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個人⇒社会:移すべき扶養義務

池田信夫氏の5/11付けアゴラ記事「若者は老人より貧しくなるのか」へのコメントです。


昭和16年以前には、年金などというものは、公務員など一部を除いてなかったわけですが、それでも高齢者は生きていけた。なぜかと言えば、高齢者と現役世代が同居する大家族が一般的だったからなのですね。

大家族の時代では、子は成長するまで親に扶養される。そして、親が高齢化して働けなくなったら子が親を扶養する。ギブアンドテイクがそこには成り立っていた。まあ、親は家屋敷田畑を所有する場合も多く、必ずしも一方的に扶養されていたわけでもないのですが。

時代が下がって、大家族がさほど一般的ではなくなりますと、働けなくなった高齢者は食っていけない。年金に頼るようになる。現役世代がお金を出し合って高齢者の年金にあてるというのは、昔の高齢化した親を子が扶養するのとさほど変わりはないのですね。

ところが、大家族の場合は、子供を育てて、その子供に扶養してもらっていた。これが年金という形になると、子をつくらず、子を扶養しなかった人も、子世代に扶養してもらう。これは不公平、ということになり、経済合理性を考えると子供をつくらないのが正解ということになる。

結局のところ、高齢者を一律年金という形で社会全体が扶養するなら、子供の扶養も社会全体でするしかない。現役世代には保険料が大変だけど、その代わり子供の扶養にお金がかからなくなれば、トータルプラマイゼロ。そういう形にするしかないのではないでしょうか。

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