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仕残した喧嘩に向かう上野女史

アゴラ編集部の2/22付けアゴラ記事「上野千鶴子先生が入籍?『おひとりさまだと信じていたのに』と怨嗟の声」へのコメントです。


遙洋子著「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」読みますと、この先生のものすごいところがよくわかります。その中でも圧巻は80ページからのフェミニズム誕生を紹介した部分なのですね。同書によりますと次の通りです。(引用されている文献は「諸君!」95年2月号です)

「日本でリブが産声を上げたのは1970年、安田講堂の攻防が敗北に終わったあとのことである。大学闘争が解体し新左翼が末期に向かったときに、日常性のただなかを「戦場」として、リブは誕生した。(「連合赤軍とフェミニズム」)」と上野は書く。

そして大塚栄志氏はこれを次のように評価いたします。

永田洋子の手記にちらつき、彼女自身がうまく言語化できないでいる男性支配的な価値への生理的な違和は、'80年代に上野千鶴子らによってフェミニズムと名付けられ(「永田洋子と消費文化」)

ここで引用されている文献は「諸君!」の94年6月号です。それにしても、引用されている文献がみんな「諸君!」なのはなぜ? それはともかく、ここで一つの学問領域が成立した。これは大いに評価すべきだと思いますよ。その他のことは、まあ、てなぐさみ、みたいに考えておけば宜しいのでは?


返信がついております。

星光

なくても良い、いや、ないほうが良い学問領域(というか、「似非学問」領域)というものもあるのでは?

なんでもかんでも、作り上げたから評価すべきだというものではないと思いますよ。負の遺産を作り上げた業績も業績とみなすべきだと十把一絡げに評価するのはいかがなものかと。


瀬尾 雄三

星光さん

> なんでもかんでも、作り上げたから評価すべきだというものではないと思いますよ。

我が国にフェミニズムの概念が定着したことで、日本の文化レベルは一段階上がったと思いますよ。その功績は大であり、上野氏には幸せになる資格が十分にあります。

その他のこと(おひとり様などなど)は、時流に合わせた雑文で、お金を稼ぐためのエンタテインメントの提供と割り切るべきでしょう。

少なくとも私は読む気が起こらない。この手の言説を本気に受け取って怒るのもどうかしている、と感じています。


星光

> 我が国にフェミニズムの概念が定着したことで、日本の文化レベルは一段階上がったと思いますよ。

文化レベルがフェミニズムのような空疎な流行り物で上がるとは思えませんが、そこはもう見解の相違としか言いようがありません。

上野氏に限らず誰でも幸せになる資格はあると思いますよ。

おひとりさまシリーズ(?)は私も読んでいませんが、読まずに、単なる雑文だから本気に受け取るべきではないと言い切ってしまうのはいかがなものでしょう。

少なくとも、「おひとりさまの老後」は科研費による研究成果の一つとして計上されているようですが。


瀬尾 雄三

星光さん

> 文化レベルがフェミニズムのような空疎な流行り物で上がるとは思えませんが、そこはもう見解の相違としか言いようがありません。

たしかに見解の相違といわれればその通りです。

私の見解では、フェミニズムは女性の人権にかかわるものであり、男には面白くない話であることはその通りなのですが、普遍的正義であり、世界的潮流でもある。少なくともイスラム世界の女性蔑視にNOという以上、この方向は認めるしかありません。(別にそういうことは義務ではないのですが)

一方の「おひとり様」は気分の問題、マーケティングの問題であり、経済的なり人生の価値を高めるという意味でそれ自体に価値があることは確かなのでしょうが、己自身で楽しみを見出す人間には無用の話。単純にそれだけです。

その他、「幸せになる権利」とは、タワマンに住んだり高級車に乗ることで、上野氏の場合は、社会的貢献に即して妥当であろう、との感覚が私にはある、というだけの話です。権利というほどの大げさなものではないかもしれませんけどね。


星光

御高説承りました。

私も多少補足いたしますと、女権も男権も等しく認められるべきであって、どちらも重要だと思っております。我が国で女性の権利が認められない不幸な時代があったのは確かですが、それも過去の話。女権拡張を唱えるのは、少なくとも日本においてはアナクロニズムとしか思えません。むしろ、行き過ぎたフェミニズムによる逆差別が社会を蝕むことを危惧します。

上野氏であれ誰であれ、贅沢な暮らしや結婚生活を謳歌する幸せを望む権利はあります。社会貢献の有無とはまったく関係ない話です。ただ、他人に対してはそんな生活を望むべきでないと言っているのだとすれば(著作を読んでないのでそうなのかどうかは知りません)、偽善的だとか嘘つきだと言われてもしょうがないとは思います。


