青山まさゆき氏の6/16付けBLOGOS記事「70代の死亡者も1年間で1万人に1人。コロナは『国家的危機』ではない」にコメントしました。
このエントリー、危機と大惨事を、ひょっとして、取り違えられているのではないでしょうか。
大惨事とは、多数の犠牲者が発生した状況で、危機は、大惨事が発生する可能性が高まっている状況を言うのですね。
だから、危機において犠牲者はまだ発生していない。
だけど、危機である段階で、大惨事を防ぐ手段があるなら、それを実行しなくてはいけない。これは、大惨事を未然に防ぐ、当然の行為であるわけです。
以上、日本語教育の、お時間でした。
返信がついております。
加藤洋行
少なくとも日本においては危機でもないし、大惨事でもない。だって日本医師会の会長が寿司屋デートをし、政治資金パーティーを開いているんだから。石頭のコロナ脳にこんなことを言っても無駄だとわかっているんだけどね。
瀬尾 雄三
加藤洋行 さん
日本医師会の会長や政治家の方々が全知全能であるならば、我が国には危機も大惨事も訪れません。
とってもハッピーなことです。
実際のところは、そのあたりが少々怪しいので、多くの方が心配しているのですよ。
加藤洋行
6月15日現在の検査陽性者数累計は、770,065 名。つまり、コロナ日本上陸から1年以上経過しているのに、総人口の99%以上の人は感染していない。感染した人も99%が完治している。ワクチンも専用の治療薬もない状態で。これを国家的な危機とか大惨事というのは、頭がおかしい。毎年10万人が亡くなっている肺炎のほうが、よっぽど大惨事だろう。
瀬尾 雄三
いろいろな問題をまとめて整理しておきましょう。まず、「危機」と「惨事」に関しては、大きな被害が差し迫っている状態が危機で、これが発生した状態が惨事という違いを押さえておくこと。生じた被害が少ないから危機ではないという、このエントリーの主張は用語の意味論的な誤りがあるという点をまず指摘しておきます。
もう一つ、誤解されがちなことは、社会的な問題と個人的な問題で、我が国の新規感染者は百万人あたり数人から数十人といったレベルで、街を歩いている感染者の比率は0.01%程度と、よほど人の大勢いるところに行かなければまず出会わない。
つまり、個人が感染するリスクは、さほど心配する必要はないのですが、それでもこの程度の感染者数で医療資源がひっ迫するという問題が起こり、感染防止のための社会的措置が必要になる。これによる害(経済的被害など)が大きいわけですね。
しかし、ならば感染防止措置をしない方が良いかとなると、そうせざるを得ない理由が現にある。医療資源のひっ迫は実際に生じているわけで、ひとたび医療崩壊を招くと大きな被害の発生が予想されている。現に海外ではそのような問題(大惨事、ですね)がすでに発生している。だから、社会的対応は、せざるを得ないわけです。
「お花畑」という言葉は、国際的な緊張関係についてよく語られるのですが、コロナに関しても、似たような状況があるように思われます。特に、コロナ感染拡大措置の影響(被害)を多く受けている層がその害を軽視し、結局感染拡大を招いて社会的対応の強化を招く、皮肉な状況となっているのですね。ここは、目先の損得をいったん棚上げした、大局的な思考が、それぞれの利益にとっても、肝要だと思います。
まあ加藤氏はワクチンを打ちたくないだけだから。