内藤忍氏の9/5付けアゴラ記事「京都人は高慢なのではなく『商売下手な田舎者』仮説」へのコメントです。
「高慢」を英語に訳すと「pride(プライド)」、「誇り」と同じ単語なのですね。
京都は古い歴史があり、文化のレベルも高い。これは、京都の人たちは大いに意識している。誇りに思っている。でもそれは、これを高く評価する人には素晴らしいものだけど、あまり評価しない人には大したものではない。後者の人には「高慢」に見えるわけですね。
この手の文化の違い、価値観の相違は、たとえば大学を出て会社勤めをすると出てきたりする。東大や早稲田を出た人は、出身校にそれなりの誇りを持っている。でも、企業にとっては、社員がどの大学を出たかはあまり意味がなく、実力で評価する。実力もないのに出身校を鼻にかけると、それは「高慢」ということになるのですね。
田舎者というのも、別の意味で、異なる文化を持っている。デカルトもこれにはずいぶん悩まされた様子で、方法序説には次のような文章もありました。白水社イデー選書からちょっと引用しておきましょう。
さまざまな国々の世のさま人のさまについて何かを知っておくのはいいことで、それは私たちの生き方や暮らしぶりをいっそうまともに判断するためにも、また私たちの流儀に反することは何でもこっけいで理屈に合わないと考えないためにもなります。何も見たことのない連中は、えてしてそう考えます。
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