用車の車内で何が行われているか知っていたら、とても見過ごすことはできなかっただろう。

車の後部座席の窓は少し下がっており、その隙間の中で、高倍率の双眼鏡がアイリストの方を向いて動いている。車内では三人の男が低い声で話をしている。

「一応のセキュリティシステムはあるようだが、警戒はそれほど厳重ではないな」

双眼鏡が年配の男から若い男に渡される。若い男は、気短に、あちこちと視線を走らせる。

「守衛所の視界が広いのが気にくわねーな。遊水池側からの出入りは難しそうだぜ」

「裏山から入れば、建物の影になるさ」

「テレビカメラがそこら中にあるし、ドアにはセンサー、付いてるぜ」

「それ、私の商売ね。殺すの訳ない」第三の男が言う。

双眼鏡の男は、興味本位に秋野の姿を追う。

双眼鏡で見つめられているとも知らない秋野は、アイリスト裏門の門柱に取り付けられた小さなスチールボックスを開け、中に設置されたカードリーダに職員カードを通す。自動的に開く鉄扉を通り、秋野は、遊水地の光景を楽しみながら、アイリストB棟の脇を過ぎ、A棟に向かう。双眼鏡は、そうした秋野の姿を追いつづける。

「何を見ているんだ」運転席の年配の男が、双眼鏡を覗く男に尋ねる。

「女が一人、歩いている」若い男は、双眼鏡を運転席の男に渡す。

「何をまた、つまらんものを」

俺に馬鹿げたことをさせるのではない、と若い男をたしなめつつも、多少の興味を感じたか、年配の男は双眼鏡を受け取り、運転席横の窓を少し開け、目に当てた双眼鏡をその隙間に合わせる。しかし、すぐさま驚きの表情を浮かべ、双眼鏡を若い男に返しながら言う。

「おいおい、あれはターゲットの一人じゃないか。感づかれるとまずい。引き上げるぞ」


A棟は、玄関を入ると正面左手に階段があり、階段の右側がキッチンになっている。秋野がインスタント食品の詰まったビニール袋を手にキッチンに入ると、そこでは、昨夜からアイリストに泊まり込んでいた相生教授がコーヒーを淹れている。

「あら先生、お疲れさまです」

「また一杯買ってきたねえ」

「今晩の石黒さんの分もありますからね。先生はサンドイッチをどうぞ。置いとくと硬くなっちゃいますから、お早めに召し上がった方が良いですよ」

「やあ、ご馳走になるよ」

「千手(せんじゅ)の調子はどうですか?」

「ちゃんと動いておるよ。細かいチェックは君に任せるが」

「モニタープログラム、グラフが出るようにしてきました」

「そりゃ良いね。もう少しするとJBBSさんが来られるから、それまでに、見て呉れのいいようにしとかないといかんからな」

JBBS、日本バックバーンサービスは、情報通信業界で最近急成長した新興企業で、千手の発注元だ。

サンドイッチを頬張り、コーヒーを流し込む相生教授を尻目に、秋野はコンソールルームに向かう。

キッチンを出て左奥のドアを開けると、そこはコンソールルーム、明りを落とした室内には灰褐色の絨毯が敷かれ、パソコンとコンソール卓がゆったりと置かれている。入口正面の壁は一面のガラス張りになっており、向う側の機械室が一望できる。

秋野はガラスに顔を寄せて機械室を眺め、(凄いよね)と、いつもながらに感心する。

機械室は地下三階から地上二階に至る巨大な空間で、その上から下までを貫くスチールラックが、鋼板製の作業通路で何層にも仕切られて、整然と並んでいる。これが千手、相生研究室がJBBSの委託を受けて開発した巨大並列計算機だ。

千手の基本構成は、インテックスの標準プロセッサボードを光ファイバーで相互に接続した、単純な仕組みである。インテックスの標準プロセッサボードも、普通のパソコンにも使われている、ごく一般的な製品だ。

しかし、千手の凄さは、そこに使われているプロセッサボードの数にある。この機械室に置かれているのは、三百二十万枚の標準プロセッサボードを四次元マトリックス状に接続した、巨大並列計算機だ。

このタイプの並列計算機は、相生研究室が得意とするもので、既に数台のマシンを製作し、そのたびに規模を拡大している。相生研の並列計算機には、伝統的に仏様の名前が付けられる。このマシンは「千手(せんじゅ)」と命名されたが、B棟の地下に置かれている前回の作品は「文殊」と呼ばれており、「じゅ」の部分が共通するのがおかしい。

秋野はコンソール卓に向かうと、ディスクをコンソール卓のドライブに指し込み、キーボードを操作して、昨夜自宅で改良した千手の機能監視プログラムを読み込ませる。やがて、背後の大きな壁面ディスプレーにグラフが表示され、千手の処理状況を示す何本もの線が刻一刻と変化する。


秋野がコンソールルームで作業している頃、B棟タワーの九階、見晴らしの良いアイリスト理事長室を国軍の赤堀中将が訪れ、五条理事長と面談を始める。

「暗号、ですか。ウチでどれだけのことができるかわかりませんが、やらせていただけると大変に助かります」五条は不安げに赤堀を見上げる。

「むろん、成果を保証していただく必要はございませんが、良い成果がえられると、我々は確信しております」

「石黒君がねえ、そんなことを言ってましたか。彼が優秀であることは、門外漢の私でもよくわかりますが」

「ご検討戴くために、資料をお渡ししますが、お取り扱いには呉々もご注意下さい」


コンソールルームの電話が鳴り、これに短く応えた相生教授が秋野を振り返って言う。

「秋野君、JBBSさんがお見えになったよ」

相生教授と秋野は、A棟玄関にJBBSの高峰部長と曽根研究員を迎える。

「今のところ非常に順調ですよ。早速システムを見ていただきましょう」

相生教授の案内で、高峰と曽根は足早にコンソールルームに入り、ガラス窓に顔を近付けて千手システムを見遣る。曽根は壁面ディスプレーに表示されているグラフを目聡く見付け、感心したように眺め入る。

「しかし、大学でこれだけやれるとは、大したものだねえ」高峰部長は感心したように相生教授を持ち上げる。

「ハードは、普通のパソコンに使われる、インテックスの標準プロセッサボードを繋いだだけですから」相生教授は謙遜したように応えるが、高峰部長は更に感心する。

「だから、機能の割には安くて、信頼性も高いってわけだね」

曽根研究員は、高峰の誉め言葉が、相生研究室の自慢どころからちょっとずれていることを指摘する。

「アイリストさんの本領はソフトの部分で発揮されていますから」

高峰部長はソフトのことはよくわからない。

「AIOS、ですか。これ、信頼性はどうなんでしょうか」

「プロセッサボード十万枚のシステムで、かれこれ十ヶ月以上連続稼動させとりますが、まだ一度もダウンしてません。まあ、三百二十万枚ともなりますと、どうなりますか、慎重に調べないといけませんが」

「本線のマシンがありますので、現在の通信量程度なら、千手がダウンしても大丈夫です。ピークに、ちょっと遅れが出るかもしれませんけど」

曽根研究員は、高峰部長を安心させるように言うが、高峰の千手に期待するところは、曽根研究員の認識よりも大きいようだ。

「いやいや、最近、通信量(トラフィック)が急速に伸びているから、本線のマシンもじきに能力が足らなくなるはずです。全国のあちこちでも、交換局の能力とケーブルの容量が逼迫しておりまして、JBBSは今、莫大な投資を迫られております。千手は秋野さんの高速圧縮ソフトが使えて、現在のケーブルにも倍以上の情報を詰め込むことができるということで、この点を我々は非常に期待しておるんです」

曽根研究員、高峰部長のこの話は、耳にタコができるほど聞かされており、もっともな考えだと思うと同時に、まだ海のものとも山のものともつかない千手にあまり過大な期待をすべきでもないとも感じている。そこで、部長の話の切れ目に割り込み、話を実務に戻す。

「今日から少し負荷を高めてみましょうか」

「そうだな、本線で処理していた分も、全部こちらに切り換えてみるか」高峰部長はすぐに提案に乗る。

秋野と曽根が本日の実験の段取りを打ち合わせている間、相生教授と高峰部長は理事長室に移動し、五条理事長と、今後の取り進めについて議論する。その結果、明日正午まで順調に稼動すれば、千手をアイリストからJBBSに引き渡すこと、その後もアイリストは、研究者一名を千手に張り付けて、システムの監視と異常対策にあたること、JBBSは種々の経費と技術料をアイリストに支払うことなどが取り決められ、近々文書化してサインを取り交わすことで合意が成立する。

