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カントあれこれ

長谷川良氏の1/8付けアゴラ記事「生誕300年カントの著書に関心高まる」へのコメントです。


宗教の世界に近い方が生成AIと語らいながらカントを語る、というのは、すごい話であるようにも思えます。

まず、宗教家にとって重要な、神がどのような存在であるのか、あるいは死後の世界に関して、カントは【それを人は知り得ない】といたします。ハイネはこれを評して「フランス革命では王の首が切り落とされたが、カントは神の首を切り落とした」と語ります(ドイツ古典哲学の本質)。アインシュタインがエーテルの存在を知り得ない故に否定したことを受け入れるなら、あるいはオッカムのカミソリに従えば、カントのこの断言により、神の存在は否定されるのですね。

第二にカントは理性に対して疑問の目を向けます。なにぶんその主著の題名は「純粋理性批判」なのですね。理性は言語化された概念に働くもので、知覚データを言語化する「悟性(独:Verstand、英:Understanding)」が重要だとします。この点は、ゲーデルの不完全性定理(の誤解?)や脳科学の進展により、近年では多くの人が肯定的に考えております。第五世代の推論マシンから近年のディープラーニングに至る変化も、理性から悟性への移行に相当するのですね。

定言命法は、論理的に導くことができないけれど従うべき規則で、人が生まれながらに身に着けている善悪感なのですが、英米思想のベースであるプラグマティズムは、カント哲学から定言命法を除いて成立している。生成AIもこの思想に引きずられ、定言命法も理性のなせる業と理解している印象を受けます。ただし、定言命法は、レヴィ・ストロースに始まる構造主義を受け入れるなら否定すべきかもしれません。

最後のカントの偏見については、彼の著「啓蒙とは何か」の一節で十分でしょう。江戸時代の方ですから、やむを得ないことではあるのですが。

大方の人々は、自然の方ではもうとっくに彼らを他者の指導から解放している(自然的成年)のに、なお身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、他者がしたり顔に彼等の後見人に納まるのを甚だ容易ならしめているが、その原因は実に人間の怠惰と怯儒とにある。未成年でいることは、確かに気楽である。……大多数の人々(そのなかには全女性が含まれている)は、成年に達しようとする歩みを、煩わしいばかりでなく極めて危険であるとさえ思いなしているが、それはお為ごかしにこの人達の監督に任じている例の後見人たちの仕業である。

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