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学術論議での用語定義の重要性

池田信夫氏の1/24付けアゴラ記事「アイヌは『先住民族』ではない」へのコメントです。


アイヌの問題は、明治以降の北海道への移住者増加による先住者(これをアイヌと呼んでいる)の困窮で、「旧土人保護法」などが問題視されているのだと思います。

社会問題を議論する際は、その問題が生じている部分にフォーカスすべきであって、はるか昔にさかのぼる議論では、「人類みな兄弟」になってしまうのではないでしょうか。

まあ、学問的な議論を封印してしまうのであれば、これは乱暴というものですが、なぜツイッターみたいな場で発言したかは少々疑問でもあります。


返信がついております。

星光

件のツィートの文脈がわからないのでなんとも言えませんが、デマや流言飛語の類でないのであれば、学問的な議論であろうがなかろうが、言論の自由は守られるべきでしょう。

ツィートの目的がなんであれ、そこに書いてあることだけで内容の可否を判断すべきです。


瀬尾 雄三

星光さん
> デマや流言飛語の類でないのであれば、学問的な議論であろうがなかろうが、言論の自由は守られるべきでしょう。...ツィートの目的がなんであれ、そこに書いてあることだけで内容の可否を判断すべきです。

このご主張ですが、「ツイッターが不適切」との私の主張は、元エントリーの以下の主張に対応してのものであり、この手の微妙な問題を扱う学問的な議論にツイッターを使うことは疑問であるとの認識を示したものです。

池田信夫氏
> これは歴史的事実の問題だから、政治的に処分するのではなく、学問的に議論すべきだ。

この手の問題が難しいのは、塩川仲明著「民族とネイション―ナショナリズムという難問」でも紹介されているように、『民族』の定義があいまいなことで、塩川氏の『エスニシティ』の定義がこの問題を扱うに適切ではないかと思います。

> エスニシティ:国家・政治とのかかわりを括弧に入れて、血縁ないし先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して、「われわれは○○を共有する仲間だ」という意識―逆にいえば、「(われわれでない)彼ら」はそうした共通性の外にある「他者」だという意識―が広まっている集団を示す

この定義でも問題であるのは、血縁を重視するか文化を重視するかという点で開きをもっていることで、DNAという血縁のみでの議論は偏った議論になってしまいます。

その他、日本の民族問題に関しては、小熊英二著「単一民族神話の起源」大変に面白い書物で、我が国の『民族』に関する認識の捻れがよくわかると思います。これらの書籍をご一読されることをお勧めします。


星光

瀬尾さん、

ご主張の理由はわかりましたが、大きな誤解があるように思われます。池田氏は「ツィッターで」学問的議論をせよとは言っておられません。ツィートの投稿者がツィッターで学問的議論をしたかったかどうかも不明です。

それはさておき、民族問題についての書籍のご教示ありがとうございます。アイヌの先住民族については、私が他の方へのコメントで書いた通り、文化的な意味での民族ということではないかと。


瀬尾 雄三

星光さん > 池田氏は「ツィッターで」学問的議論をせよとは言っておられません。ツィートの投稿者がツィッターで学問的議論をしたかったかどうかも不明です。

池田氏は「歴史的事実は学問的に議論すべき」と書かれており、北大教員氏はツイッターに「アイヌは先住民族でないことは確かです」などと書いているわけですから、「学問的に議論すべき話題がツイッターに書かれた」わけですね。

問題と思われる点は、ツイッターが短文しか扱えず、定義も難しい『民族』などという問題を学問的に議論するには適切なメディアではない、という点です。

もう一つの問題は、この発言が(池田氏のこのエントリーを含めて)アイヌ民族を自覚する人たちのアイデンティティや文化を否定し、人格・誇りを傷つける内容と解釈されても仕方のない点なのですね。

民族を扱う議論は、社会的に微妙な内容を含むだけに、ツイッターなどで気安く発言するのではなく、学術文書の形で提示して、用語の定義や過去の来歴を含めてきちんと議論すべきだと思います。


