文春オンライン(角幡唯介氏)の7/19付けBLOGOS記事「『あなたの探検や本は社会の役に立ってないのでは』に言いたいこと」にコメントしました。
> 生き方を追求するには、外側の論理にしたがって生きるのではなく、内側から湧きあがる声にしたがって生きたほうが良いと思うんです。すごく難しいことはたしかですが。<
凄いですね。この言葉、家入一馬氏なら、たぶん絶賛するのではないかな?
実は、「理性」とか、それが作り出す論理に立脚したプラグマティズムといった考え方は、20世紀の後半に壁にぶつかっておりました。日本式経営システムも見直されたりしました。この背景には、理性や論理重視への反省もあったのですね。
米国の新しい価値である情報産業の源流に鈴木大拙師の伝えた「禅の思想」があり、ジョブズやウォズニアックもこれを継承しております。
大拙師の「日本的霊性」によればその基本は次の通りです。これは、越後に流配された親鸞が霊性に目覚める経緯でもあります。
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花鳥風月では四季の移り変わりがある。その移り変わりが「物のあわれ」の心理に呼応するのであるが、そこには大地の鈍重性・常住普遍性・四季無頓着性などというべきものがない。時々刻々にその姿を変えるところに、感性は動き情性は戦(おのの)くのである。これが大宮人の歌よみ心である。
霊性はこの心を打破してからでないと現れぬ。花鳥風月を支える大地に撞着するとき、霊性は輝き出るのである。一人の具体性はまた一人の実在性である。これは人間が大地に還るとき、初めて体認せられる。大宮人の住むちょうみやこには大地はない。これは鄙人(ひなびと)の踏まえるところである。
日本霊性は鄙人の胸に花咲く。みやこの親鸞は、ひとたび鄙人の愚禿にならなければならぬ。「藤井善信(ふじいよしざね)」は必ずしも配残の身に加えられた汚辱ではなくて、親鸞の霊性を覚醒さする呼名であったのである。
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これこそが、正に角幡氏のされていることです。これを否定する教育こそが、糞の役にも立たないと知るべきです。
> 生き方を追求するには、外側の論理にしたがって生きるのではなく、内側から湧きあがる声にしたがって生きたほうが良いと思うんです。すごく難しいことはたしかですが。<
これなかった。
私は健康になりたい。というのがすべてだったからね。