アゴラ編集部の10/11付けアゴラ記事「ひろゆき氏が辺野古で問いかける感想以上の社会運動」へのコメントです。
この話題を傍で見ていて、そこはかとなき滑稽さを感じ、なぜだろうと思っていたのですが、ずいぶんと昔に読んだ書物を思い出して、そういうことか、と自分で納得しています。
つまり、ひろゆき氏が理性の階層で議論しているのに対して、沖縄の米軍基地反対運動家の方々は、いろいろな論理の階層がごっちゃになってしまっているのですね。
スポンヴィル氏は彼の著「資本主義に徳はあるか」の中で、パスカルの「パンセ」を引いて次のように述べます。
滑稽さの方から始めましょう。パスカルがこの語で考えていることは、たんに笑いを惹き起こすようななにかにつきるものではありません。パスカルは、【秩序の混同】が存在するたびごとに【滑稽さ】という言い方をしていますが、もちろんそれは私よりもまえのことです。とはいえ、パスカルの念頭にあった【秩序】は、私のそれと同じものではありません。参考までに思い起こしておくなら、パスカルにおける秩序とは、肉体の秩序、精神ないし理性の秩序、心情ないし慈愛の秩序の三つです。これらのうち二つないし三つの秩序が混同されるたびごとに、パスカルはおおよそのところ「注意。ここに滑稽なものがある」と書くのです。
つまり、「気持ちを考えろ」というのは「心情ないし慈愛の層」であるのに対して、ひろゆき氏は「座込んでいない」というロジックを語っているわけで、議論にならない。また、ひろゆき氏への対応にフィジカルな秩序が絡んでいる様子もチラ見できて、総じてごっちゃ。これを『滑稽』と、パスカルもスポンヴィルも断定するし、私もそこはかとない滑稽さをここに感じるわけです。
事実として沖縄県知事としてデニーを選んだということは、実際に基地に対して潜在的に否定的になっている人が多いということで、それを小バカにしたひろゆきの行動はより基地問題をむずかしくしたにすぎない。潜在的であった基地に対する嫌悪感を、ひろゆきという不愉快な人物が基地を賛成していることを通じて基地に対する嫌悪感を顕在化させてしまった。
そうは言っても人は感情のいきものさ。
正論ほど、うけいれ難いものはない
今回のことで彼らはますます意固地に不条理に反対を唱えることになるでしょう。
まあひろゆきは単に笑えるネタを探しただけで、沖縄の基地をどうしようとも考えてはいないのだろうけど、その結果より面倒な人々を増やしただけにすぎないのさ。
真面目に基地を辺野古に移転しようとしている人にとってはめいわくこのうえない。