このブログでは過去にいくつか卑弥呼と邪馬台国関連の記事を書いてきましたが、改めてまとめておくこととします。ここで「俯瞰」という言葉を表題の先頭に置きましたのは、これまでの邪馬台国論が細部を追求する傾向が強いのに対し、本稿では全体的大局的な見地から議論したいという姿勢を示したものです。
戸数(人口)という切り口
魏志倭人伝には、邪馬台国に至るまでに通過する国々の距離、方位とならんで戸数が記述されております。下表に示しますように、その戸数の合計は15万戸で、一戸当たりの人口を5人といたしますと、これらの国々の人口は合計は75万人となります。当時の日本の人口は、百万人とも120万人とも言われておりますが、これらの国々の人口はその60~75%を占めており、我が国の相当に広い地域をこれらの国々でカバーしていることになります。
これらが我が国のどの地帯に相当するかに関して、対海国から奴国までは、対馬から後に灘(な)の縣と呼ばれます博多付近までに比定することで大方の見方が一致しているのですが、その他の国に関しては、諸説が並立しているのが現状です。ここでは、下図の比定を採用し、以下その理由を説明いたします。
まず第一に、これらの国を合わせた人口が我が国の人口の60%.以上を占めるということは、これらの国々で我が国の広い範囲をカバーしている必要があります。このため、戸数2万を擁する奴国の領域は、九州北半分ほどの広い領域を占めていると推定されます。この当時、南には熊襲などの、奴国とは異なる集団も存在したはずです。
ここでは、不弥国を宗像と比定しております。方位を90°読み替える邪馬台国大和説によれば宗像のあたりが不弥国に相当しますし、福間という音の似た地名もあります。もちろんこれらも理由ではあるのですが、北九州のいずこかに出雲の支配する領域があり、それが宗像(おそらくは宇佐も)ではないかと考えているからです。
崇神天皇60年に出雲の神宝を求めて武諸隅らを出雲に遣わした際、出雲の当主である出雲振根は筑紫の地に出かけて留守であったとの記述が日本書紀にあります。これが筑紫のいずれの地かは明白ではないのですが、それが宗像であった可能性は高いように思われます。すなわち、宗像は港があって出雲からの海路での往来に便利であるうえ、出雲がこの地で宗教的業務を行うことも不思議ではないのですね。
戸数5万の投馬国は、奴国よりもさらに大きな領域を占める必要があります。候補となりますのは、当時瀬戸内海で大きな勢力をもっていた吉備と、紀元前後に興隆を極めた古代出雲王国の流れをくむ国ということになります。ここでは、吉備を投馬国としておりますが、これは、大和の地の遺物に吉備の影響が認められること、本論では狗奴国を出雲に比定している(これにつきましては次回にもご説明いたします)などの理由によります。
記紀との対応:御所の所在地
邪馬台国が大和であるとした場合、日本書紀、古事記という我が国の文献記述と魏志倭人伝の記述がどのように対応するのかという点が問題となります。この謎を解明するため、まずは、記紀の記述で比較的信頼度が高いと考えられる御所の位置から、魏志倭人伝との対応を考察しましょう。
下図は、第2代から第10代に至る天皇の御所の位置をGoogle Map上に挿入したもので、2代綏靖の葛城高丘宮(かつらぎのたかおかのみや:御所市)、3代安寧の片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや:橿原市または大和高田市)、4代懿徳の軽曲峡宮(かるのまがりおのみや.:橿原市)、5代孝昭の掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや:御所市)、6代孝安の室秋津島宮(むろのあきづしまのみや:御所市)、7代孝霊の黒田庵戸宮(くろだのいおどのみや:磯城郡田原本町)、8代孝元の軽境原宮(かるのさかいはらのみや:橿原市)、9代開化の春日率川宮(かすがのいざかわのみや:奈良市)と、大部分が橿原市、御所市という葛城氏の本拠地に御所を構えております。
ここで興味深いのが、第7代の孝霊天皇と第9代の開化天皇が大きく御所の立地を動かしている点です。
第7代の孝霊天皇が御所を構えました磯城郡田原本町は、当時の青銅器生産拠点があったものと考えられております唐古・鍵遺跡の東2kmほどの場所に位置します。唐古・鍵遺跡は弥生時代の末期(3世紀中ごろ)まで続いたと推定される環濠集落遺跡で、当時あったと考えられる大型の楼閣は、復元されたものを今日見ることができます。この地はまた、卑弥呼が王宮を構えたと目される纒向に近く、孝霊の時代に卑弥呼の共立がなされて卑弥呼政権に関与するために、この地に御所を構えた可能性を示唆します。
