岡本裕明氏の5/2付けアゴラ記事「イチゴ白書をもう一度。学生を焚きつけたイスラエルの行方」へのコメントです。(こちらもご覧ください。)
さて、1968年のコロンビア大学のベトナム戦争を背景にした学園紛争が70年に「いちご白書」という映画になり、ばんばひろふみさんが松任谷由実さんに頼んでできた曲が「イチゴ白書をもう一度」です。
この1968年という年は、人類がその知的レベルを一段階上げた年であったのかもしれませんね。その一つのエピソードとして、いちご白書に描かれたコロンビア大学学部長の言葉「大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明がないものなら、イチゴが好きな学生が多数派か否か以上の意味を持たない」があったわけです。
この、理に適った説明を伴わない好き嫌いという感覚は、それほど無意味な話なのかどうか、ということですね。そういえば、「可哀そうな象はなぜ可哀そうなのか」という問題もありました。その答えは、「人々が可哀そうだと思うから」なのですね。この手の好悪の感覚は理屈抜きに重視しなくてはいけない。
この、論理を離れた直観的な感覚は、ニーチェが悲劇の誕生で音楽に対して指摘した感覚にも通ずる。それは、美でもなければ論理でもない、陶酔に近い感覚で、ディオニュソス的であるということ、英雄倫理といえばよいかもしれません。
この時代のもう一つのエポックメーキングな出来事は、ウッドストック音楽祭で、雨に降られた若者たちが得たものと共通いたします。また、月周回軌道のアポロ8号が送ってきた月地平線から昇る地球の姿も、同じ効果を多くの人に与えたのでしょう。(続けます)
(続きです)そこにあるものは言葉や論理では語りつくせない、現実であり、己の身体がまずそこにあるということ。それをこの時代の世界中の若者たち、その中でも特に知的な人々が気づいた。それがいちご白書であり、ウッドストックであり、カルチェラタンであったわけですね。
これはまた、ヒッピームーブメントにも通じるし、親鸞が流配先の越後の地でつかんだものとも共通します。そしてこの思想こそが新しい技術を生み出し、新しい時代を切り開く。なにぶん、言語や論理は、既に知り得た知識にしか働かない。まったく新しいものを生み出すためには、理性を超えた何か、カントに言わせれば悟性、前論理的、前言語的知的作用が要求されるわけですね。
それをこの時代の若者たちがつかんだわけですね。これが、その後の情報通信技術の急速な発展の先駆けになったであろうことは、ジョブズの全地球カタログに対する言葉やウォズニアックがウッドストックの再現を試みたことからも推測されます。
そして今また、1968年と似たような対立が生じている、ということは、人類の知性進化の階段を一つ登った人たちと、未だ下の段にとどまっている人たちの間に対立が生じているということなのでしょう。
まあ、この手の対立は、進化の過程で必ず生じてしまうものかもしれません。かつては、ネアンデルタール人と現生人類は、対立しつつ共生した時期もあるのですから。いずれは一つにまとまっていくと思うのですが。
5/4追記:そういえば、日本でも似たような動きがありました。
レボリューション