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MechaAG氏の”subjedt”再び

MechaAG氏、またしてもsubjectに疑問を呈しておられます。これ、以前も解説したのですが、今回はもっとわかりやすく書いておきましょう。


辞書的な意味

subjectの辞書的な意味は、(1)臣下、(2)主題、(3)教科、(4)被験者、(5)主語、主体、主観、自我、実体、となっています。5番以降にたくさんの単語があるのは、これらぜんぶが5番目の意味だというのでしょうが、少々乱暴なような気もします。

で、subは下という意味なのですが、subjectという単語が上下関係という意味で使われるのは、上の辞書的な意味でも(1)だけ。むしろ、全部が「実体」に近い意味になっています。英語で言えばsubstanceの意味ですね。で、jectは投げるという意味で、stanceは姿勢、足場、態度といった意味。表に現れた外観の下にあるのが本質という意味だと考えれば理解しやすいように思われます。

まあ、投げるというのはちょっとおかしいかもしれませんが、下に石を投げれば本質にぶち当たるという意味ではsubstanceと同じような意味だともいえるでしょう。また、この言葉はobjectと対になる言葉であって、objectが眼前に投射された外界の見え姿を意味するのに対応して、下方向から投射しているのが本質、主体だと考えれば、なんとなく納得がいく話です。

カントによる「コペルニクス的転回」

以前のブログにも書いたのですが、subjectとobjectという言葉の意味は、カントが反転させました。ギリシャ時代には、眼前に実在するモノが実体(subject)で、これが人間精神に投射する姿がobjectだったのですが、カントは「人はモノ自体を知り得ない」とし、人の精神内部の表れが実体であり、人はこれを眼前に投射した形で意識している。人が外界のモノと考えているのは、人間精神による投射物(object)であるというのですね。

カントはこの転回を「コペルニクス的転回」と呼んだのですが、今日「コペルニクス的転回」といえば、「天動説から地動説への転回」を思い浮かべる人が多い。でも、そっちをやったのはコペルニクスですから、「的」なんていうのはおかしいのですね。カントはobjectとsubjectの入れ替えを天動説から地動説に入れ替えたコペルニクスの偉業になぞらえてこう呼んだのですが、なかなかそれがわかってもらえないのは、気の毒な話ではあります。

現代制御理論と脳科学

カントのこの入れ替えは、現象学者には受け継がれたのですが、ブラグマティズムが主流の今日の人びとにはなかなか理解されない。でも、制御の世界や、AI、脳科学の進歩はだんだんとカントの主張を受け入れざるを得ない方向へと世の中を変えております。

人や動物の運動を制御装置の動作と同じ原理で説明するのは、ノバート・ウィナーに始まりますが、カルマンに始まる現代制御理論は、人の脳で何が起こっているかをより詳しく説明することができます。現代の制御装置は、ほとんどがデジタル技術で実現されており、制御装置内に、オブザーバーと呼ばれる、制御対象の物理モデルを持つものも珍しくありません。このモデルに含まれる様々な定数(慣性モーメントや摩擦、外力など)は、制御装置への出力と運動をモニターして、予想された運動からのずれをフィードバックすることで補正され、常に外界の状態を反映するように制御されるのですね。

モデルの形成には、最小二乗法が用いられ、ノイズの抑制も行われる。それは、対象物にあるかもしれない細かな振動も、計測結果から排除してしまいます。つまり、制御装置が見ているのは、装置内部に構成されたオブザーバーの示す量(位置だとか、速度だとか、温度だとかの制御量)であって、外部の量そのものではないのですね。

同様なことは、人や動物も行っている。たとえば、坂井克之著「心の脳科学」の第5章では、視覚情報が脳の中でどのように扱われるかが説明されます。すなわち、視覚情報は、網膜上の位置を保ったまま、V1からV8の8つの領域で処理されます。最初に処理を行うV1は刺激の有無と線の傾きを分析し、V2とV3はさらに複雑な分析を行います。V4は色を処理し、V5は運動を処理するといった形に順々に複雑な処理が行われます。これらは無意識の内に行われ、処理された結果から再構成された外界の見え姿が人の意識にのぼっているのですね。これは、制御装置のオブザーバとそれほど異なるものでもありません。

と、いうわけで

今日の科学技術をきちんと理解すれば、カントが言っていることは、さほどおかしな話でもありません。ところが、カントの主張は、今日の人びとにはなかなか理解されない。

一つ思い当たることは、今日でも中東では宗教を背景としたいさかいが絶えることがない。そして、科学技術が進み、合理的精神が旺盛な欧米においても、神に対する信仰心は今なお盛んなのですね。もちろん、一流の科学者は、神に関しても合理的な理解をする人が多いのですが、一般の人は素朴に神を信じてしまう。そういう社会において、ハイネが「カントは神の首を切り落とす」などと表現した当人の思想を一般化させることは難しいということもよく理解できるのですね。

しかし逆に、カントの思想が一般化した時、おそらく、宗教の違いを原因とするいさかいは、相当程度、沈静化するのではないかと期待しております。まあ、それがそうそう簡単ではないとは思いますが、今日のAIや脳科学の進展を見れば、あるいは、という気がしないこともないのですね。

私が楽観的に過ぎるのかもしれないのですが。

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