第9代の開化天皇が御所を構えました奈良市(JR奈良駅付近)は、御所市からは20km、纒向からでも15kmほど北に移動した地点であり、何らかの重大な変化が生じたことをうかがわせます。
この頃に生じたと考えられる大事件といたしまして、孝霊の時代に卑弥呼が共立されたといたしますと、狗奴国との戦が重大局面を迎えたことが考えられます。大和への外部勢力の侵攻があったといたしますと、生駒山がその前線となり、春日率川宮(かすがの-いざかはの-みや)はここから10kmほど東に下がった位置に相当し、伝令が走って戦況や命令を伝えなくてはならなかったこの時代において司令部を置くには適切な位置といえるでしょう。
これらの御所の位置の変遷から、魏志倭人伝の卑弥呼の時代に対応する記紀の記述は、第7代の孝霊天皇の時代から、第9代の開化天皇、あるいは第10代の崇神天皇の時代が相当すると考えられます。
記紀との対応:邪馬台国の官
魏志倭人伝には、邪馬台国の官として、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮の4人の名前が見えます。この人たちは、大和における重要人物と考えられ、何らかの形で記紀に登場していても不思議はありません。結論から先に述べれば、下表のように対応しているのではないかと推定しております。
伊支馬=開化天皇説
この推定は、記紀の記述が正確ではないことを前提としております。その一つは、垂仁天皇は実在せず、その和風諡号は開化天皇のものであったと考えるのですね。その理由は次の通りです。
まず、「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」は第11代の垂仁天皇の和風諡号なのですが、記紀の垂仁天皇の記述は、物事のはじまりに関するものが多く、具体的な事績に欠けることから、その実在性に疑問がもたれております。
また、魏志倭人伝における邪馬台国の官の名において、イキマとイクメイリヒコ、ミマカキとミマキイリヒコが良く対応している一方で、その順序が1番がイキマで3番がミマカキである点は「長幼之序」に反し、このままでは対応関係が受け入れられないという問題があります。この問題は、垂仁天皇は実在せず、その和風諡号は前々代の開化天皇のものであったとすれば、イクメイリヒコの次の代がミマキイリヒコということになり、順序が合うことになります。
もう一つの興味深い点として、魏志倭人伝には景初2年(238年)の6月に、倭国王卑弥呼の使いとして「大夫難升米と次使都市牛利」を遣わしたという記述があるのですが、この「都市牛利(トシグリ)」が「都市牟利(トシムリ)」の誤記であるならば「田道間守(たじまもり/たぢまもり)」がこれに相当する可能性があるのですね。
田道間守は垂仁天皇に仕え、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を求めに常世の国に派遣されたことが日本書紀の垂仁記に記されております。彼が仕えたのが開化天皇であり、卑弥呼の時代の大和の国の王であったとすれば、その部下である田道間守が景初2年の朝貢使節として魏に派遣されることも不思議ではなく、記紀と魏志倭人伝の記述が対応いたします。
この時都市牛利とともに派遣された人物が「難升米(ナシメ)」です。この人物が誰であるかももう一つの謎ということになるのですが、「タシマ」と「ナシメ」の対応関係が注目されます。つまり、田道間守が「丹波の島守」の意味であるとすれば、丹波と双璧をなす海人国であるの灘にも「灘の島守」すなわち「ナシマモリ」が存在していて不思議はないのですね。
魏志倭人伝は奴国の官を「兕馬觚(シマコ)」と「卑奴母離(ヒヌモリ)」としており、シマコと島守との音の一致が注目されます。また、難升米は太夫(領地をもつ貴族、すなわちクニの王と本論では解釈)とされており、兕馬觚が灘の国の王に対応すると思われる奴国筆頭の官として魏志倭人伝の奴国紹介部分に記述されている点にも対応が認められます。
ミマキノスクネ=大彦説
表にはミマキノスクネという名前を記述したのですが、この名前が記紀にあるわけではありません。順位3の「彌馬獲支(ミマカキ)」を崇神天皇(ミマキイリヒコ)であると致しますと、記紀は彼の妃の一人、大海姫(オオアマヒメ)の父の名を「大海宿禰(オオアマノスクネ)」としておりますので、もう一人の妃「御間城姫(ミマキヒメ)」の父であります大彦が「ミマキノスクネ」と呼ばれていたことはありそうなことです。なお、尾張氏の系図によれば、大海姫(オオアマヒメ)は天火明命(アメノホアカリノミコト)の6世孫である建田勢の娘とされております。記紀が建田勢を大海宿禰と記したことは、興味深い点でもあります。
