長谷川良氏の9/27付けアゴラ記事「なぜ『自由意志』は苦悩するのか:ニューロンの自律的反応でしかない?」へのコメントです
自由意思の問題は、カントがアンチノミー(難問)に挙げた3つのうち、最後まで残っている難問でしょう。他の二つは、無限に対する理解と、量子力学でおよそ説明がついているのですが。問題は、当時知られていたニュートン物理学によればすべてが決定論で片付くのだが、人は自由意思を認識している、というポイントですね。
アルフレッド・ミーリー著「アメリカの大学生が自由意志と科学について語るようです」は、2018年の出版と、比較的新しい書物ですが、自由意思をレギュラー、ミドルクラス、プレミアムの三つの階層で語っています。コントロールされていないのがレギュラー、選択可能性がミドル、超自然的魂を認めるのがプレミアムなのですね。ミーリー氏は、脳の解析が進んだ結果、自由意思は幻想に近いという方向に論を導いております。
ニュートンの決定論に対して、量子力学は選択可能性を追加したのですが、単なる乱数発生では自由意思とは言えない。ベンローズのマイクロチューブルみたいに、量子力学的不確実性の中に超自然的魂を認めるという方向は、ないではないけれど、ベンローズ氏もこの考えを最後には引っ込めております。
ところで、物理学や宇宙論は、人間を大宇宙に浮かぶ土塊に付着した有機物の偶然の活動にすぎないとしているのですが、カントから現象学に至る哲学の(たぶん)本流はエッセンシャル・エゴの上にすべてを構築しております。すべては己の認識を出発点とすべきであり、物理法則や宇宙論といえど、人が認識しているモデルのような存在だ、というわけですね。
相対論は、時間と空間を一体とした四次元空間として世界をとらえております。ここで理解の難しい点が時間で、四元時空の中でのそれぞれの慣性系に付随する局所時間はその慣性系の四元速度だというのですね。静止座標系上の観測者は、時速1時間で未来に向かって進んおります。で、異なる慣性系の時間軸は、異なる方向を向いている。そんなことがあり得るのは、時間の特殊性は人の世界認識に伴って生じたものだ、ということです。上に述べました本流哲学の世界観も、さほどおかしなものではないのですね。
諸行無常