理事長室からコンソールルームに戻った相生教授、理事長室での話の内容を秋野に説明するが、顔色が冴えない。

「なんか、まずいことでもあるんですか?」

「千手は問題ない。今後の監視は、秋野君でも石黒君でもできると思うんだが、これまで三人分の人件費を貰っておったのが、一人分になってしまう。他に何か仕事を探さないと」

「研究室ごとに採算を取るって、単なる努力目標だったはずですよ。第一、ウチは馬場先生のお仕事も手伝っているし、来月からは、鳳凰堂とかごめ自動車の出向社員も来ることになっているじゃないですか。別に、人件費を持って貰っての研究受託だけが研究室の仕事じゃあないはずです。教育だって、研究室独自の研究だって、私達の仕事だし、本当は、そっちの方が大事なんじゃありませんか。先生は、受託研究みたいな心配をしているよりも、AIOSの改良や、思考アルゴリズムのご研究に邁進されたら良いじゃないですか」

「原則論では君の言う通りなんだが、実際には、いろいろ言う奴がおってな。かごめはともかく、鳳凰堂にはちょっと期待しとるんだが、人件費までは負担してくれそうもないしなあ」

「ゲームコアをご寄付戴くとか? あれって、インテックスのプロセッサボードと互換性があって、安くて速いって、評判ですからね。信頼性が実証されてない、なんて批判もありますけど」

「B棟の文殊を増強せにゃならんのは事実だが、鳳凰堂に本当に期待しているのは、AIOSに特化したハードウエアの開発だよ。そう簡単ではないが、その方向にうまいこと持ってけないもんかと考えておるんだ。もうちょっとしたら、今度出向される方と上司の方がお見えになるんで、君も付き合ってくれるかな。今日はテーマを相談することになっとって、指導員の君も出た方が良い」

「千手のテストは、曽根さんがJBBSにお戻りになって、先方で準備してから致しますので、多分、三時ぐらいまでは始まらないと思います。それまででしたら、いくらでもお付き合い致しますわ」


A棟の玄関を入ってすぐ右手の大きな部屋は、会議室と呼ばれているが、実情は会議室兼図書室兼計算機室で、キッチンに近いこともあって、相生研究室メンバーの溜まり場ともなっている。

部屋に入ったところには会議テーブルがあり、壁際にはホワイトボードがあって、会議室らしい佇まいを見せているが、会議テーブルの後には雑誌を収めた書棚があり、その後には専門書を収めた本棚が並んでおり、図書室の役割を果している。書棚の窓側には、古ぼけているが座り心地の良いソファーが置かれ、研究室メンバーがちょっと一休みするのに格好の場所だ。書棚の先には、スケルトンユニットを格納したラックが並んでおり、窓側には端末装置の並ぶ机がある。この端末は、文献や図書の検索にも用いられ、図書室の機能も果たしている。

因みにここに並ぶスケルトンユニットの数は合計百二十、標準プロセッサボードで一万五千になる。この装置は相生研究室の初代並列マシンで、相生教授が気合を込めて「釈迦」と命名したのだが、より大規模な並列マシンが作られてからは、この名前で呼ぶのはちょっと気恥ずかしく、「会議室の機械」等と呼ばれている。この機械、確かに性能的にはB棟に設置された並列計算機「文殊」の数分の一だが、どんな使い方をしても他に迷惑がかからないため、オペレーティングシステム改良などの、システム全体に影響を及ぼす実験に専ら使われている。


相生教授は、コーヒー片手に会議室の端末に向かう。教授がしばしキーボードを操作すると、端末の画面上に「HO-OH」という文字が大きく表示されている。いつのまにか計算機室にやってきた秋野、これを覗き込んで、教授に聞く。

「過酸化水素、オキシフルですか?」

「ホーオー。これは、鳳凰堂さんの米国子会社のホームページ。ちと、予備知識をと、覗いてみたんだよ」

教授がマウスを操作すると、画面上に小さなボードが回転しながら現れる。秋野助手、すぐにそれが鳳凰堂のゲームコアであることに気付く。

ああ、ゲームコア、ここで開発してたんですか。ネットで議論しながらプロセッサボードを開発したって、随分評判になってましたけど」

「ネットで議論して、仕様を決めていったのは事実だが、実際の設計は、この、ホーオー社が担当したんだよ。ここの技術者、人数はそれほどおらんのだが、大型合併でインテックスが誕生したときに、リストラされたりスピンオフして飛び出した連中で、極めて優秀な奴が集まっておる。ネット上ではホーオーの技術者は個人名で参加していたし、ゲームコアビジネスは鳳凰堂が前面に出ていたから、この会社自体、あまり有名ではないんだが」

「鳳凰堂って、動画圧縮ソフトで急成長したって聞きましたけど、それもここでやったんでしょうか?」

「あれは大昔のことで、動画圧縮ソフトは、鳳凰堂さん自身の開発。君は知らんだろうが、それ以前の鳳凰堂は、美術書の世界でちょっと知られていたくらいで、デジタル出版で先行していたといっても、それほど目立つ会社ではなかったんだ。それが、アニメーション映像用の高効率圧縮ソフトを開発したもんだから、アニメコンテンツの配給と、ゲームソフトの出版で急成長して、ついにはハードにまで手を出すようになったんだ。圧縮ソフトの担当者は、今じゃ役員に出世しとるが、情報圧縮技術をよく知っとって、君と話が合うかもしれん。もっとも今では、ゲームソフトを担当しとるそうだがな」

「ソフト一本でそこまでできるって凄いですね」

「まあ、こんな上手い話は滅多にないことだろうが、鳳凰堂さん、二匹目の泥鰌を狙ってウチにくるみたいだよ。AIOS向きのハードを開発するという可能性も、まんざら、ない訳ではない」

電話のベルが鳴り、相生教授、電話に短く答えると受話器を置いて秋野助手に言う。

「鳳凰堂さん、来られたよ。お迎えしてこようかね」


鳳凰堂奨学生の柳沢、上司の杉本第二制作部長と会議室のテーブルに座り、相生教授に秋野助手を指導員と紹介される。杉本部長、時候の挨拶に始まり、鳳凰堂エレクトロニクス部門の紹介を長々と続ける。

「そういうわけで、インテックスの訴訟も無事退けることができましたので、次はOSの方も何とかしたいという、遠大な計画を立てておりましたところに、先生のAIOSと自己増殖型並列思考アルゴリズムのご発表に接しまして、これは是非当社でモノにしたいと、上層部の決断がございまして」

「ははあ、良いところにご注目されましたな。自己増殖型並列思考アルゴリズムは、普通のOS上でも動かすことができるんですが、特に御社もお作りの、マルチプロセッサ型のシステムにAIOSを組み合わせたシステムで、極めて効率的に動作いたします」

「いきなりOSだ、思考アルゴリズムだといっても、テーマが大きすぎて、柳沢君も困ってしまうと思いますんで、適当なゲーム用AIプログラムを題材に研究して頂ければよいのではないかと思います。その課程で、先生のAIOSや自己増殖型並列思考アルゴリズムも応用して、これらの知識も身に付けさせて頂ければ、将来大いに役に立つと考えておる次第でして」

「思考アルゴリズムを使ったゲームといいますと、チェスとか囲碁とかといったゲームでしょうか」

「必ずしもそうとは限りません。ゲームソフトにおけるAIの利用というものは幅広いものがございまして、いわゆる思考型ゲームの他にも、ゲームに登場するキャラクタの行動を、敵も仲間も、AIで動かそうというのが最近の動きです。最近のゲーマーは、登場キャラの知性にも、かなり高いレベルを要求しておりまして、これをどうやって実現するかは頭の痛いところです」

「ははあ、ゲームの舞台という仮想世界を作って、その中でAIを動かすわけですな。なかなか面白い発想ですな。で、具体的に何か考えておられるんでしょうか」

「実は、弊社では、HO-OH社で開発致しましたインテックス互換プロセッサボード、これを我々はゲームコアと呼んでおりますが、これを実装した並列マシンを開発中です。そこで、この上で動かすソフトが、一つの課題になるわけです」