本論では、開化天皇は実は尾張の当主建田勢であり、入り婿であるがゆえに「イリヒコ」の和風諡号をもったと推定いたします。欠史八代は、大和の地で勢力をもった葛城氏の系譜と考えられるのですが、尾張氏は代々葛城氏の姫を妃に迎えており、女系相続の形で大和王を相続することはありそうなことです。
また、最初の地図にも記したように、魏志倭人伝における邪馬台国の戸数7万戸が正しいとすると、その版図は大和盆地にとどまらず、丹波から美濃に至る広大な領域を想定せざるを得ないのですが、開化天皇が尾張当主の建田勢であるなら、この点も矛盾なく説明が可能です。この時代、女王国と狗奴国との緊張関係が高まり、軍事に優れた尾張家の当主で葛城家との関係も深い建田勢を大和の国の王に迎え入れた、この時点で大和の国と尾張氏の支配する丹波から美濃に至る国々が一体化したとするのがありそうな展開です。
開化天皇が尾張の当主であるなら、その兄大彦も尾張の人間であり、大彦の息子、武渟川別(タケヌナカワワケ)もまた尾張の者ということになります。崇神天皇は支配権の確立後、各地に「四道将軍」と呼ばれる使者を派遣するのですが、丹波道主命(タンバミチヌシノミコト)の派遣されたのが丹波、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)が派遣されたのが西道(中国地方)と、それぞれにゆかりの地に派遣されており、大彦と武渟川別が派遣された北陸と東海は、彼らにゆかりの地であった可能性は高く、この二人が同地を支配する尾張の者であるとすることに無理はありません。
天皇系図の問題
魏志倭人伝における邪馬台国の戸数が異常に多いことから、邪馬台国の版図を丹波、山城、大和、美濃に広がる領域とするのが妥当であると思われ、そうであるならば、イクメイリヒコの和風諡号をもつ開化天皇は、尾張の当主であって入り婿の形で大和王の系譜に入ったとの仮説も成り立つでしょう。そうなりますと、記紀に記された皇統系図は修正せざるを得ない。少なくともこの部分は、尾張の系図が入り込む形となるはずです。
下図上は記紀に基づく天皇家の系図であり、孝元天皇が皇后欝色謎命との間に開化天皇をもうけ、開化天皇が皇后伊香色謎命との間に崇神天皇をもうけたという形になっております。
尾張氏の7代目当主(7世孫)は、先代旧事本紀の天孫本記では建田勢と建宇那比を併記し、新井喜久夫氏は建宇那比と節名草姫の間に大海姫他を設けたとしておりますが、ここでは、「宇那比命(ウナビノミコト)」と解釈されている名前は、「宇那比命(ウナヒメ)」なる万葉仮名的表記で、「海姫(アマヒメ・ウミヒメ・ウナヒメ)」を指していたものが誤って伝えられたのではないかと推定いたします。すなわち、建田勢を尾張氏の7代目当主とし、建宇那比は存在しないと考えることといたします。
開化天皇が尾張の7代目当主建田勢であるならば、その父は尾張の6代目当主建斗米であったはずであり、大彦は開化天皇の兄であったはずです。開化天皇(建田勢)の娘、大海姫命(おおあまひめのみこと、またの名は葛木高名姫命)は崇神天皇の后となり、兄、大彦の娘、御間城姫も崇神天皇の后となり、女系相続の形で大和の王位が相続されていく形となったものと考えております。これを系図の形にしたものを下図の下半分に示します。
尾張家当主に大和王の座が与えられた理由として、軍事的緊張感の高まりという外的要因もあったのですが、尾張の5代当主天戸目の母が葛木出石姫(かずらきのいずしひめ)、6代当主建斗米の母が葛木避姫(かずらきのさくひめ)という形で、大和の地を支配した葛城氏との深い婚姻関係があったためではないかと考えられます。
垂仁天皇の和風諡号とされる「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」が開化天皇の和風諡号であるとしますと、「入彦(イリヒコ)」は今日でいう「入り婿」つまりは女系相続がおこなわれたことを意味しているのかもしれません。同様な「ミマキイリヒコ」の和風諡号を持つ崇神天皇も入り婿であった可能性が高いのですが、崇神天皇は建田勢の娘である大海姫と、大彦の娘である御間城姫を妃としており、この二代にわたって女系相続の形で天皇の地位が引き継がれたことに対応しているように思われます。
