中村仁氏の8/12付けアゴラ記事「オイルショック50年、揺れた原発政策に対する一記者の回想(下)」へのコメントです。
防潮堤をかさ上げすると、「原発はやはり危険なのか」という社会の警戒感、不安感を呼び起こしかねない。オイルショック後の省エネルギー政策を先導してきた原発運動に反対運動が起きかねないと判断したに違いなく、直接的には東電、間接的には政府側に責任があったと思う。
これがすべてであるように思います。こと原発に関しては、推進と反対が完全に分離して、冷静な議論というものができない。これは、原発を推進する側の説明責任もあるのですが、感情的感覚的な議論で住民の不安をただただ煽る、サヨク運動家、評論家たちの責任も甚大であったと言えるでしょう。
そういう人たちがいて、その狙いがある程度あたっているから、原発を推進する側もまともな議論ができない。さらには、この対立構造が固定化すると、今度は推進側にも先入観が生じてしまい、まともな批判も職業的な左翼の批判と区別がつかなくなってしまう。
そうなりますと、「防潮堤をかさ上げすべき」との主張も、サヨクの「原発は危険である」という声に聞こえてしまう。でもこれが左翼の運動に原因があったとしても、その責任をサヨクに帰すことはできないのですね。なにぶん、物事を実行しようとする側に、これに伴う責任が発生するわけですから。
しかしその結果甚大な損失を被ったのは、周辺住民はもちろんですが、東京電力の損失も計り知れない。そして、東京電力の社員、なかんづく原発を推進した人たちの損失も計り知れないのですね。結局は、これら責任をきちんと果たすことによってしか、幸福な人生はつかめない。このあたりは、きちんと反省しなくてはいけません。
すいそすいそ