真壁 隆紀

旧土人保護法の内容はご存じですか


星光

瀬尾さん

> 「学問的に議論すべき話題がツイッターに書かれた」

池田氏が「学問的に議論すべき」だと思っている話題が、某教授によって「ツイッターに書かれた」ことをもって、池田氏がツィッターで学問的に議論すべきだと主張していることにはなりません。

さらに言えば、池田氏の文章を素直に読むと、その「学問的に議論す」る主体は北大なのでしょうから、ツィッター上での議論だとは考えにくいです。

> アイヌ民族を自覚する人たちのアイデンティティや文化を否定し、人格・誇りを傷つける

それは過剰反応というものでしょう。そんなことを言われたら、考古学的な論証もそれを引用することも不可能になってしまいます。ひいては、学問的な議論を封殺するような非常に危険な発想です。天皇陵を研究材料にすることを不敬だとして禁じるのと発想は変わりません。

いかなる学問的議論も、その引用も、ツィッターで気やすく行われてまったく問題ないと思いますよ。むしろ、そういう開かれた姿勢こそ学問のあるべき姿だと信じています。


瀬尾 雄三

星光さん

> 池田氏が「学問的に議論すべき」だと思っている話題が、某教授によって「ツイッターに書かれた」ことをもって、池田氏がツィッターで学問的に議論すべきだと主張していることにはなりません。

池田氏がこの問題を「ツイッターで議論すべきだ」などといったなどと私は主張していませんよ。「学問的に議論すべきだ」と池田氏は主張されているのですね。そして、学問的議論はツイッターでは難しい、と私は申し上げているわけです。学問的議論なら、学会誌などの媒体で議論してもよいし、個人のブログでも、きちんとしたデータと論理を示して議論すればよいのですね。

アイヌの問題は、非常に複雑で、このコメント欄のような限られた場での議論は適さないし、私がそれほど専門知識があるわけではない。後期博士課程で文化人類学をご専門とされる先生の元でインターネットにおける文化対立を研究いたしましたので、周辺知識がゼロというわけでもない、という程度のものです。

その私から見れば、今日のアイヌの問題は、明治以来の北海道開拓に伴って生じたアイヌの人たちの困窮化と、差別的扱いの問題が尾を引いているということ、金田一京助氏の紹介されるように、アイヌの人たちは、固有の言語をもち、独特の文化を継承していることも事実なのですね。

このような問題を扱うには、相当な注意をもってかからなくてはいけない。アイヌの研究をする際には、その文化を理解する姿勢も欠かせないと思うのですね。なにぶん、相手は生きている人々であり、固有の文化をもつ集団なのですから。そういう意味で、ツイッターで軽々しく扱うような話題ではないし、特に専門家を自認する人であるなら、この手の話題の取り扱いにはますます注意が必要なところだ、と私は思うわけです。


星光

瀬尾さん

> 学問的議論はツイッターでは難しい、と私は申し上げているわけです。

そのご主張には賛同しますが、池田氏の「政治的に処分するのではなく、学問的に議論すべきだ。」という言葉との脈絡がまったくありません。氏がツィッターでの議論を想定していないと認識されているのであれば、唐突にすぎるご指摘かと。

> ツイッターで軽々しく扱うような話題ではない

おそらく、これが瀬尾さんのご主張の核心であり、そのために「学問的議論はツイッターでは難しい」という根拠を出しておられるのではないかと思います。

学問的に議論するのが難しいのは当然ですが、だからといって学問的な議論をしてはいけないとは思えません。軽々しく書いてもよいではないですか。そのツィートをきっかけとして啓蒙的なツィートが誘発され、より深い理解が研究者以外の多くの人達に拡がれば誰にとっても有益なはずです。政治的にデリケートな問題だからという理由で公共の場での議論や発言を封殺してよしとするような考え方には断固として反対します。むしろ、政治的な問題であればあるほど広く人々の関心を引きつける必要があると思います。