その他、本論で入り婿と推定している開化天皇と崇神天皇の母の名を、記紀はいずれも「シコメ」としておりますことは、異様な印象であるとともに、記紀執筆者の屈曲した思いの表れであるような感も受けます。
倭王権の移行
ミマキイリヒコの和風諡号を持つ崇神天皇が、いずれの国からの入り婿であるかはもう一つの謎なのですが、我が国の建国神話が出雲から九州、そして大和の地へと変遷する形となっておりますことから、灘の国の王を迎え入れたと本論では推定しております。
灘の国は、紀元前後には古代出雲王国の西側の海運を担っておりました。このことは、後漢書の建武中元二年(西暦57年)に「倭奴國」の「自稱大夫」が朝貢したという記事から読み取ることができます。「大夫」は土地持ちの貴族であり「領主」的な意味合いと思われ、奴国の王を意味すると思われるのですが、奴国の王は倭国の王とは区別され、「倭國之極南界」にある「倭奴國」が朝貢を行ったという形となっております。当時は、卑弥呼の倭国が成立する以前であり、ここでいう「倭国」は古代出雲王国を意味するものと思われます。
その50年後の安帝永初元年(西暦107年)には、「倭國王帥升」らが朝貢するのですが、ここで注目されるのは「倭国王」とされている点です。この二つの朝貢が50年という短い期間を隔てて行われており、これらの間に我が国の政権交代があったという記述もないことから、これら二つの朝貢は同じ国によるものと思われます。そして、50年後の朝貢も奴国が行ったといたしますと、この間に奴国王は「倭國王」になったということを意味いたします。
出雲から奴国への倭王位の譲渡は、記紀の国譲り神話にも見ることができ、この間に、奴国が経済力を増す一方で出雲が没落したと致しますと、倭国の王権を奴国に譲り渡す一方で出雲に対する経済援助を約束したことも考えられるのですね。そしてその奴国王が後に大和の地で倭国王になったと致しますと、記紀の神話部分もほぼ現実の動きをトレースする形となります。
このようなことが実際に起こったのではないか、と本論では推測しております。
他の国の人びと
魏志倭人伝が卑弥呼を王とする以上、諸国の王を「王」と記述するわけにはいかず、陳寿は彼らを「官」として記述しているものと思われます。また、諸国の王は領土を持つのですが、土地持ちの貴族を中国では「太夫」と呼び、魏志倭人伝にも正式文書に個々の人物を表記する際に「太夫」という肩書を示すことが標準であるように思われます。
魏志倭人伝で「太夫」とされたのは、景初2年の朝貢使節を率いた「大夫難升米」と正始4年の朝貢使節を率いた「大夫伊聲耆」、そして年代不明の朝貢使節を率いた「大夫(率善中郎將)掖邪拘」の3名です。
奴国の王
ここでは、最初の「難升米」を「灘の島守」である「ナシマモリ」と推理しております。奴国の筆頭の官は「兕馬觚(シマコ)」と書かれており、シマモリと共通する音がそこには見られます。
吉備の王
「伊聲耆(イゼリ)」は吉備津彦の名である「ヒコイサセリヒコ」から「彦」を除いた「イサセリ」と音がよく一致し、吉備津彦が吉備の王であったものと思われます。最後の「掖邪拘」は、正始4年の朝貢使節で副を務めていることから、吉備津彦と行動を共にした「若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)」が妥当するものと思われ、「掖」がワ音を表す字の誤記であるとすれば「ワガク」となって「ワカヒコ」に対応すると考えることもできそうです。
魏志倭人伝の筆頭の官としての王
こうして、灘の国の王(難升米)と、吉備の国の二代の王(伊聲耆と掖邪拘)が魏志倭人伝の記述に認められるのですが、国々の筆頭の「官」とされた人物もそれぞれの国の王であると思われるのですが、魏志倭人伝では「太夫」とはしておりません。官はあくまで官という取り扱いなのですね。
これらの王と思われる官の呼び名は次のようになっています。まず、対海国(対馬)、一大國(壱岐)はいずれも「卑狗」で、これはすなわち「ヒコ」に相当するのでしょう。次の末盧國(松浦)は、官の名の記載がありません。
伊都国(糸島)の官は爾支(ネギ)としております。また、伊都国には代々王があったが女王国に統属しているとしております。ネギの音は神官である「禰宜(ネギ)」に通ずることから、伊都国の官のトップは(恐らくは男性の)巫女的人物であったのでしょう。そして、伊都国副官の「泄謨觚」と「柄渠觚」は、日本語の発音としておかしいとの指摘もありますが、「シマコ」と「ヒコ(コ)」であり、彼らは女王国(実際には吉備)から派遣された人物で、シマコが外交官的ないし事務処理を担当する文官、ヒコが軍事的方面を扱う武官という役割分担だったのではないかと思います。
