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鏡は曇りがち

田原総一朗氏の7/31付けアゴラ記事「『政治の宗教化』を許してはならないと改めて誓う」へのコメントです。(ブログに追記あり)


鵜呑みにしてはいけない思想とは、ナチズムや戦前日本の思想だけではなく、共産主義を標榜する国々の思想もそうだし、日本では赤軍派などもありました。このあたりを、青木保氏は「多文化世界」の中で次のように語っております。

バーリンはイデオロギーは人間の理想を鼓舞する一方、人間性をおとしめたり抑圧したりする、この問題については、19世紀の最も鋭い社会思想家でさえ誰一人として予言していないと述べています。近代思想の中で、社会改革のイデオロギーは常にプラスの方向、よりよいものであると捉えられていました。それはフランス革命以来、人間の理想の追求の一環として捉えられてきたからだと言えるでしょう。

ただ、20世紀を振り返ってみますと、理想主義に貫かれたイデオロギーのもたらしたものは、結果的に反人間的な行いであり、価値の分断であり、ナチズムに象徴されるように、人類の一体化よりはむしろ人類の分断であり、抑圧であったと言えます。これは大変不幸なことだったと思います。

今日のリベラルと呼ばれる左寄りの人たちにもまたイデオロギー的傾向があり、その平和主義や9条護持といった絶対的であるようにも見える考え方についても、どこかで考え直す必要があるでしょう。

自らの問題点には、なかなか目がいかないものなのですが、、、


以下はブログ限定です。

青木保氏の「多文化世界」につきましては、本ブログの「理想、求めて抑圧される、人間性」でご紹介しております。

そういえば、ポパーの「開かれた社会とその敵」「開かれた社会とその敵(第二部)」は、プラトンとナチズムを批判する形で、共産主義を批判した書物といわれています。

また、スポンヴィルの「資本主義に徳はあるか」には、次のような興味深い一節があります。

ひとが最悪の事態をみずからに許してしまうのは、ほとんどのばあい善の名のもとにおいてのことなのです。これが十字軍症候群であり、そこから私たちの知るかぎりのすべての災厄が生まれました。これはこんにちまでつづいています。ブッシュとビン・ラディンがあれほどまでに自身が第三の秩序において善を、あるいは第五の秩序において神そのものを代表しているなどと確信したりしなかったら、彼らの政策にたいしてこれほど恐れを感じる必要はなかったでしょう。また、レーニンあるいはトロツキーが本当は共産主義を信じていなかったら、あれほど無定見に、またおそらく大量に銃殺することもなかったでしょう。

なんとここでは、ブッシュとビン・ラディンがレーニン、トロツキーと同列に扱われております。たしかに米軍もまた、イラク侵攻に際しては気化爆弾も使用し、大量殺戮も行っているのですね。

同書に関しては、本ブログでもご紹介しております。

その他、多義的な成句として「地獄への道は善意で舗装されている」というのもあります。これにつきましては、Wikipediaなどをご覧ください。

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