瀬尾 雄三

星光さん

> 池田氏の「政治的に処分するのではなく、学問的に議論すべきだ。」という言葉との脈絡がまったくありません。

池田氏の言う「学問的に議論すべきだ」は、全く正しい言葉です。だけど、そうであるなら、最初からツイッターなどでこの問題を提起した北大職員の行為が間違っている。

つまり、この手のセンシティブな話題を扱うに、ツイッターは全く適さない。なにぶん、まず、先住民族の定義からしなくちゃいけない。この定義は、アイヌ問題を議論する際の学問的立場であれば、松前藩や明治政府の「北海道入植に対する先住民族」とみなすべきはずなのですね。

でもそれを、縄文時代の先住民族について議論するなら、まずこの部分から議論しなくちゃいけない。もちろんそれ以前に、「民族」の定義もきちんとしなくちゃいけない。少なくともDNA型で民族を定義するという主張は、民俗学や文化人類学的見地からは、相当に異端だと思います。

更には、明治期にアイヌ文化が絶滅の危機に瀕したという事実やアイヌ差別の歴史、更にはこれらを保護しなくてはいけないとの日本政府や世界の共通認識から考えますと、先住民族としてのアイヌ不在論をツイッターなどで唱える行為は、彼らの存在を否定しアイデンティティを傷つけ名誉を棄損する行為と言わざるを得ない。素人の無責任な行為ならともかく、学者がこれを言ったら、それ相応の社会的制裁を受けることは当然であるように、私には思われます。


星光

堂々巡りをしているようですが、ツィートをした職員が学問的議論をツィッターでしようとしていたかどうかはわからないのですから、その「行為が間違っている」というご指摘は「学問的議論にツィッターが適当ではない」というご主張を認めたとしても成立しえません。

> この手のセンシティブな話題を扱うに、ツイッターは全く適さない。

そこが理解できません。単独のツィートで説明しきれなくとも、いくらでも連発して補足きるわけですし、それに反論する一連のツィートをすることもできるわけですから。

ツィッターで先住民であることを否定することは名誉毀損にあたるが、学術論文や学会発表で否定することは名誉毀損に当たらないというのも不思議な話です。私はそのような二重基準には大いに反対です。

処罰すべきだという発想は、いずれは学問的な議論すらできない状況を産み出し、社会に害をなす極めて危険なものです。瀬尾さんがそのような立場をとられることは大変残念です。


星光

本筋とは関係ないコメントですみませんが、ちょっと面白かったので...

「ツィッターで政治的にセンシティブな問題を学術的に議論することは適切だろうか?」

という問いかけに対して、

「Twitterは、政治的な問題を学術的に議論するために適したプラットフォームと言えますが、それでも一定の注意点があります。Twitterは、短いフォーマットでの議論であるため、複雑な問題を十分に説明することが難しいことがあります。また、Twitter上では、政治的な意見が強い人々が多くいるため、議論が敵対的になる可能性があります。その上、政治的にセンシティブな問題について議論する場合は、事実に基づいて、公正かつ公平に行うことが重要です。

学術的な視点から議論をする場合は、研究やデータを提示し、自分の見解を説明することが望ましいです。その上、他人の意見に対しても敬意を払い、議論を建設的に進めることが重要です。」

という答がChatGPTから返ってきました(^o^)


瀬尾 雄三

星光さん

> ツィッターで先住民であることを否定することは名誉毀損にあたるが、学術論文や学会発表で否定することは名誉毀損に当たらないというのも不思議な話です。私はそのような二重基準には大いに反対です。

ツイッターでの発言は、「アイヌは先住民族でないことは確かです」のような形になり、先住民族であることを自覚しているアイヌの人々のアイデンティティを否定する行為になるのですね。

このような物言いは、学術論文でするとしても、アイヌが先住民族であるとした先行研究の問題点を指摘する形で行われるべきだということです。これは、別のスレッドで紹介したWikipediaの「先住民族の定義」を読んでいただければわかると思いますが、先住民族との認定には様々な学術的議論の元でなされおり、これらの議論に反論することは自由だという原則によります。https://ja.wikipedia.org/wiki/先住民族の定義