(2022.5.19追記)ここで、末尾の「コ」が目立ちますが、日本語で接尾語の「こ(子)」には、「XXする人」、「XXの人」の意味があります。たとえば、「売り子」とか「江戸っ子」とかですね。上の「シマコ」は、「島守の人」、「ヒココ」は「彦の人」という意味であると考えますと、この単語は役職を指すのではなく、その職にある人を指す言葉と解釈できるわけです。(追記ここまで)
次いで、奴国(灘の国)の官は、兕馬觚(シマコ)と卑奴母離(ヒヌモリ)で、前者は外交官的文官、後者は後の我が国にもある辺境警備の官「夷守(ヒナモリ)」に相当すると思われます。灘の国の王は灘の島守(難升米:ナシマモリ)と推定すると前述いたしましたが、筆頭の官「シマコ」が島守に相当する言葉であると考えることに無理はないでしょう。また、卑奴母離は、壱岐、対馬の副官の名としても見え、これらはいずれも女王国が遣わした辺境警備の部隊を率いる長であるとみるのが妥当です。
奴国に夷守が配置されているということは、卑弥呼共立以前に起こった倭国大乱において、奴国が卑弥呼共立国に対立する側で倭国大乱に参戦した可能性を示唆しております。
実は、この先の部分に「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國」なる記述がなされております。日本語に訳しますと、「女王国より以北に一大卒(地方を軍事的に治める官職)を置いて検察し、諸国はこれを恐れている。常に伊都国で執務している」といった意味になります。伊都国副官のシマコとヒコは、おそらくはこの女王国の組織に関連する官であり、諸国のヒヌモリもまた一大率配下の官であったのではないかと思われます。
不弥国(宗像と推定)の王
奴国(灘の国)の次にありますのが不弥国(本論では宗像に比定)で、官は多摸(タモ)、副官は卑奴母離としております。タモが今日の何に相当するかは明らかではありませんが、この国は、おそらくは出雲の影響を強く受けた宗教的機能を持つ国であり、タモは何らかの宗教的な職名ではないかと思われます。また、副官がヒヌモリであることから、ここまでが女王国の監視下にある国であるとみるのが妥当でしょう。
宗像と不弥国の間に音の一致がないことは少々問題ですが、これまでの多くの研究者は、福岡県にあります糟屋郡宇美町(うみまち)と明治期に存在した穂波郡(ほなみぐん)が不弥(フミ)に近い音をもつものとして注目しております。いずれも宗像とは多少異なる位置にあるのですが、穂波群はかなり宗像に近い位置にあり、あるいは古い時代の穂波群の版図が宗像を含んでいることがあったかもしれません。またこの付近の類似する音をもつ地名として、宗像に隣接する福津市、福津市の前身である福間町があり、こちらはより宗像に近い位置にあります。
ミミと呼ばれた王
この先は、水行二十日、つまり船で20日間の航海の末に、投馬国(トマ国)に着くとしております。投馬国は、本論では吉備に比定しております。おそらくは、宗像を立った一行は、再び灘の国の領域を通り、苅田付近の港から瀬戸内海を航行して吉備に到着したものと思われます。
この国の官は弥弥(ミミ)、副官は弥弥那利(ミミナリ)というと魏志倭人伝は記述しております。ミミという言葉に今日ではなじみが薄いのですが、出雲文化の影響を受けた国々でしばしばみられる尊称で、「殿下」といった意味で用いられております。
古事記の崇神記には、「日子坐王をば、旦波国に遣はして、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめたまひき」の一文がありますが、玖賀(クガ)を漢字で書けば「陸」であり、「北陸地方」などといわれるときの「陸(クガ)」であり、カサの音も石川県加賀市橋立町の加佐ノ岬にみることができます。つまりここでいう「クガミミ」は、「陸(クガ)殿下」といった意味合いということになります。
吉備は中国山地を挟んで出雲に接しておりますので、ミミの尊称を用いていたとしても不思議はありません。なお、ミミナリの「ナリ」の部分は意味不明です。
その他、開化天皇の諡号「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと) 」にあります「大日日(オオビビ)」も尊称「ミミ」と同様の意味と思われます。開化天皇の諡号にこの言葉が含まれているという事実は、開化天皇が出雲文化の影響を受けた人物である可能性を示唆し、彼が丹波にルーツを持つ尾張一族の人物であるとの本論の主張を多少なりとも補強する材料にもなりそうです。
俯瞰:邪馬台国目次