杉本部長、机の上に、大ぶりのアタッシュケースを載せ、裏側の蓋を開く。書類鞄だとばかり思っていた秋野助手が「うわっ」と呟いたのは、札束を積め込んだアタッシュケースといった感じで、中に実装された多数のゲームコアを見たため。アタッシュケースの中には、ちょうど紙幣程度の大きさの鳳凰堂ゲームコアが、多数詰め込まれている。

「このマシンは、ゲームコア二百五十六枚を4×4×4×4の四次元マトリックスに接続した並列マシンでして……」

杉本部長、蓋を閉めて箱を裏返し、反対側の蓋を開けると、蓋の内側は大きなフラットディスプレー。奥からキーボードも引き出せるようになっている。杉本部長、電源を入れると、説明を続ける。

「このマシン、今は二百五十六台のパソコンがIP接続された形になっておりまして、それぞれ独立のOSで動くようになっているんですが、是非ともAIOSに入れ換えて頂いて、先生の思考プログラムを動かして頂きたいと考えております」

「これ、いくらぐらいするんですか?」思わず質問をする秋野助手。ゲームマシンというのなら、ひょっとするとポケットマネーで買えるかもしれない。

「ハード単独で販売するとすれば、まあ、三十万円を切る程度でしょう。ソフトを入れて製品化しますので、ゲームマシンとして一般に売り出すときの値段はもっと高いですけど。ハードが安くできるのは、周辺の集積度が上がっているのと、ゲーム向けに量産しているからで、実は、ゲームコアの社内価格は、インテックスのボードの約四分の一に設定しているんです」

「この機械、いずれは当研究室でも購入したいですなあ」相生教授の発言は秋野助手よりもストレート。

「あ、いろいろとご研究にも入用でしょうから、何台か、御寄付致します。その代りといっては何ですが、当社の検討用マシンにもAIOSと思考プログラムをインストールして頂きたいのですが、どうでしょう」と、杉本部長、魅力的な提案をする。「柳沢がこれらの扱いをマスターしましたら、弊社の技術者にも技術を伝授させて、こちらでもいろいろ検討したいと考えています」

「そりゃお安いご用です。柳沢さんの最初の練習台に、AIOSと並列型思考プログラムを、いくつものマシンにインストールしてみたらどうでしょうかな。一日あれば十台くらい、難なくインストールできます」

「それでは十台お送りしますんで、インストールが済んだら、内五台を送り返して頂けますでしょうか。残り五台は、ご寄付させて頂くということで」

「かしこまりました。そのように手配いたしましょう」相生教授、ポーカーフェースでうなづくが、秋野助手、嬉しさを隠しきれない。

「こんなのでゲームする時代になったんですね」

「ゲームマシンとしては最高級ですね。ただし、これを売り出すかどうかは、マーケティングの結果次第で、まだ製品化が決まったわけではありません。ウチは数出る機械しか商売できませんから、ひょっとすると社内ユースに止まってしまうかもしれません。ゲームマシンとして個人で買うのは、よほどのマニアで、業務用のゲームにしか出ないんじゃないかと危惧する意見も多数ございます。ただ、いずれ数年後には、一般向けのゲームマシンも、この程度の機能は標準的に備えるようになると睨んでおりまして、このマシンは、そういう時代を見越したソフト開発の道具として、現在でも十分役に立つはずです。もちろん、このマシン、パソコンとしても最高級なんですが、ここまでのスペックを要求する需要がどのくらいあるかは疑問で、パソコンとしては、ちょっと、出せないんじゃないかと……」

「そうですね。最近出てきたスケルトンユニットも、プロセッサボード百二十八枚のものが一般的ですから、その二倍……」

「ボード単体の速度が、インテックスのボードの二倍以上ありますから、多分、スケルトンユニット五個分に匹敵する能力があると思いますよ」

「まあ、私どものやっておるような研究には、ちょうど手ごろなマシンですけど、確かに、一般向けに売れるかどうか、よく判りませんなあ」と相生教授。

「さて、柳沢君の具体的なテーマですが、人間をシミュレートするソフト、ということでどうでしょうか」

杉本部長の提案に、相生教授、目を吊り上げる。

(こいつら、人工知性体を狙っておるのか? それでわしのところへ? わしの計画は、だれにも話しちゃおらんはずだが、まさか理事長が?)

しかし、相生教授、驚きは腹にしまい込み、まずは軽く探りを入れる。

「そりゃあまた大きなテーマですなあ。しかし、この程度のハードでは、まだ、人間並の知性を生み出すことは難しいと思いますが」

「人間並の知性を人工的に生み出すことは、学会の倫理規定で禁止されてますよ」秋野、口を挟む。

「あーいや、そこまで大それたことを考えているわけではございません。精神の部分は、いわゆるエキスパートシステム、つまり、レーサーとか、パイロットとか、戦士とか、スパイといった職業の専門知識をシミュレートして頂ければ十分と考えています。人間をシミュレートするというのは、これに、五感や、運動能力、記憶や判断などの精神的能力といった、生身の人間の持つ能力と制限を加えたいということです」

(なんだ、そんなことか)ほっとする相生教授。

「ははあ、これだけの計算能力があれば、エキスパートシステムも、音声認識や自然言語処理も、画像解析も実装できるでしょうし、人体の運動機能のシミュレータも載せることができるでしょう。こういうプログラムは、個別には、各種公開されていますから、これらを比較検討して、適当なものをこのマシンにインストールするというのが、柳沢さんの最初のお仕事でしょうなあ。しかし、ここまでは単なる勉強に過ぎませんで、これだけでは研究したとは言えません。今回の研究の新しいところは、そういうプログラムの組み合わせにより、人間をトータルでシミュレートすること、それをゲームという、仮想世界の中で行動させて実証・評価する、という点でしょうなあ」

「はい、その通りです。どんな舞台で評価するにせよ、ヒューマンシミュレータが一つできれば、さまざまなゲームに応用可能ですからね。敵や仲間のキャラを、実際の人間のように、考え、行動させることができるわけです」

「ヒューマンシミュレータ、ですか。これは実用性もありますなあ。地震や火災など、非常事態における人間の行動を予測したり、店舗に来た客の行動が予測できますなあ。警察・消防などの行政分野とか、土木、建築の分野でも、需要があるんじゃないでしょうか」

「ああ、なるほど。大学で行う研究としては、先生のいわれるような、実用的な路線を狙った方がよろしいかもしれませんね。そのあたりのことは、先生方にお任せ致しますので、一つ宜しくお願いします」

頭を下げる杉本部長の横で、柳沢も頭を下げる。

「いや、こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します」相生教授、恐縮したように頭を下げる。

(自然災害ね。特撮映画ではお馴染みだが、ひょっとするとゲームにも使えるかも。ふーむ、柳沢に作らせれば、うまいイメージが沸いてくるかもしれん)杉本部長、考えを巡らす。

「柳沢君、先生のアイデアを頂いて、地震などの天災に際しての人間の行動をシミュレートしてみたらよいかもしれないね。自治体の防災体制など、公共の益にもなって、学会の受けもよいだろう。来るとき話していたようなゲームじゃ、ちょっと、論文発表に問題がありそうだ」


同日午後――

電話が鳴る。秋野がボタンを押すとスピーカーから曽根研究員の声。「これから、千手の負荷を徐々に上げていきます」

「こちら秋野、了解しました」

壁面のモニター画面を見ると、グラフの線が徐々に増加していく。しかし、上限を示す赤い線からは、まだ大分下回っている。

「まだ大丈夫ですか」と曽根。

「全然問題ありません」秋野が応える。

心配そうな相生教授だが、モニターをみつめて呟く。「いけそうじゃないか」

曽根研究員の声が再びスピーカーから流れ出る。

「百パーセントそちらに回しました」

秋野、モニター画面を見て応える。

「千手の負荷は、まだ、十パーセント以下です」

「オーバースペックだったかな」できればできるで悩み出す相生教授。

「最初ということで余裕をみていましたけど、それにしても、予想以上ですね」と、曽根は満足そう。「今の時間帯は、トラフィックが最大になる頃ですから。まあ、大事件が起こったりするとトラフィックは急増しますけど、それを見込んでも、二号機以降はプロセッサボード五十万枚も準備すれば充分じゃないかなあ。ま、後できっちり計算しますけどね。高峰部長にはグッドニュースだなあ」