学会発表などでは、このような根拠を欠く形で「アイヌは先住民族でないことは確かです」と発表することは可能かもしれませんが、これは、学術発表であるとは言えず、処分の対象になるでしょう。学術論文などで自由という意味は、それが学術論文の体をなしていること、当該分野の専門家が見て妥当である(暴言ではない)と認められることが前提ですよ。形式ではなく、内容が大事、という意味ですから、誤解のないようにお願いいたします。

他の方のコメントにも返信を入れておきました。

西 裕也

日本政府も国連もアイヌを「先住民族」として認定していることは事実。民族の明確な定義すらないけど。 先住民族の定義を限定しすぎてるこの投稿だけでは反論とはとても言えないが、遺伝的、文化的に見て常に検証を続けることは必要なのは確かだろう。

件の教授については根拠不明だから処分されても仕方ないのでは。


星光

言論・表現の自由を尊ぶのであれば、誰を誹謗中傷しているわけでもないのに、自分が思っていることをツィートしただけで処分される理不尽さを「仕方がない」とするのはいかがなものかと思います。

正しいか正しくないかという問題ではありません。


瀬尾 雄三

横から失礼します。アイヌの問題に関する日本政府の基本認識がよくわかる資料が以下のURLにありました。https://www.kantei.go.jp/.../ainusuishin/pdf/siryou1.pdf

この中で大事なことは、西さんが上に書かれているように、アイヌ民族が先住民族であることを政府も国連も認定していることの他に、27ページからの次の記述が大事でしょう。

> 憲法の人権関係の規定の中では、第 13 条の 「個人の尊重 」が基本原理であり、我が国における法秩序の基礎をなす原則規範である。アイヌの人々にとって、自己が他の多くの日本人と異なる文化を持つアイヌという存在であるという意識(すなわちアイヌのアイデンティティ)を持って生きることを積極的に選択した場合、その選択は国や他者から不当に妨げられてはならない。さらに、アイヌというアイデンティティを持って生きることを可能にするような政策を行うことについても配慮が求められよう。

つまり、アイヌのアイデンティティを否定するような言説は慎むべしというのが政府の方針であり、国立大学としてはこの方針に反する言動をはたらく教員に何らかの制裁処分を下すことも妥当と思われます。

少し前には、中傷ツイートに「いいね」を押した杉田水脈氏が名誉棄損に問われる判決もありました。アイヌを否定するツイートの違法性に関しては判断が分かれるところでしょうが、この手の話題の扱いに関しては、気を付けるに越したことはありません。


星光

瀬尾さん

> アイヌのアイデンティティを否定するような言説は慎むべし

政府としての立場としてはそうだというだけで、個人がどのような意見を持ち、発信することも自由です。

そうでなければ、学問的な議論すらできなくなります。


瀬尾 雄三

星光さん

> 政府としての立場としてはそうだというだけで、個人がどのような意見を持ち、発信することも自由です。

個人がどのような意見を持つことも自由だが、発信することは自由ではないのですね。つまり、言論の自由も一定の制約を受けるというのが、この世界のルールです。

基本的には、個人の権利を不当に侵害する行為は、民法の「不法行為」とみなされて賠償責任が発生するほか、名誉棄損や侮辱に相当する行為は刑事罰が科せられることもあります。そして前者の「権利」には、「人格権」などがあり、アイヌを自認する人々の人格を侵害するような行為は許されていないわけですね。

政府や国連がアイヌ民族を認めているという事実は、この人格権が公に認められている、ということを意味しており、それなりの重さをもっているのですね。

もちろん、これらが絶対であるかといえばそうではなく、学問的な議論を妨げるものではありません。しかし学問というのは、なんでも思い付きを語ればよいというものではなく、過去に蓄積された知識の上に新たな知識を継ぎ足していく行為が要求されるわけです。こうしたことをするには、ツイッターなどよりもはるかに適したメディアがいくつもある。学問的に議論しようなどという人は、まずそこに気付かなくてはいけません。


星光

瀬尾さん

、 言論の自由の前提として、名誉毀損の類でなければ、ということは断るまでもなく当たり前の話です。 しかしながら、政府がどのように規定していようが、それと相容れない見解を個人が発表することがただちに侮辱にあたるわけではありません。