瀬尾 雄三

上野氏がフェミニズムを唱えた1970年から1980年代に至る時代というのは、女性蔑視の思想が日本の一部に未だ根強く残っていた時代なのですね。

上野氏の問題意識は、これが左翼運動家の中にも見られた点だったこと。一般社会では、「不二子ちゃ~ん」のアニメ「ルパン三世」の放映が1971年開始、宇野総理が芸者問題で69日務めた総理の座を追われたのが1989年だったのですね。

しかしこの1989年という年は、ものすごい年でした。1月に昭和天皇がご逝去されて平成となり、6月に天安門事件が勃発しております。また、1989年は東欧革命の年で、11月にはベルリンの壁が崩壊するのですね。

そういう歴史の中での宇野総理の69日天下を見ますと、やれやれ、という感じがいたします。上野千鶴子さんの発破は、少々不足だったといった方が正解じゃないでしょうか。

ちなみに、1989年の大変化を予言したような歌がABBAのHappy New Year。1979年の末に、新しく迎える10年(ディケード)がどんなものだろうか、1989年の終わりにはどんな新世界が待っているだろう、と歌うのですね。今聞いても、驚くしかありません。https://www.youtube.com/watch?v=CcddhcuyywQ


以下のコメントを追加しておきました。(2/24)


コメント欄を見ておりますと、高齢者は集団自決したほうが良いといった人は、高齢者になった時点で集団自決しなくちゃいけない、ということなのでしょうね。少なくとも、それが多数意見である様子です。

本当でしょうか?

フッサールは、自分自身を捨象して外的世界を記述する自然科学に対して、外的世界を捨象して自我の内部を記述する哲学(現象学)を打ち立てました。

研究対象として、研究者自身を含まない、普遍的一般的な世界を選ぶことはごく一般的なのですね。自省の学もあるのですが、学問研究に際しては、自分自身か、外的世界かの、いずれの世界かを選ばなくてはいけません。

太った看護婦に肥満だといわれるのがおかしいとの意見もありますが、肥満であるか否かはBMIなり体脂肪率なりの客観的指数で判断されるべきであって、判断する人間の体形が判断を左右するものでもないのですね。


こちらにも返信がついております。

星光

> 学問研究に際しては、自分自身か、外的世界かの、いずれの世界かを選ばなくてはいけません。

お言葉ですが、研究対象である社会と研究者自身は排他的な存在ではなく、研究者自身もその社会にに含まれる一員であると考えるほうが妥当ではないでしょうか?

もちろん、自身の行動を外挿して社会を論じることはできませんが、自身も社会の構成員であることは無視できないはずです。社会を分析した結果、自分が典型例に入らないということはあって当然かとは思いますが、「あるべき社会の姿」のような理想を論じる上で自身の行動がそれにそぐわなければ、それは欺瞞だと思わざるをえません。

太った看護婦の喩えを考えれば、やはり肥満体の看護婦さんに生活指導されても素直に受け取れないのはいたしかたないかと。なんらかの正当な理由があって、本人の努力も虚しく肥満体にならざるを得なかった場合は別ですが、指導をする前にそのことを釈明しておくべきでしょう。


瀬尾 雄三

星光さん

> 「あるべき社会の姿」のような理想を論じる上で自身の行動がそれにそぐわなければ、それは欺瞞だと思わざるをえません。

さしあたり問題となっております「おひとりさま」は「あるべき社会の姿」というよりは、「ライフスタイルに関する助言」的性格のもので、評論として売り出す以上、ボリュームゾーンをターゲットとして論を組み立てなくちゃいけません。

これは、マーケティングにも共通するもので、いかなる新製品を出すかを考えるとき、マーケットの選好というものをまず調査してこれに合わせなくちゃいけない。企画室の人間の趣味などは、あまり押し込んではいけないのですね。

だから、上野氏のような、東大教授をやって、知名度も高く、本を何冊も書いてかなり売れている人が、自分のように生きることを他人に勧めても始まらない。ボリュームゾーンの人びとにとって有益な知識なら、それは本人の生き方とは関係なく、役に立つ評論なのではないでしょうか。

ちなみに、「みんな揃って貧しくなろう」は、最初からバカみたいな考えだと思いますよ。まあ、我が国の自称「リベラル」は、そんなことを考えているのかもしれませんけど。

1 thoughts on “仕残した喧嘩に向かう上野女史

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