「しばらくこれで走らせますか」

「そうしましょう。ログはしっかり採って、負荷の推移を残しておいてください」


午前に続いて、相生教授は午後にも五条理事長に呼び出される。

「やあ、たびたび申し訳ない。この計画書に目を通してもらえないか。内容は他言無用だ」

相生教授が五条理事長から手渡されたのは、赤堀中将が残した暗号解読計画書である。しばし文書に目を通した相生教授、顔を上げると理事長に言う。

「暗号ですか。こりゃあ面白そうですなあ」

「やって頂けますか」

「JBBSの仕事も片付きそうですので、ちょうど良い。石黒君が喜びそうなテーマですよ。まあ、結果は保証しかねますが」

「そんなご心配は不要です。研究なんてものは、結果を約束できるわけがありませんからね。お引き受けいただけるのでしたら、私は、せいぜい、ふんだくってくるとしましょう」

相生教授、ちょっと思案した挙句、話し難そうに口を開く。

「えー、暗号の解読は自然言語の認識が前提となる訳ですが、これを全て計算機で解読するには、計算機上に人間の頭脳に類似した機能を持たせる必要があると考えております。これ、学会の倫理規定では禁止されておるんですが、この業務は一切外に出さない、秘密の研究として行うわけでして、そのー」

「いや、それ以上おっしゃらないで。私は先生のお気持ちはよく理解しておりますし、先生のご研究に全幅の信頼を置いております。だから、具体的内容に関しては、一々、私にご相談なさらずとも、先生の御一存で進められて結構です。有り体に言って、これは軍事研究なんですから、少々の危険は犯す価値があります。なにか問題が起こった時は、政府の方でもサポートするでしょうし、私も全力を尽くして先生をお守りします。それだけはお約束致しますよ」

(理事長は、私に人工知性体を作らせたいのだろうか)理事長の意図が今一つわからないまま、口を一文字に結んで、一礼する相生教授。


夕刻、会議室では、相生教授立会いの元、本日夜勤の石黒助教授に、秋野がこれまでの状況を説明し終ったところ。そこに、帰り支度をした馬場教授が、ふらりと訪れる。話が長くなりそうだと睨んだ石黒は、コンソールルームに、一足先に行く。

馬場教授は、別に用があって相生教授を訪問したわけではない。B棟に研究室を持つ馬場教授は、生命科学の実験装置が専門だが、相生教授とは古くからの友人であり、暇な夕刻には、どちらかが他方の研究室を訪れて、しばし世間話に花を咲かせ、赤提灯に向かうのが常である。

秋野も馬場教授にコーヒーをサービスすると、付合いきれないわ、とばかりに部屋を出ていく。その後姿を見送った馬場教授、世間話を中断すると、手近な端末を操作し、声をひそめて言う。

「これ、ご存知ですか? 面白いものを見付けたんですよ」

馬場教授が指差すディスプレー上には、人間の脳と思しき塊が、回転する三次元映像で表示されている。

「ははあ、こりゃあ綺麗なものですな。これ、実物から起こしたんでしょうか」

「実物、だそうです。人間の脳をスライスしながら撮った写真を三次元化したものだそうです」

馬場教授がレバーを操作すると、画面はズームアップし、脳の神経細胞(ニューロン)とその接続部(シナプス)の画像が明瞭に表示される。

「これは凄い。サブミクロンの解像度がありますな」

「下から上まで、脳にあるニューロンとシナプスの、全てが入っています。スライス像も出せますよ。御覧になりますか?」

相生教授、馬場教授に代ってレバーを操作し、脳のあちらこちらの映像を眺める。

「これを計算機処理すれば、ニューロンの接続情報を完全に読み取ることができますね」

「読み取って、どうされますか?」馬場教授、悪戯っぽく微笑む。

「電子的に再現します」

「そりゃあ無理でしょう。人間のニューロンは、百四十億個ありまして、それぞれが平均八千の結合部を持つといわれてますから。大雑把にいって百兆の接続部があるんですよ。実際には、かなりの個体差があるんですけど、いずれにしても、人工的に作り出すには、少々複雑すぎるんじゃあありませんか」

「接続情報の記憶には、接続部一つあたり十バイト食うとして、一ペタバイト少々準備しとけば良いわけですな」

「一ペタっていうと、一テラの千倍、一ギガの百万倍ですね」

「そう。だから、十ギガバイトのメモリーを持つプロセッサボードを十万枚接続すれば、人間の脳と同じ規模のニューラルネットを実現できます。プロセッサボード一枚で十四万個のニューロンをシミュレートするわけですが、プロセッサボードの処理速度は、ニューロンの百万倍ほどありますから、ニューロン十四万個のシミュレートなど、わけありません」

「ははあ、先生がB棟にお造りになった『文殊』も、十万枚のプロセッサボードを使ってましたね。たしか、インテックスのプロセッサボードにはメモリーが三十二ギガ付いていましたから、あれで人間の脳が再現できるわけだ。相生先生、あんた、まさか最初から、それを考えていたんじゃあ……」

「馬場先生、これには、ちょっと微妙な問題がありますんで、ここだけの話にしておいてもらえませんかね。石黒君は無関心だし、秋野君も、こういうことにはうるさいから、誰にも言わないで下さい」

「それはよろしいんですけど、どうされるんですか?」馬場教授、少し心配顔になる。

「さしあたり、このデータを消されちゃう前に、ニューロンの接続情報を読み取ってしまいましょう。画像で落とすのはとても無理ですけど、接続情報だけなら一ペタだから、楽に保存しとけます」

「しかし、死んだ人間の精神を甦らせたりすると、不味いことになるんじゃないですか。こいつがどういう奴だったかもわからないのに。危険な犯罪者だったら、どうしますか?」

「何をおっしゃいますか、物騒な。いくら私でも、こいつを甦らしたりはしませんよ。それは、ハナから無理というものです。だけど、ニューラルネットの構造は脳における情報伝達の経路そのものですから、これを解析することは大いに意味があります。これを作った連中も、多分、そういう研究をやっておるんでしょうなあ。だけど、我々のような大きな並列マシン持っているところはそうそうありませんから、データが同じでもユニークな研究ができます。並列マシン上に、実在した人間のニューラルネットを再現しましてね」

「つまり、こいつを生き返らすんでしょう。つまらないことを教えちまったなあ。大体これは、倫理規定違反ですよ。いくらアイリストでも、ばれたら、ただじゃ済みませんよ。相生先生が追放されたりすると、私も困るんですが」

「研究室の内部に止まる限り、相当なことをやらかしても、問題になることはありますまい。それに、こいつをそのまま甦らせたりはしませんから、ご安心下さい。一から、きっちり作りますから」

「気休めにもなりませんなあ」

「いやいや、ニューロンの接続を再現するだけでは、精神を甦らせることはできないんですよ。死んだ蛙の足に電気を流して筋肉をぴくぴく動かすようなもんで、種々の刺激に、脳がどのように反応するかがわかるだけです。生きたニューラルネットでは、インパルス伝達の様相がダイナミックに変化しておりまして、そのダイナミズムが再現できなければ、精神を甦らせることはできません。ここにあるのは、ダイナミズムに関わる情報が失われた、死んだ脳に過ぎませんから、安心して頂いて、大丈夫ですよ」

「それはそれは。しかし、あまり大それたことは、考えないで下さいよ」

「電子的に再現した脳なら、接続状態を格納したセルを書きかえるだけで、ニューラルネットのダイナミズムも再現できます。だから、人間の脳を再現するためのハードウエアは、既に持っているんですね。ここにあるようなスタティックな情報に加えて、脳のダイナミズムに関する情報が得られれば、精神を電子的に甦らせることも可能です」

「ポジトロンCTの技術も随分進歩していますから、生きた脳の興奮状態を全て把握することも、原理的には不可能じゃないですね。それができた暁には、生きた脳をバックアップしておけば、仮に肉体が滅びようとも、いつでも精神を甦らせることができるわけだ。一ペタバイト程度なら大判のディスクにセーブできますから……私の脳も、バックアップしておこうかな」

「文殊には三億円ほど掛っていますから、バックアップデータがあっても、そうそう簡単に、馬場先生の精神を甦らせるわけにはいきませんな」

「地獄の沙汰もカネ次第ってわけか」

「あの機械一つで三人分の脳が再現できますから、一人アタマ一億円といったところですな」

「三人分ねえ。先生があれを『文殊』って命名したのには、そういう深い意味があったんですか。三人寄れば文殊の知恵、ですか。計画的犯行だなあ」

「それは、単なる洒落。しかし、誰も気が付きませんでしたなあ。まあ、計算機の値段は、もう二~三年もすれば、一桁下がるはずですから、普通の人にも手が届くようになるでしょう。自分の生き死にが賭かってるとなれば、多少の金なら出すでしょう」