言論・表現の自由は他者の権利を明らかに侵害しないかぎり、最大限認められるべきものだと思っていますが、その線引きは曖昧で、残念ながら我が国では容易に名誉毀損等を認め、言論・表現の自由を軽んじる傾向があるのも事実です。実際、ツィッターで「いいね」をしただけで認めてしまうような呆れた判決も出ていますが、だからといって、それを唯唯諾諾と受け入れて良しとするような瀬尾さんのご意見には真っ向から反対いたします。

> ツイッターなどよりもはるかに適したメディアがいくつもある。学問的に議論しようなどという人は、まずそこに気付かなくてはいけません。

学術論文で議論しようが、名誉毀損が成り立ちうるのは同じことです。ツィッターでの学問的議論だとアウトで、学術論文ではセーフになるというのおかしな話ではありませんか?

忖度するに、結局は、瀬尾さんが件のツィートを「アイヌ」の人たちへの明白な侮辱に当たると思っておられるということなのではありませんか?そうであれば、まずはその点を明確に示してからご高説を展開されたほうが説得力があったかと思います。老婆心ながら。


瀬尾 雄三

星光さん

> 結局は、瀬尾さんが件のツィートを「アイヌ」の人たちへの明白な侮辱に当たると思っておられるということなのではありませんか?そうであれば、まずはその点を明確に示してからご高説を展開されたほうが説得力があったかと思います。

Wikipediaで「金田一京助」をご参照いただければよくわかると思うのですが、明治以降の和人の北海道入植によりアイヌの人たちは困窮を極め、言語や文学も失われんとしていたのですね。金田一氏はその記録と保存に努める一方、和人の一人としてふるまったがゆえに同化政策の推進者として非難されることにもなる。

我が国におけるアイヌ問題は、まさにこの時代的背景にあるのであって、時代としては主として明治以降、拡大するとしても、松前藩による蝦夷地管理にさかのぼる程度であり、問題の主眼は文化であってDNAなどの遺伝的特質ではないのですね。

それを「先住民族としてのアイヌは存在しない」と言い切ってしまうことは、アイヌの人たちのアイデンティティを否定することになるし、文化言語の消滅を後押ししてしまうことにもなりかねない。これは、アイヌの人たちの人格権侵害とみなされる可能性は、相当に高いのではないかと思いますよ。

じつは池田氏の掲げている『北海道教育委員会の作成した年表』も、その引用の仕方には大きな問題がある。つまり、一般にアイヌ問題の中心的時期とされる「明治以降」をカットし、この問題とはあまり関係のない「旧石器時代」を掲載している。この図を見たアイヌ問題に詳しくない人は、アイヌ民族が先住民族であるようには見えないでしょう、でもこんな印象操作には惑わされず、真実を見抜く力が読者には要求されている。このあたりもよく考えてみることをお勧めします。


瀬尾 雄三

星光さん

一言追加します。

先住民族の定義に関しては、Wikipediaが良くまとまっておりますので、ぜひご参照ください。https://ja.wikipedia.org/wiki/先住民族の定義


しかし、これは少々まずいです。北海道教育委員会の年表の池田氏による省略引用(上)と、本来あるべき省略引用の一例(下)を以下に掲げておきます。

これ、下の方が切られております。逆に、北海道教育委員会の年表の上を切ると次のような年表になるのですね。

下の年表を見れば、アイヌは近代現代の入植者に対する先住民族だと分かるでしょう。一方、池田氏の引用だと、アイヌよりも古い人たちしか表示されておらず、アイヌは先住民族ではないとの印象を与えてしまいます。そして今日のアイヌの問題が、主として明治期以降のアイヌ民族の困窮をベースとしていることから、下の引用の方が適切であり、明治期をカットした池田氏の引用は不適切と思われます。

これは、ほとんど捏造に近い引用の仕方ではないでしょうか。少なくとも学問的議論などというものからは、はるかに隔たっております。池田氏の学者としての矜持が問われるところです。

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