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そろそろコペルニクス的転回か

長谷川良氏の3/7付けアゴラ記事「『神』がサイコロを振る時:量子物理学の発展で新たな見解」へのコメントです。


今日の科学哲学が押しております素朴な自然主義では、人(観測者)とは関係なく物理的世界が実在し、そこで量子力学的現象が起こっているとします。この立場からは、【観測に伴い波束が収束する】とする「コペンハーゲン解釈」は、なかなか理解し難いのですね。

コペンハーゲン解釈に対する合理的な考え方は、【物理学が対象としている世界は、人と無縁の自然界ではなく、人の知識の総量である】とするもので、これはカントの世界観【人はモノ自体を知り得ず、ただ認知された世界を知るのみである】に近いのですね。

もう一つ世界の物理学者の支持を集めている解釈に【観測者の数だけ世界が存在する】とする「多世界解釈」があります。これも、人と無縁の世界を前提とする素朴な自然主義の立場からは荒唐無稽な解釈なのですが、カントの世界観を前提とすれば、ごく自然な考え方ということになります。

カントの世界観は異様に聞こえるかもしれませんけど、相対論の世界にも、これを支持する要素があります。つまり、相対論は世界を3つの空間軸と一つの時間軸からなる4元時空として扱うのですが、時間軸に対しては特別な扱いをしなくちゃいけない。そして、4元時空のどの方向が時間軸であるかは、観測者の速度に依存するのですね。つまり、時間に特別な性質を与えているのは観測者だということ。時間が特別なふるまいをする4元時空は、観測者によって作り出された世界である、というわけです。

脳科学や人工知能の発達で、人の精神といえども特別なものではないとの認識が生まれつつあります。そろそろここは、カントの世界観へと「コペルニクス的転回(カントの言葉)」をすべき時期じゃないかと思いますよ。


返信がついております。

徳永公治

「収束したから観測できた」が正しいのではないかと


瀬尾 雄三

徳永公治さん

> 「収束したから観測できた」が正しいのではないかと

まあたしかに、ぼやッとしていても、波束が勝手に収束して観測できることもあるのでしょう。

ここで考えているのは、観測のためにセンサー(蛍光板やガイガーカウンターなどですね)を設置して、そのいずれかの場所に波束が収束した結果観測できた、というケースです。

もちろん、この場合も「収束したから観測できた」は正しいのですが、観測するためには収束させる必要があるわけで、「観測に伴って波束が収束する」もさほど間違ってはいないのではないでしょうか?

1 thought on “そろそろコペルニクス的転回か

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