「大学が費用を持って、研究者の頭脳を計算機に入れておこう、って可能性もありますねえ。給料払わんでもいいし。バックアップ取ったら、死ぬのを待たんでも、本人を首にしたっていいわけだ。理事長が飛び付きそうな話だな」

「まあ、与太話は、我々のニューロンにアルコールを与えながらやりましょうや。今日は石黒君が徹夜しますんで、あまり派手にやるわけにはいきませんけどね。A棟の機械室で、計算機の試運転をしているんですよ」


日付が変って午前三時――

アイリストの脇を通る高速バイパス線の路肩に、一台の乗用車が停車している。

高速バイパス線は、将来は片側四車線の大規模な高速道路となる計画で工事が進められている。全ての工事が完了するまでには、まだ何年もかかる見通しだが、ここ山並市付近の区間は、片方の車線が既に工事を完了し、片側二車線の高速バイパス道路として開通している。

黄色い回転灯を光らせた高速道路巡回監視車が、路肩に停車した乗用車の前に止まる。助手席から降りた男、乗用車の運転席に近づいて言う。

「どうしましたか? 大丈夫ですか?」

乗用車の年配の運転手が窓を開けて応える。

「ああ、すいません。エンジンが動かなくなったんですけど、修理屋に連絡とれまして、もう三十分もすれば来てくれるはずです。大丈夫です」

「気を付けてくださいよ」一声残して走り去る巡回監視車。

故障した車から顔を出してこれを見送る運転手、ナトリウムランプに照らされた道路脇の斜面を見上げると、そこから上へと視線を走らせ、空を見上げる。空は一面、厚い雲に覆われているが、雨が降り出す気配はなさそうだ。


ほのかに光る曇の下、黒いトレーニングウエアに身を包んだ男が二人、潅木を掻き分け、斜面を下って行く。二人共、顔も黒く塗っているようで、闇の中に白目が浮かんでいるように見える。男たちが斜面を滑るように降りると、やがて、三メートルほどの高さの金網フェンスが現れる。前の男、フェンスの先を見渡して人気の無いことを確認すると、懐より取り出した工具で手際よく金網を切っていく。フェンスに開いた穴を、後の小柄の男がするりと抜ける。

フェンスの向う側はアイリスト。構内道路を挟んで、大きな建物がある。窓のないその建物は、一見したところ、倉庫か工場のようだ。

潜入した男、まっすぐに壁に駈け寄ると、小脇に抱えていた小さな梯子を広げる。梯子を立て掛けた真上の壁には、左右を向いた固定カメラが設置されている。男、梯子を上ると、右側のカメラの鏡筒に、黒い筒状のものを挿し込んで、ボタンを押す。これで、固定カメラは、ボタンを押した瞬間の静止画を流し続けることになる。

男は、次いで、壁に沿って右側に進む。そこには大きなシャッターがあり、その脇に小さな扉があって、「アイリストA棟資材搬入口」と書かれたプレートが掲げられている。男は、小さなドリルを取り出すと、扉の横の壁に穴を空け、胃カメラを小さくしたようなファイバースコープを突っ込み、接眼レンズを覗き込む。

「上下に二つ、渦電流センサー。他のセンサーはありません」

男は胸元のマイクに小さな声で囁くと、ファイバースコープを出したり引いたり、曲げたりしながらスコープの先端をセンサーに近づけ、遠隔操作の小さな工具を器用に操ってセンサーの出力ケーブルを短絡する。センサーを二つとも殺した後、男はドリルの刃を替えて鍵穴に付き立てる。シリンダー錠なら簡単な工具でこじ開けられるのだが、この扉に付いているのは磁石を埋め込んだ電子錠だ。ドリルの刃先の切れ味も鋭く、錠の心臓部はすぐに壊され、男がドリルを引いて、穴の中の残骸を掻き出すと、錠は簡単に開く。

道を隔てたフェンスの後、草木の茂る斜面に身を潜めたもう一人の男、相棒が建物の中に消えたのを確認すると、口に手を近づけて低い声でいう。

「建屋内に潜入」

「了解。こちらも異常なし」高速道路の路肩に停車している車の運転手、短くこれに応える。


「アイリスト、異常ありません」

守衛所を映すテレビカメラに向かって、当直の守衛が定時の報告をする。守衛がスイッチを操作すると、ズームが引いて、鉄扉が閉ざされたアイリスト正門と、その向うの守衛所が映し出される。

守衛、カップ麺と急須にポットのお湯を注ぎ、カップ麺の蓋に箸を乗せると、お茶を飲みながら、壁面の大型ディスプレーに並ぶ、場内監視カメラのモニター画面をのんびりと眺める。


暗闇に一瞬、青白い閃光が走る。閃光に浮かび上がったのは、整然と並ぶスチールのラック、それぞれの棚には、無数のプロセッサボードが収められている。この装置は、アイリスト相生研究室が日本バックボーンサービス(JBBS)からの依頼により開発した、巨大並列計算機システム「千手(せんじゅ)」だ。閃光が去ると、縦横に整然と並ぶLEDの弱い光と、ボード間を接続する光ファイバーから漏れる淡い紫色の光が、暗闇の中に残される。

閃光は、大きなガラス窓を通して、隣のコンソールルームにも射し込み、ソファーに寝ていた石黒助教授の顔を照らす。

石黒、起上がり、眉をしかめる。照明を全て消した室内に目覚し時計の蛍光表示管が緑の光を発して、午前三時十五分を示している。

(スパークか?)

石黒、光がよく見えるよう、部屋を暗くしたまま、目覚し時計の光を頼りにガラス窓に近付き、機械室をのぞきこむ。巨大な機械室には、暗闇の中、プロセッサボードのLEDが列をなして輝き、ボード間を縦横に接続する光ファイバーの端から、紫色の光がおぼろげに漏れている。

(大きな問題は発生してないようだな)胸をなで下ろす石黒。

そのとき、下の方で再び閃光が瞬く。

石黒が思わず息をのんだのは、閃光のこちら側に人影を認めたため。

石黒、後に下がって床に伏せると、ポケットの携帯電話を取り出し、素早くダイヤルすると、携帯電話を耳に当てて待つ。


守衛が麺のカップを高く上げて汁を飲み干したときに、守衛所の電話が鳴る。

「はい、正門です。ああ、石黒先生……はい、かしこまりました。すぐそちらにうかがいますので、動かないで下さい」

守衛、帽子をかぶり、警棒を腰に下げると、小走りにコンソールルームに向かいながら、イヤホンとマイクの位置を直し、本部に連絡を入れる。

「こちらアイリスト。石黒助教授より、A棟機械室に不審人物を見たとの連絡あり、確認のため、これより現地に向かいます」

「本部了解」


石黒、床に伏せたまま窓に近づき、賊の動きを見張る。ボードの発するかすかな光の中で、黒い影が向かう先は物品搬入口。非常口の表示灯に照らされ、物品搬入口の脇の通用口が、わずかに開いているのがみえる。

石黒、足音を忍ばせてコンソールルームを出る。玄関ロビーに近づいたとき、A棟の入口を開ける黒い人影に気付き、石黒は一瞬、息を潜める。

黒い人影も石黒に気付いたようで、ささやき声で「石黒さん、石黒さん」という。守衛だ。

石黒、守衛に賊の動きを伝え、玄関内側の傘立てから木刀を取り出して、しっかりとにぎりしめると、一旦A棟を出て、物品搬入口の外側に向かう。

外の空気はまだ冷たいが、幸い風は吹いていない。空一面を覆う雲は、わずかに明るみを帯びている。A棟横の通路には水銀灯が点々と点り、A棟の壁と、その反対側の金網のフェンスを照らしている。フェンスの向うは山で、斜面には潅木が茂っている。石黒と守衛、茂みの中に、賊の仲間がいるのではないかと、目を凝らしながら静かに進む。

物品搬入口横の通用口は、わずかに開いており、鍵穴も壊されている。異常な事態が発生しているのは明らかだ。守衛と石黒、通用口の両脇に、それぞれ木刀と警棒を手に、壁に張付くように立ち、賊が出て来るのを待ち構える。

