コンテンツへスキップ

言葉の切り取りと指導者の問題

6/1付け藤原かずえ講座(アゴラ記事)「言葉の切り取り」へのコメントです。


「言葉の切り取り」が、報道のあり方として妥当性を欠くものであり、ジャーナリズムの公正さからかけ離れたものであることは論を待ちませんし、我が国のマスメディアでこのような報道が横行していることは、このエントリーのご指摘する通りだと思います。

しかしながら問題は、そのような現状は、もはや誰しもが知っているところであり、取材を受ける政治家や各種団体の長は、当然これを知っていなければいけないし、それ相応の対応をしなくてはいけないのですね。

窃盗が横行しているなら、扉に鍵を掛けることは当然だし、暴走車の多い道路を横断するときは、左右をよく確認しなくちゃいけない。これは、わが身なりおのれの所属組織を守るための社会人(否、それ以前に大人)なら当然わきまえているべき常識だと思うのですね。

であるにもかかわらず、質の悪いメディアに格好の材料を提供してしまう。森元総理など、そうなる可能性に感づいていながら、あえてしゃべってしまう。こうなってまいりますと、責められることに快感を覚えているのではなかろうか、などと変なことまで考えてしまいます。

相手が悪いという論は、それなりに意義のあるものだとは思いますが、そうしたものが多数存在する劣悪な環境の中でも、事業を粛々と進めることができる、そういう指導者が求められているのだと思いますよ。


返信がついております。

星光

泥棒の被害に遭った人を非難するような姿勢の書き込みはいかがなものかと。油断しないことは肝要ですが、それでも油断は生じますからね。

咎められるべきは泥棒のほうだということをいくら強調しても強調しすぎることはないと思います。


瀬尾 雄三

星光さん

> 咎められるべきは泥棒のほうだということをいくら強調しても強調しすぎることはないと思います。

もちろん、泥棒が咎められるべきこと、私も否定はしておりません。しかし、この場合泥棒被害を受けるのは素人ではなく、専門家なのですね。

つまり、政治家というものは、ろくでもない連中の相手もしなくちゃならない。海千山千のイエロージャーナリズムの相手もしなくちゃいけない。言論の自由というものも難しいのですね。

そんな状況下で、おかしな発言の切り貼りをされ、非難殺到などという事態は、銀行員が油断して銀行の金を盗まてしまったような話で、銀行員もけしからん、ということになるわけですね。

特に森元総理の場合など、本人も危ないと意識してしゃべっている。悪く受け取れば、俺は悪くないとの逃げを打ったうえで、あえて責められそうなことを言っているような気がしないでもない。そうであったら、これは少々問題ある行為であるように思われますよ。共犯、といったところかな?

1 thoughts on “言葉の切り取りと指導者の問題

コメントは停止中です。