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「過ちは繰返しませぬ」の主語

池田信夫氏の5/21付けアゴラ記事「広島サミットの『献花』に感じた違和感」へのコメントです。


「過ち」の主語は、第二次大戦参加国で、米国以外に、ドイツも、そして日本にも、原爆投下の責任の一端はあると心得なくちゃいけません。

米国の罪につきましてはよく知られたところですから省略するとして、ナチスドイツの原爆開発はよく知られた話です。ハイゼンベルクの「部分と全体」には、同氏がナチスドイツの原爆開発にかかわったとの一節があります。彼は、そんなものができる筈はない、と考えていて、米国の原爆投下に驚いたと書くのですが、これは単なる言い訳であるようにも思えます。

なにぶん、米国に亡命したアインシュタインが米国の原爆開発を働き掛けたのは、ナチスの原爆開発計画を知っていたからなのですね。ナチスの原爆開発は、レジスタンスによるノルウェー重水工場爆破によりブレーキを掛けられたとも言われております。これがなかった場合、どの程度まで原爆開発の可能性があったかは、謎ではあるのですが。

第二次大戦中には、我が国にも核兵器開発の試みはあり、仁科博士を中心とするグループが人形峠のウラン鉱石から濃縮ウラン製造の研究を行っていたのですね。今にして思えば、こんな計画が成功する可能性はほとんどゼロだったのですが、当時はそんなことはわからない。少なくとも、やろうとしたことは事実で、運が良ければできていた。

核爆弾ができたとして、これを米国に投下する手段は風船爆弾くらいしかなかったわけですが、風船爆弾を使えば、原子爆弾がなくても、毒ガスや細菌などの大量殺りく兵器を使うこともできたのですね。でも、これはあえてしないだけの良識が日本にはあった。これは誇ってよいことだと思います。でも、核兵器を開発しようとはした。これでは、米国を非難したところで、五十歩百歩のそしりは免れないと思いますよ。

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