建物の中の音を聞き漏らすまいと、全神経を両耳に集中していた石黒、予期したとは逆の方向、フェンスの辺りで発したポンという小さな音に気付く。かすかな風切り音を感じて上を見上げると、薄暗い雲をバックに、黒い小さな物体が弧を描いて石黒たちの方に飛んでくるのが見える。

「危ない」

石黒はそう叫ぶと、守衛に後に退避するように合図し、自分も後に駆け出す。爆発に備えて、木刀を小脇に抱えると、耳と目を押さえて身を低くする。次の瞬間、通用口の真ん前で、パーンという高い爆発音と激しい閃光を発して爆発が起こる。見掛けは派手な爆発だが、石黒の身体に別条はない。

石黒、後を振り向くと、通用口付近は白い煙で覆われ、その向うで守衛が頭を押さえてかがみこんでいる。守衛の様子を見ようと、煙を迂回して近付くと、突然、黒い影が煙から飛びだし、石黒の脇をすり抜けようとする。

石黒、瞬時に影の側面に足を踏み出し、身体を低くすると、右膝頭に木刀を叩き込む。

「バキッ」という鈍い音と、木刀を握る手に伝わる反動で、石黒は賊の膝頭を破壊したことを知る。踏み出した足が使い物にならなくなった黒い影の男、バランスを崩し、斜めに倒れかかる。その低くなった後頭部に、石黒、第二撃を加える。

「チェーストォ」

石黒、掛け声とは裏腹に手加減をして木刀を振り下ろすが、賊はアスファルトの上に、どうっとばかりに倒れこむ。殺せば過剰防衛との思いが、石黒の脳裏をよぎり、地面に倒れ込む賊の頭の下に足のつま先を入れ、頭に加わる損傷を軽減しようとする。しかし、頭より先に地に付いた右腕が、おかしな角度で体重を受け、「バキッ」と嫌な音を立てる。石黒がとっさに入れたつま先が、逆効果だったかもしれない。

「チッ」と石黒。

しかし、賊の身体の心配をする前に、自分たちの身の安全も守らねばならない。石黒、フェンスの向うに目を配りながら、物品搬入口の前にしゃがみ込んだ守衛に呼びかける。

「大丈夫ですか?」

守衛、爆発音で聴力に多少の支障を来たしたようだが、その他に異常はないようだ。石黒、守衛に、棟内に隠れるよう、指で合図する。守衛もすぐにこれを理解し、二人は通用口に駈けこむ。

「仲間がいるようです。武装しているようですから、迂闊に動くと危ない」

石黒、扉を閉めると、モップの柄を柱と扉の間に挟み、外部の賊の侵入を防ぐ。そうしておいて、しばし戸の横に開いた穴から外の様子をうかがうが、アスファルトに横たわる男は身動き一つせず、フェンスの向う側にも、なんの動きも見当たらない。

外を眺める石黒の後ろで、守衛は、本部に第二報を入れる。

「こちらアイリスト。A棟機械室への侵入者を確認。賊は爆発物を使用しましたが、爆発は小規模で、当方に被害なし。ただいま石黒助教授が侵入者一名を倒しましたが、まだ仲間がいるようです。応援をお願いします」

「本部了解。警察の応援を要請します。間もなく先遣隊がアイリスト正門に到着しますので、それまでは、身の安全を第一に、慎重な行動をお願いします」

石黒と守衛、先遣隊を迎えるため、機械室の中を通って、正門の見えるA棟玄関まで移動する。

石黒達がA棟玄関の影に隠れて数分もすると、玄関のガラス戸を通して、赤い回転灯が近づいてくるのが見える。警備車の正門への到着を待って、石黒と守衛はA棟を出て、正門に駈け付ける。

「大丈夫ですか?」

警備車から降りたガードマンが二人に尋ねる。ガードマン、守衛の報告を聞くと、石黒と守衛を警備車に乗せて、賊を倒した地点に向かう。

賊は先程の場所に、そのまま倒れている。

ガードマンは、石黒たちに確認する。

「あのフェンスの向うから、爆発物を投げ込んできたんですね」

「ポンという音が聞こえましたから、何らかの発射装置を使って爆弾を飛ばしたんじゃないかと思いますよ」と石黒。

「そちらの犯人も気になりますが、これだけの人数では危険です。まず、この男の身柄を確保して、警察が来てから山狩りをしましょう」

「良かった、生きてます」

もう一人のガードマン、ぐったりと道路に横たわる男の生存を確認すると、素早く身体検査をし、手錠を掛けて、警備車の後部座席に運び込む。身体を動かされた刺激で、男は意識を取り戻したようだ。座席に座らせるとき、痛めつけられた右膝頭がどこかに触れたか、男は「ウッ」っと痛そうなうめき声を上げる。

やがて、警察のパトカー二台と鑑識のバンが到着する。石黒と守衛、警官たちを物品搬入口に案内し、男を取り押さえたときの状況を改めて説明する。説明が終ると、鑑識係官は入口外側の地面に散乱した爆発物の破片を丁寧に集める。

「お話をうかがうと、閃光弾のようですね。特殊部隊が使っているような。ただのこそ泥ではないかもしれませんね」

警官たちはフェンスの向うを懐中電灯で照らしながら、左右を調べる。怪しい人影は発見できないが、物品搬入口の少し右側で、フェンスの破られた箇所を発見する。警官たち、しばらく議論をした結果、夜明けを待って山狩りをすることとする。それまでは、この山の周囲に警察官を配置するという。

通用口周辺の指紋採取が終ると、石黒、通用口を広く開け、機械室の照明のスイッチを入れ、警官達を室内に招き入れる。石黒、コンソールルームを隔てる窓を見上げながら、最初に気付いたときの賊の位置を探す。

石黒、賊がいたと思われるあたりの装置を点検するが、全て正常に作動しており、賊に破壊された形跡はない。しかし、上履きでの入室が義務付けられている機械室の床のそこここに泥靴の足跡が残されていて、賊がここにいたことは明白だ。

「閃光で賊に気付いたんですが、写真撮影のストロボだったのかもしれませんね」と石黒。

「被疑者の所持品にカメラがありました」と、警官。「何が写っているか、後ほど現像してみます。それにしても、凄い設備ですね。金目にしたら、相当なものでしょう」

「スケルトンユニットという、高性能計算機を二万五千台並べています。スケルトンユニットは、パソコンにも使われているプロセッサボードを百二十八枚並べただけのものですが、それでも、一つ四十万はしますから、百億といったところですな」

「それはそれは。しかし、これを盗み出すには、トラックが何台も要りますね。今回は下見に来たのか、それとも産業スパイか……」

「このシステム、既に学会発表しておりまして、秘密らしい秘密はないんですがねえ。まあ、民間企業からの委託で開発しとりますんで、ライバル企業が関心を持つかもしれませんなあ」

「これまでに不審人物を見掛けたようなことはありましたか?」

「ありません」

「私も特に気付きませんでした」と守衛。「それにしても爆弾を飛ばしてくるとは、尋常ではありませんな」

「幸い犯人の一人は捕らえましたんで、じっくりと尋問致します。先程うかがいました内容で調書を作成しておきますので、本日の午後にでも、お二人で、署のほうにお越し頂けませんでしょうか」

「お電話頂きましたらすぐに伺いますんで」と石黒、名刺を渡す。

「では、これで失礼します。本日はご協力ありがとうございました。大学構内と裏山の周辺にパトロールの警官を配置しておきますが、そちらでも何か気付かれましたらご連絡下さい」

警官たち、礼を述べ、去っていく。


翌朝。大学の正門前には機動隊のトラックとパトカーが何台が停まり、A東横のフェンスの前には大勢の警官と機動隊員が群がっている。守衛は、周りに集まった数名の記者を追い払おうと、しきりに手振りをして「ノーコメント」を繰返しているが、あまり効果はないようだ。A棟横に張られた立入禁止を示すテープの前で、小型ビデオカメラを持ったカメラマンが数名、警官たちの活動を撮影している。警官たちは、一人また一人と、フェンスの破れ目から潅木の生い茂る裏山の斜面へと消えていく。


九時三十分、コンソールルームで石黒助教授の武勇伝を聞く相生教授と秋野助手。

「それにしても、なんでウチなんかをスパイせんといかんのだろう」と、相生教授。(まさか、人工知性体を調べに来たか? まだこさえてもおらんのに)

