御田寺圭氏の11/24付けBLOGOS記事「ネット上に軋轢を生んだ『不滅の言葉』 ——Twitterにフリートが導入された本当の理由」にコメントしました。
面白いことが起こりつつありますね。
コミュニケーションの世界には、語られた言葉と書かれた言葉という二種類があり、このいずれを重視するかという立場の違いはあるのですが、これら二つは区別された存在だったのですね。
ところが、インターネットなどの電子的コミュニケーションは、この境界をあいまいにした。それがネットを介したコミュニケーションで、様々な軋轢をもたらす一つの要因になっていたのですね。
Twitterは元々、短文であるという性格上、オーラルコミュニケーション的性格をもっていたのですが、蓄積され、検索され、無数に送信されるという機能は印刷物と同じ性格を併せ持つ。
でも印刷物は、読者と著者の間に壁を作るのに対して、Twitterの持つオーラルコミュニケーション的性格はこの壁を壊してしまうのですね。そこには、マクルーハンの指摘する「リアクションなしにアクションする力」が失われてしまっております(メディア論:以下に一部を引用)。
印刷された言葉がもつ細分化の力,分析の力は,われわれに「感覚の分裂」[T.S.エリオットの言葉] をもたらしたのである.… この力こそが,個人的および社会的生活において緊密な家族的きずなをもった部族世界から,文字文化の人間を解き放し,思考と感情を分離し,反応 (リアクション) なしに行為 (アクション) することを可能にした力だったのである.
Twitterの、記録が一定時間で消えるという仕様は、良いアイデアだと思います。最初からそうしておかなくてはいけませんでした。
>>発信後24時間で削除される新機能「フリート」をツイッターが導入するという報せは、大きな話題となった。
発言したこと忘れるわ。