池田信夫氏の8/6付けアゴラ記事「コロナ対策のコストの99%は浪費だった」へのコメントです。
99%が浪費に終わるのは、リスク対策ではごく普通のことです。火災保険だって、99%以上の人が掛け金を払っただけの結果に終わっているはずだけど、それは無駄という話ではない。
リスクに対する対処は、そのリスクの示現する確率が無視できるほどには低くなく、そのリスクが示現した場合の損失が自ら負担できるほど軽微ではない場合に必要となり、火災に対しては、リスクを他人に転嫁する、保険という対応がとられるわけですね。
新型コロナの場合は、当初、ヨーロッパ各地で猛威をふるっており、予想される損害は軽微とは言えない。また、国内にも患者がいるという状況では、無視できるほどの低い確率でもない。だから対応は必要であり、無駄に終わることも覚悟の上で(否むしろ無駄に終わることを目的として)リスクに対応する。これが普通のやり方なのですね。
西浦氏の予測が少々オーバーだった可能性は(医者の習性だと思うし)否定しませんが、『何も対応がとられなければ』という前提の予測を、対応がなされた現実と比較しても意味はありません。アジアの犠牲が少なかったという事実は、何らかの形のファクターXがあったことを意味するでしょうが、不確実な幸運に国民の命を賭けることは、為政者としてやるべきではない。
厚労省の対応が少々もたつき気味であることは確かですけど、全体として、我が国はうまくやった方だと思いますよ。もちろん、もっとうまくやれた可能性を否定するものではないのですが、、、
返信がついております。
Takumo Ishikawa
火災保険のような受益者負担のシステムと同一視はできない上に、99%の浪費をして守るべき利益が何だったのかという議論も必要でしょう。新築から築50年の家屋まで火災は等しく消失させうるわけですが、コロナが奪う命は統計的に老人に限られているのは明らかです。余命を数年延ばすためにこれほどの対策が必要だったのか、という議論は、大変冷酷に聞こえますが、国富が無限ではない以上せざるを得ないところでしょう。瀬尾 雄三
Takumo Ishikawa さんへの返信です。返信への返信がうまくできないようですので、こちらに返信します。99%の無駄というのは、リスク対策ではごく一般的な話です。
福島原発の予備電源がすべて失われた際に使われるバッテリーが100%使われると、炉心溶融が始まる。この手のものは、1%だって使われないのが正常なのですね。全国の道路に設置されているガードレールのどれほどに自動車が衝突しているか、ちょっと考えてみればわかるでしょう。
その他、世代間の対立を煽るような議論は不毛でしょう。今日の政治家の目が高齢者に向きがちである以上、高齢者の意向は無視できない。民主主義とはそういうものです。また、原理原則の議論に持ち込んでも、生存権を平等に認める以上、高齢者を犠牲にせよとの政策は取り得ない。この部分は無理筋です。
今日の厚労省の問題とは、そういうことではなく、日々刻々変化する事態への対応がきちんとできていないことです。感染力は強大だけど死亡率が低いとなれば、それ相応の対応が要求されるにもかかわらず、これができていないことが最大の問題なのですね。
ブロックされるな。