「最近の週刊誌で、通信業界の仁義なき戦い、って記事をみかけましたわ。日本バックボーンサービス(JBBS)は急成長しているだけに、敵も多いんじゃないでしょうか」

「わしらの論文読めば、わかりそうなもんだが」

「普通、全部は書きませんからね。論文数を稼ぐために、小出しにすることだってあるじゃないですか。まあ、ただの泥棒か、計算機排斥運動の過激派かも知れませんよ」

「それで、千手に被害はなかったんだろうね」

「特に問題は起こっていないようです。ああ、秋野さん、念のために、調べておいて頂けませんか」

秋野助手、コンソールに向かい、キーボードを操作する。スクリーンには、刻々と変化する、カラフルな折れ線グラフが表示される。

「システムは正常に作動しています。パフォーマンスも予想の範囲内ですわ」

「それは良かった」と、相生教授。「期末が近いから、ここで移管が延びると、面倒なことになるとこだった。しかし、良くトラブルもなく走っとるね」

「並列マシンですから、プロセッサボード十万枚で動けば、それを三百二十万枚に増やしたところで、大して変らんということでしょうね」と、石黒助教授。「JBBSのご寄付を頂いて一万五千枚から十万枚に増やしたときも、何も問題は出ませんでしたし」

「AIOSも、自己増殖型並列思考プログラムも、ソフトが勝手に動き回る類のプログラムだから、何が起こるか、完全に予測することはできんのだよ。ひょっとすると、人間並の知性を持つようになるやもしれん。標準プロセッサボードは、二百五十六CPUで構成されておるから、ここには八億のCPUがあるんだ。人間のニューロンは百四十億個といわれとるが、その十分の一も使われておらんそうだから、このくらいの規模の計算機になると、人工知性体ができてしまう可能性が多分にあるんだよ。時分割システムなら、人間の脳程度ならプロセッサボード三万枚もあれば充分、という計算も……」

「先生、まさか、それを期待しておられるんじゃないでしょうね」と、念を押す秋野助手。「ご存知でしょうけど、人工知性体を作ることは、学会の倫理基準で禁止されていますからね。でも、この問題は、あまり心配する必要はないと思いますわ。だって、今走らせているソフトは、思考プログラムには違いありませんけど、情報通信の業務用のもので、情報の圧縮と、経路制御に特化していますからね。最初から、大脳の働きを真似るように作られたプログラムでしたら、知性が生まれてしまうことだって、あるかもしれませんけど」

「ニューロンの数は充分かもしれませんが、シナプスの結合が問題ですね」と、石黒助教授。「初期状態をきちんとプログラムしてやらないと、人工知性体はできないはずですけど、そのプログラムが難しい所じゃないですかね。まあしかし、通信業務に限っていえば、この機械、人間の知性よりはるかに上ですな。人間と違って、つまらん御託を並べないのもベターですな。そういう余計なことをする、人間並の知性を作らにゃならん理由は、全然ないじゃありませんか。今やってるようなエキスパートシステムなら、倫理規定にも触れないし、我々の役にも立とうってもんです」

「石黒君のいうことも、もっともだな。さて、後は私と秋野さんでみておきますんで、石黒君はお引き取り頂いて結構です。徹夜、ご苦労様でした」

「あ、私、警察から呼び出しがあるはずですんで、私の部屋で仮眠しております。電話があったら起こしてください。守衛と二人で警察に出頭致しますから」


午後一時、アイリスト五条勇作理事長の部屋に、相生教授、石黒助教授、秋野助手が呼ばれて集まっている。五条理事長、慎重にドアを閉めると、見知らぬ大柄の男を、「政府から来られた赤堀さんだ」と紹介する。

「本日未明、アイリストに賊が侵入した事件ですが、公安事件として、私どもの方で、極秘裏に処理することと致しました。皆さんにも、他に口外されないようお願いします」

赤堀、開口一番、その場の人たちに念を押して、後を続ける。

「捜査の方も、警察から引き継ぎまして、こちらで致しますので、ご了解下さい。警察の方で、石黒さんと守衛さんに事情聴取を予定しておりましたが、既に充分な調書ができておりますので、特に追加頂くことがございませんでしたら、我々は不要と考えております」

「でも、もう随分と大騒ぎになって、マスコミも来ちゃってますけど、いいんですか」と秋野助手。

「あ、ご説明が不充分で失礼致しました。昨日の事件は、単純な強盗事件ということに致したいと思います。マスコミには、窃盗のためアイリストに侵入した賊が、職員に発見され、爆発物を投げ付けて抵抗したが、取り押さえられたという内容で、まもなく警察から発表がなされる段取りです。それ以上の情報は、一切出さないようにお願い致します。発表資料を一部お渡ししますので、話に矛盾のないよう、目を通しておいてください」

「ああ、これ、掲示板に貼っておきますね。皆さん、もう、興味深々で」

「賊の侵入したアイリスト計算機室には、時価百億円相当の計算機システムがあったが、職員の発見が早かったため、幸い無傷であった、としておきましたんで、賊が侵入する動機には充分だと受け取ってもらえるでしょう」

「でも、あれだけのもの盗むのは、ちょっと大変ですね」

「ああ、計算機の大きさは、外部には、お話しにならないように」

「もう、論文に書いてしまいましたけどね」と石黒。

「マスコミの連中は、石黒さんの論文なんぞ、読みゃあせんでしょう」と、赤堀。「機械室に入りたがるかもしれませんが、絶対に入れないで下さい」

「この機械はJBBSさんの持ち物で、アイリストも守秘義務を負っていますから、外部の人間を入れることはあり得ません。この点はご安心戴いて構いませんよ」と相生教授。

「それはともかく、調書のコピー頂けましたら、足りないところを書き込んでおきます」と石黒。

「調書のコピーをお渡しするわけには参りません」と、赤堀。「昨日の件に関しては、既に充分な情報が得られていると考えておりまして、特別なことがなければ、このままで構いません。裁判も致しませんので」

つまらなそうな石黒をなだめるように、赤堀、声をひそめて、詳細を語る。

「今後のこともございますので、先生方には、裏の事情をご説明致しますが、これらは機密情報ですので、ここだけの話に止めておいてください。宜しいですか」

うなずいて賛意を表す教授達。

「実は、捕らまえました男、中国の諜報員に、ほぼ、間違いありません。彼等がアイリストを襲った動機ですが、ここで中国の暗号通信の解読をしていると考え、システムを調べにきたものと思われます。傍受装置をセットした可能性もありますので、後ほど専門家に調べさせます」

「どうして、ここで中国の暗号を解読しているなどと考えたんだろうか?」相生教授も小声で尋ねる。

「恐らく、我々の部局に内通者がおったんでしょう。先生に暗号解読をお願いする案が議論されておりましたので。実は、石黒さんから先生のご研究のお話をうかがいまして、こちらでも検討したところ、先生の開発された自己増殖型並列型思考アルゴリズムは、暗号解読にも有望という結論が得られまして」

(なんだ、こいつ、石黒の知り合いだったか)相生教授、じろりと石黒を睨む。
  五条理事長、ちょうど良い機会とばかりに、話を先に進める。

「それでだ、政府からの委託研究として、相生研究室で暗号解読をお引き受け頂けませんかな」

一瞬、言葉に詰まる相生教授。

「アイリストは市の教育施設ですが、そんなスパイみたいなことをして、問題になったりしないでしょうか?」と秋野助手。

「暗号解読に関しては、一切秘密でお願いします」と赤堀。「外部に漏れなければ、問題になることもありますまい」

「アイリストは独立採算でやっとるからね」と、五条理事長。「市立という形ではあるが、市の金を貰わない代りに、運営は我々の判断に任されておるんだよ。それに、スパイといったって、正式に政府の管理下で行われている、合法的な業務だよ。別に批判される筋合いのものではない」

「空中を飛び交っている電波を傍受して、暗号を解読することは、どこの政府でもやっていることです」と、赤堀。「この行為自体は、外部に漏れたところで問題になるものでもありません。秘密を守る必要があるのは、わが国がどの程度まで他国の秘密情報を知り得ているかという点でありまして、解読作業をどこで、どのように行っているかも、当然、秘密にしなくてはなりません」

「まあ、今請負っているJBBSの委託研究も今期限りで、その先は、他のテーマを探さにゃならんと思っとったところだから、渡りに舟の話ではありますな」と、相生教授。「それに、暗号というものは、情報理論の格好の研究対象でして、人工知能が扱う対象としてもなかなか面白いものです。まあ、成果を発表できないというのが、ちと辛いところですが」

