PRESIDENT Onlineの7/27付けBLOGOS記事「『"世界に一つだけの花"というウソ』夢をあきらめる人生のほうが絶対に幸せだ」にコメントしました。
方向と道程ということかな? 私も子供のころ、怪獣映画を見て、白衣を着て「ハカセ」とか呼ばれている人にあこがれた。まあ、こういう人になら私もなれるかもしれないし、それなりに多くの人に評価されている。目標にすべきモデルですね、と。
現実にやったことは、怪獣映画とは全然違う、現実的な問題を片づけていくわけですね。でも、長い間研究所に勤務して研究職を務めたし、博士にだってなったのですね。図らずも、子供のころの夢を実現した。方向は一致している。実際の内容は全然違うのですけど。でもそれでよいのですね。
戦術と戦略とか、目標とそれに至る具体的手段とか、幸せになってしかるべき人になるための方法と、幸せになるための方法とか、目指すべき方向と歩むべき道は、別の問題ではあります。
オンリーワンの問題は、そのあたりが分離していない。オンリーワンになっても、生活が成り立たなければ幸せになれない。方向はオンリーワンでよいけれど、それに至る道は、現実的な問題解決の積み重ねなのですね。
娘がまだ小さかった頃、たまの外食に向かって、川端の道を歩いていたことがあったのですね。川岸にアジサイの花がたわわに咲いているのを見て「幸せとはこんなものかもしれない」と思ったことがありました。まあ、実際にも、幸せとはそういうものでしょう。でもそれを保つためには、具体的現実的なストラグルも必要。そういうことじゃないかな? お花畑じゃダメ、ということですね。
返信がついております。
花の ヤン<オンリーワンの問題は、そのあたりが分離していない。オンリーワンになっても、生活が成り立たなければ幸せになれない。方向はオンリーワンでよいけれど、それに至る道は、現実的な問題解決の積み重ねなのですね。>
ここで言うオンリーワンとは主観的なものだと思いますよ。
つまり、自分にとってオンリーワンということではないでしょうか。瀬尾 雄三
花の ヤン さん:「主観的」というのは英語で言えば「サブジェクト」、これは、実体という意味なのですね。カント以降の哲学では、すべてに先立つ自我がまずあって、それが認識した世界が実態、これを主体が外部に投影(オブジェクト)したものが「客観」なのですね。
これはギリシャ時代からの伝統的世界観とは逆で、カント以前は「サブジェクト」といえば外界の実体で、それが人間精神に投影(オブジェクト)したものが「客観」ということだった。
ただし東洋の思想では、あるじ(主)の見方が主観で、客(第三者)の見方が客観、ということで、フッサール流の相互主観性(他者と共有された主観)の上に形成された世界こそが客観であるとしたのと同じ世界になるのですね。もちろんこの世界は、カントを踏襲したものです。
今日の多くの人たちの世界観は、カント以前の古典的な世界観にとどまっているし、自然観もニュートンのレベルにとどまってしまっている。相対論や量子論の世界になると、ニュートンのギリシャ以来の客観世界から、カントの近代的客観世界に場を移さなくちゃいけない。でも今日の人たちは、相対論や量子論を追いながら、古い世界観から脱却できていないのですね。
人類がもう一つ進化の階梯を上るには、まだまだ時間がかかりそうです。
アインシュタインエジソン