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涙の功罪

長谷川良氏の3/14付けアゴラ記事「人は統計上の死者に涙を流せるか」へのコメントです。


死者に涙することが、果たして良いことであるのか、危険な行為であるのか、これは、判断の難しいところです。

同じ悲劇を繰り返さないためにも、死者を可能な限り特定化することで涙を流し、死者を追悼しなければならないからだ。死者を統計上の世界から救済することは生きている人間の責任だ。

以前、仕事で訪れたアムステルダムで多少の余裕時間ができた時、近くにある名所旧跡とガイドブックに紹介されていた「アンネの家」というのを訪れたことがあります。で、入った瞬間に後悔した。なにかの宗教施設のような、異様な雰囲気だったのですね。何度も塗りなおされたようなペンキの分厚い壁をさすって涙する人もいる。重い沈黙に支配された場所だったのですね。

もちろん、アンネの日記を読んだ人なら、そうなる理由もわかる。この家で、一人の少女がナチスの迫害を逃れて隠れ住んでいたこと、そして最後はガス室で短い人生を閉じたこと、その正に隠れ住んだ家におれば、それなりの感情にとらわれることも無理はない。

だけど、ナチスのガス室で命を落とした人は、そうそう少ない人数ではないし、その中には少なからぬ少女だって含まれていたはずなのですね。その中の特にアンネという一少女に特別に共感することは、果たして公正なことであるのか。もしそれが、一国のあるべき道を決めるための選挙なり、人を裁く場に、何らかの影響を与えるとしたら、これはむしろ危険なことなのではないか。その涙は、地獄への道を舗装するという「善意という名のタイル」と同じなのではないのか、ということなのですね。

それからずいぶん経った後、ポール・ブルーム著「反共感論」を読んだ時、この思いを肯定する言葉に出会い、心強いものを感じた次第です。

共感には利点がある。美術、小説、スポーツを鑑賞する際には、共感は大いなる悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには善き行ないをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針としては不適切である。愚かな判断を導き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感には反対する。

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