「来期から、鳳凰堂の他に、かごめ自動車も研究員を派遣して、委託研究することになってますけど、この委託研究費では不足なんですか?」と秋野助手。

「ありゃあ、研究員の使う分でほとんど食われちまって、我々の分までは出んよ。まあ、研究員連中のお遊びに使う金を貰うわけだな」

「えー、相生研が赤字でも、馬場先生のところで稼いでいますから、アイリストの収支は当面黒字になる見通しで、ご心配頂くことはありません」と、五条理事長。「馬場先生のご研究に、相生研が多大な貢献をされていることは、我々もよく認識してますから。しかし、それを承知で申し上げましても、実はこのお話、アイリストにとりまして、なかなか意義のあるものでして。ご提示頂いている条件は、研究期間は三年、人件費二人分をご負担頂いて、政府派遣の研究員一名との共同研究と、ここまでは普通なんすが、これに加えて、解析用設備として、アイリストB棟計算機をプロセッサボード八十万枚規模に増強して頂けるということです。B棟計算機の能力不足は、かねてよりの懸案事項ですから、この増強は、アイリスト全体にとりましても、非常にありがたいお話です」

(プロセッサボード八十万枚?)秋野助手の目が吊り上る。(千手はプロセッサボード三百二十万枚だから、これには及ばないけど、二十億円は下らないわね。これがアイリストの資産になるなら、悪い話ではないみたい……)

「具体的研究内容は極秘として頂きますが、万一市議会などで問題になった場合には、私が対処致しますので、ご安心下さい」と、五条理事長。「アイリストは独立採算の独自運営でやっとりますんで、原則的に、文句のでる筋合いではありませんからな」

「こちらに派遣を予定している研究員は、霧崎といいまして、石黒さんの後輩、まあ、崇拝者といった方がいいですかな、計算機とAIの専門家です。それから、傍受した暗号メッセージは機密に指定されておりまして、これを扱うために、石黒さんには国軍技術将校を御本務として頂きます。もちろん、アイリストを兼務して頂くのは差し支えありません。また、本委託研究に関する全ての情報は国家機密ということで、アイリスト内部におかれましても、機密の維持には、十分にご配慮下さい」と赤堀、条件をつける。

「大変面白いお話ですね。制服も頂けるんでしょうか」と石黒。

「当然です。各種行事にも、ご参加頂きますから」

「君の軍服姿は似合うだろうね」と五条理事長。

(男の人って、どうしてこういう馬鹿なことで喜ぶんでしょう)と、あきれる秋野助手。だが、口には出さない。

「ああ、そうすると、千手は、来月からは、秋野さんにみて頂きますかな」と、相生教授。「これも、管理業務は、引き続きお受けすることになっとりますから。そういえば、石黒君の人件費まで持って頂けると、来年度の相生研は、職員一人分の黒字ということになりますな」

「まあ、しばらく、要員は増やさずにいきましょうや」五条理事長、なかなか渋い。

「AIOSはどうしましょうかね」と相生教授。

「AIOSはアイリスト側で研究を続けるのが良いんじゃないですか」と、石黒助教授。「私は暗号解読に専念させて頂いて、霧崎君と秋野さんに、あとを引き継いで頂いたら宜しいんじゃないでしょうか」

「秋野君、大丈夫かね」

「さあ。私、AIOSは、あまり詳しくないんですけど。霧崎さんに期待しますわ」


料亭の一室で、石黒に杯を勧める赤堀、

「石黒さん、ご入隊おめでとうございます。これからも宜しく」

「こちらこそ宜しく」と石黒。

「石黒さんの昨夜のご活躍には感服致しました。お手柄でしたな。スパイというものは、そう簡単に捕まるもんじゃありませんので」

「たまたま、鉢合わせしただけですよ。その後、何か、わかりましたか?」

「やはり、計算機を調べに来たんですな。連中のカメラに入っていたフィルムを現像したのがこれです。計算機が写っているようですけど、なんだかわかりますか?」

「スケルトンユニットの結線部ですね。これと似た写真は、論文にも載せたんですけどね。それからこっちは全体像です。これから読み取れるのは全体のプロセッサの数くらいですけど、これも論文に書いた情報を上回るものではありませんね。まったく、私の論文ぐらい読んでからスパイに来てほしいものです」

「まあまあ、石黒さんが論文に本当のことを書いたかどうか、誰にもわかりませんからね」と、赤堀。「それから、連中、こんなものを使っとりましたよ。こいつはファイバースコープで、手の届かない所の作業をするための特殊な工具です。ドリルで壁に穴をあけてこれを突っ込まれちゃあ、大抵のセキュリティシステムはアウトですなあ。こっちは、片方にはCCDカメラ、反対側には液晶画面とレンズがついとりまして、これを監視カメラのレンズの前にセットしてスイッチを操作すると、メモリーに取り込まれた静止画が監視カメラに映し出されるという仕掛です。おまけに、このカメラの映像、電波で飛ばすようになっとります。連中もよう考えとりますなあ」

「我々が待ち構えていたのも、完全にばれていたわけですな」

面白くなさそうに、杯を口に運ぶ石黒。赤堀は、石黒の空いた杯に、なみなみと酒を注いで、話を続ける。

「捕らまえました男、これまでのところ黙秘しとりますが、我々が以前からマークしていた男で、中国の暗号技術専門家に間違いありません。七年前に中国国立大学の情報工学科を卒業、奨学金を得て米国に二年間留学、帰国後、福建省でコンピュータセキユリティを扱うベンチャービジネスを起こし、一時成功するも倒産、悶々としていたところを政府にスカウトされて暗号関連の業務に従事、というところまで押さえとります。これは、三年前のことでして、その後どこでどうしていたかの記録はありません。しかし、この男、入国した記録もなく、諜報活動のために密入国したことは、間違いありません。元々暗号技術の専門家で、現場活動できるような男じゃありませんから、じきに落とせると思いますよ。右手と右足を骨折して、精神的にもかなり参っとりまして、薬も良う効いとるようです。石黒さんもまた、うまいこと痛め付けて下すったもんです」

「中国政府に抗議するということになるんでしょうか」

「まさか。こんな男は、最初からいなかった、ということに致します」

「消すと?」

「いやいや。アメリカさんが欲しがっとりますんで、こちらで調べるだけ調べたら、プレゼントします。いい暮らしをさせてもらえるんじゃないですかなあ」

煮物をつつく赤堀、石黒が徳利を持つと、慌てて自分の杯を空ける。

「閃光弾を投げ込んだのが、もう一人いたようですな」

「賊は三人とみておとりますが、残りの二人には逃げられました。賊の一人は、故障を装って車をバイパスの路肩に停め、二人が山を越えて侵入、一人はフェンスの外の斜面に潜んで、見張りと万一のときのサポート役、もう一人がアイリストA棟に侵入して、システムを嗅ぎ回っていたものと思われます。車のナンバーは、ハイウエイパトロールが控えとりまして、乗り捨てられておりましたのを発見して詳しく調べとりますが、車は盗難車で、ろくな手掛りは無いようです。捕まえた男がいずれ吐くでしょうが、どうせアジトもモヌケノカラでしょうなあ」

赤堀、口の回りをお絞りで拭く。

「昨夜の状況では、我々が倒した男をサポート役の男が救出することも可能だったでしょうな」

「そりゃちょっと難しいでしょう。閃光弾の攻撃に失敗した時点で一目散に逃げる、という行動しかとりえません。閃光弾が炸裂すれば、何秒かはこちらの動きを止められますが、その後は、警備員が大挙して押し寄せて来ると考えねばなりませんから」

「しかし、我々、よく撃たれなかったもんですな。閃光弾で命拾いをしました」
  「閃光弾を食らえば、普通は、しばし行動能力を失いますから、悠々逃げられると思ったんでしょうな」

「爆風から身を守ろうと、目と耳をカバーしたのが幸いしましたね」

「もちろん、閃光弾の代りに、消音銃やナイフ、ボウなどを使う可能性も十分にありました。今回は、幸い、撃たれませんでしたけど、次からは、扉の内側で敵を待ち構えるようにして頂くんですな」

(次は、なかろう)と、石黒、腹の中では考えているが、赤堀の言葉には、厳かにうなずく。


第1章 千手
第2章 出会い
第3章 人工知性体
第4章 レイヤの誕生
第5章 レイヤの復活
第6章 レイヤの追跡
第7章 レイヤの篭城
第8章 レイヤの時代